あぶない叔父さん
[紹介]
四方を山と海に囲まれ、人々が旧弊に支配される小さな町・霧ヶ町で、なぜか次々と発生する奇妙な殺人事件――寺の次男坊である高校生・斯峨{しが}優斗は、寺の離れに住んでいる叔父さんに色々な相談を持ちかけるが、“なんでも屋”の仕事を通じてたびたび事件に出くわす叔父さんに、事件の話を尋ねてみると……。
- 「失くした御守」
- 町の名家の娘が、厳重に見張られた屋敷の部屋から抜け出して駆け落ち騒動を起こすが、やがて恋人とともに公園の四阿で死体となって発見される。四阿の周囲に積もった雪の上には足跡一つなく、雪が降り止む前に心中したと思われたのだが、どうやら殺人事件らしい。そして、見張りに協力していたという叔父さんは……。
- 「転校生と放火魔」
- 現れた転校生は、中学に上がるときに東京へ越していった優斗の元彼女・明美だった。そのせいで今の彼女・真紀が嫉妬して、頭を抱える優斗。そんな中、町では立て続けに放火事件が発生し、三件目ではついに殺人事件に発展する。その被害者に心当たりがあるという明美の相談を受けた優斗は、叔父さんを頼るが……。
- 「最後の海」
- 病院を経営する一家の次男で、画家を志す優斗の先輩は、父親に期待されて医大に進学した長男が詐欺をはたらいて逃亡したことで、苦しい立場に。そしてある日、父親が神社で首吊り死体となって発見されるが、自殺に見せかけた殺人だと発覚。そして、屋敷にいた家族で犯行時刻のアリバイがないのは先輩ただ一人……。
- 「旧友」
- 株で財産を築いて霧ヶ町に戻ってきた叔父さんの旧友が、屋敷で妻とともに殺害された。犯人が自宅で首を吊っているのが見つかり、事件は解決したと思われたが、事件当日に屋敷で警護を頼まれていた叔父さんらの話を総合すると、犯人が叔父さんらに気づかれずに現場に出入りするのは不可能だったらしいのだ……。
- 「あかずの扉」
- 祭りで予約客が殺到する温泉旅館の手伝いを頼まれた叔父さんと優斗。仕事を終えて展望温泉でくつろいだ優斗だったが、浴場を出た脱衣場で忘れ物に気づき、浴場に取りに戻ってみると、いつの間にか湯船に死体が浮かんでいたのだ。だが、他の出入り口や隠れる場所もない浴場に、死体がどうやって出現したのか……?
- 「藁をも摑む」
- 放課後、校内の図書倉庫から本を運んでいた優斗と明美の目の前に突然、二人の女子生徒が抱き合うような姿で墜落してきた。病院に運ばれたもののやがて絶命した女子生徒たちは、どうやら校舎の屋上から誤って転落したらしいのだが、屋上に積もっていた雪の上にはなぜか、一人分の足跡しかなかったという……。
[感想]
麻耶雄嵩の新作である本書は、メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの探偵役“アブナー伯父”(*1)をもじったと思しき題名の連作短編集です。作者の近作『さよなら神様』・『化石少女』がいずれも独特の趣向を凝らした連作だったのと同じように、本書もまた、決して派手ではないながらもひねくれた企みを盛り込んだ一作となっているのですが、あまり詳しいことを書くと未読の方の興を削いでしまうことになりかねないのが難しいところで、以下の感想もネタバレにならないように気をつけながら控えめに。
本書では、男子高校生・斯峨優斗を語り手として、田舎町で暮らす高校生の日常のあれこれと、“なんでも屋”を営む叔父さんとの温かい交流(苦笑)、そして次々と起きる不可解な殺人事件の顛末が描かれていきます。実のところ、“ワトソン役”たるべき優斗が(ある意味で“ワトソン役”らしからぬ)ごく普通の高校生であることもあって、事件以外の出来事に思いのほか多くの分量が割かれていることに、戸惑いを覚える方も多いと思われますが、まあそこはそれ。
題名だけでなく、横溝正史のシリーズ探偵・金田一耕助を思わせる叔父さんの造形など、全体的にパロディめいたところもありますし、事件の状況やトリックなども含めて一種のバカミスとしての側面もあるのは確かなので、とりあえずはそういう方向で楽しむのがいいのではないでしょうか。前述の“ひねくれた企み”についても、「麻耶雄嵩がまた変なこと考えたなあ」と、ニヤニヤしながら読むのがよろしいかと。
さて、最初の「失くした御守」では、地味に不可能状況が重ねてあるものの、そのトリックには脱力を誘う部分も。しかしこの作品の見どころはそこではなく、やはり思わぬところから“アレ”が出てくる衝撃でしょう。
続く「転校生と放火魔」は、不条理にさえ感じられる怪作。連続放火事件をいかにして解決するかといえば、これはもう定番の“あのテーマ”となるわけですが、実行する側も見抜く側もおかしいネタには唖然とさせられます。
「最後の海」は、一見するとかなりオーソドックスのようでもありながら、油断していると突然の急展開に足下をすくわれ、炸裂するバカトリックに打ちのめされます。ある手がかりの意味と、強力なミスディレクションが秀逸。
次の「旧友」は、本書の中の個人的ベストというか、一篇抜き出すならこの作品。トリックや真相をどうやって成立させるかという部分が鮮やかですし、物語と謎解きの接点が本書を象徴するような形になっている感があります。
温泉旅館を舞台にした「あかずの扉」では、ついに優斗が事件に巻き込まれることに。ある部分についてかなりわかりやすい手がかりが示されている一方、いくら何でも予想外すぎるバカトリックが愉快です。
最後の「藁をも摑む」はまた変な作品。ミステリとしては“なぜ○○のか?(文字数は適当)”という風変わりな謎が目を引きますが、それ以上に(理由もないではないとはいえ)唐突な展開とその決着、そして終盤の叔父さんの台詞が、実に凄まじい印象を残します。
読んでいくうちにニヤニヤしているだけではすまなくなり、『化石少女』にも通じる居心地の悪さ(*2)が高まってくるのは、おそらく作者の狙いどおり。麻耶雄嵩の作品としては珍しく、必ずしも“強烈”ではなく、むしろ“じわじわくる”一冊というのが適切でしょうが、それでも麻耶雄嵩らしい味わいの一つは十分に表れているといえるでしょう。間違いなく――麻耶雄嵩ファンの間でさえ――好みが分かれると思われますが、ほぼ唯一無二の変なミステリであることは確かなので、一読の価値はある……かもしれません。
2015.04.23読了 [麻耶雄嵩]
死への疾走 Run to Death
[注意]
本書は、演劇プロデューサーのピーター・ダルースを主役とするシリーズの後期の作品です。このシリーズは、できるだけ予備知識なしで順番に読む方が楽しめると思いますので、まだ本書以前の作品を読んでいないという方は、以下の[紹介]及び[感想]にもご注意ください。
個人的には、本書より前に少なくとも、第一作『迷走パズル』と第二作『俳優パズル』、それから本書の前作『巡礼者パズル』を読んでおくことをおすすめします。
[紹介]
妻アイリスが映画の仕事でハリウッドに旅立ち、一人メキシコに残ったピーター・ダルースは、観光でユカタンのマヤ遺跡〈チチェン・イッツァ〉に向かう途中、謎めいた美女デボラと出会う。時おり何かに怯えた様子を見せる彼女とともに、現地のホテルに到着したピーターは、そこで数人のアメリカ人観光客と顔を合わせる。その中にデボラが恐れる人物がいるのか? そして翌朝、遺跡めぐりの最中に、〈生贄の泉〉と呼ばれる自然の井戸にデボラが転落死してしまう。彼女の死に疑問を抱きながらも、メキシコシティに戻ってきたピーターだったが、今度はピーター自身に何者かの魔の手が迫り……。
[感想]
ピーター・ダルースを主役としたシリーズで最後の未訳長編の、待望の邦訳となる本書ですが、シリーズのファンとしては、楽しみながらも同時に若干の困惑を覚えた作品でもあります(*1)。巻末の解説で飯城勇三氏は、主に作風の変遷に着目して、本書を“〈パズル・シリーズ〉と『女郎蜘蛛』『わが子は殺人者』の間をつなぐ、ミッシング・リンク的な作”
としていますが、しかしその一方で、(極端な表現をすれば)物語としては前作『巡礼者パズル』と次作『女郎蜘蛛』をつなぐ“ミッシング・リンク”になっていないのが、何とも奇妙に感じられます。
というのも、いわばシリーズ中の一大事であった前作『巡礼者パズル』の、“あの結末”からどのようにして次作『女郎蜘蛛』の状態に至るのか、読者としては当然気になるところなのですが、しかし本書では『悪魔パズル』と同様にアイリスがほぼ不在、その間にピーターが一人で事件に巻き込まれる形で、“あの結末”の後の話は序盤にごくさらりと言及されているにすぎません。これについて解説では、“作者は、そんなものを描く気はなかったのだ。これもまた、深刻さを避けようとする作者の方針によるものなのだろう。”
とされていますが、解説を読んでいくうちに“深刻さを避けようとする”
以外の理由もあるように思えてきたので、しばし脱線してその話を。
飯城勇三氏は本書の解説で、〈パズル・シリーズ〉におけるピーターの役割を“自分が属する大グループの中に存在する小グループのメンバーを突きとめること”
とした上で、本書以降の作品で作者は“探偵役を、この小グループの中にも立たせようとした”
――探偵役を“事件の“中”に立たせる”
試みから“事件の“中心”に立たせる”
試みへの移行――と指摘しています。この、作風の変遷に関する指摘にはなるほどと思わされましたが、しかしその新たな試みは、すでに〈パズル・シリーズ〉の途中から――具体的には『悪魔パズル』から徐々に始まっていたという見方もできるように思われます。
〈パズル・シリーズ〉に本書と『女郎蜘蛛』を加えた全八作を改めて振り返ってみると、『迷走パズル』から『悪女パズル』までの前半四作と、『悪魔パズル』から『女郎蜘蛛』までの後半四作との間に、顕著な違いがあるのが目を引きます。それはピーターの妻(となる)アイリスの扱いで、前半四作ではピーターとともに物語の主役をつとめていたのが、後半四作ではまず出番が大幅に減っている(*2)上に、登場しても“主演女優”とはいい難い立場となっており、前半四作と比べると“冷遇”といってもよさそうな状態なのですが、これは一つには(*3)、探偵役たるピーターを“事件の“中心””
に立たせる試みの表れといえるのではないでしょうか。
前半四作と同じような状態では、“探偵役を、この小グループの中にも立たせようと”
しても、その中にさらにダルース夫妻という強固な“小グループ”が形成されてしまい、効果が減じられかねません。作者はそれを避けるために、アイリスをピーターから切り離そうとした――『悪魔パズル』では、アイリスを物理的に遠ざけてピーターだけを“小グループ”に放り込んだ(*4)/『巡礼者パズル』では、アイリスを心理的に遠ざけることで、各人が相互にほぼ“等距離”の“小グループ”を構成した/『女郎蜘蛛』では、前半でアイリスを物理的に遠ざけておいて、後半では『巡礼者パズル』を裏返した形で心理的に遠ざけた(*5)――と考えることができるでしょう。
そして本書の場合には、『巡礼者パズル』の真相を受けた“あの結末”から、(一応伏せ字)二人の関係の修復(ここまで)につながるべきところ、その過程を作中でじっくり描こうとすると、事件と乖離した“ダルース夫妻の物語”に引っ張られて、ピーターを“事件の“中心””
に立たせるのが難しくなってしまいます。そのために作者は、アイリスを登場させることなく、“ダルース夫妻の物語”を“すでに済んだ話”――事件の前日談とすることで、ピーターが“事件の“中心””
に立つことができる状況を整えたのではないかと思われるのですが……。
……というわけで、ようやく本書の話。謎の美女デボラとの出会いからピーターが事件に巻き込まれていく、謎解きよりもサスペンスの趣が強い作品で、そのデボラがいきなり不慮の死を遂げるのはショッキングですが(*6)、ユカタンからメキシコシティ、そしてニューオリンズへと(異国情緒豊かな情景描写とともに)次々に舞台が移るところや、ピーターが襲いくる魔の手をかわす/反撃するちょっとしたアクションなどもあって、全体的に軽快な印象を受けます。また、ミステリ本(クレイグ・ライス『大はずれ殺人事件』のポケット判)が小道具として使われるのも面白いところです。
ピーターは事件に巻き込まれた立場ではありますが、デボラが早々に命を落とした後は、デボラに代わってピーター自身が狙われるようになり、“標的の後釜”の立場に収まることで、まったく事情がわからないながらもある意味“事件の“中心””
に立つことになっているのがうまいところです。そして、デボラが抱えていた秘密もさることながら、顔見知りになった“小グループ”の中で――ごく限られた人数の中で“誰が敵なのか?”という謎で読者を引っ張り、最後まで読ませるのがさすがクェンティンといったところで、かなり大胆な真相も鮮やかです。推理による謎解きの要素は薄いですが、シリーズのファンであれば十分に楽しめる一作でしょう。
“この作品をどう評価すべきか悩んでいる。(中略)作品の位置付けが難しいのだ。”といったところから始まっています。
*2: 『悪魔パズル』と本書のほぼ全編、そして『女郎蜘蛛』の前半でアイリスは不在ですし、『巡礼者パズル』でもピーターとは別行動が多くなっています。
*3: 単純に新たなヒロインを登場させる、という意図もあったのかもしれませんが……。
*4: しかも、ピーターは記憶を失って(読者には明らかなものの)自分が誰かわからない状態なので、その視点では
“事件の“中心””に近いところに位置しているといえるでしょう。
*5: 前半で不在だったアイリスは、直接の事件関係者とはなり得ない――“事件の“外””に立っている――のも見逃せないところです。
*6: 現場の〈生贄の泉〉は、かつて若い娘たちが生贄として放り込まれていたという遺跡で、転落死を遂げたデボラがそこに重ねられているのが印象的です。
[パトリック・クェンティン]
【関連】 『迷走パズル』 『俳優パズル』 『人形パズル』 『悪女パズル』 『悪魔パズル』 『巡礼者パズル』 『女郎蜘蛛』
生け贄
[紹介]
高知県を訪れた植物写真家・猫田夏海は、撮影中に不慮の怪我を負い、漁村にある宗教団体・白崇教の施設に滞在することになった。アルビノの初代教主・明神真毅が立ち上げた白崇教は、“タイガ”と呼ばれるアルビノのサメを神として崇める教団だったが、ある夜、密室状態の拝殿の奥にある本殿で、二代目教主・明神弓子が刺殺される事件が起きる。さらにその翌晩には教主の息子・昌武が、下半身を食いちぎられたような死体となって海に浮かぶ。ようやく猫田と連絡がついて現場を訪れた〈観察者〉鳶山が解き明かす、奇怪な事件の真相、そして教団に隠された秘密とは……?
[感想]
〈観察者〉鳶山久志と植物写真家・猫田夏海のコンビが登場するシリーズ最新作となる本書は、シリーズとしては『樹霊』以来九年ぶりの長編(*1)です。短編集の『物の怪』と『憑き物』ではオカルト風の怪現象を生物学の知識で解体していくスタイルでしたが、本書ではその生物学ネタを取り込む形で複合的な謎が組み立てられているのが見どころ。また、巻頭に教主一族の家系図や教団施設の見取図も付されるなど、そこはかとなく(いわくありげな一族の住む“邸”を舞台にした)古典的なミステリの趣もあります。
物語は、膝に怪我を負って白崇教の施設に身を寄せる猫田夏海の視点と、彼女の世話をする現教主の孫娘・明神純の視点で進んでいきます。これは、猫田が自由に動けないために“ワトソン代理”が必要なこともあるのでしょうが、“主役”に据えられた純の内面がじっくり描かれているのが印象的。教団内では、純の双子の姉・雅が次期教主と目されているのに対して、冷遇されているといってもいい立場の純は強い劣等感を抱えて苦悩していますが、その背景に、双子でありながら雅だけがアルビノであるという、(白崇教ならではの)宗教ゆえの事情があるところがなおさら不憫です。
そんな中で起きる密室状況での教主殺害事件ですが、“密室”とはいっても現場そのものは(監視された通路を介して)開けた海上にあり(*2)、“タイガ”の怒りを恐れる白崇教の教徒のみにとっての、“特殊心理”による密室となっているのがまず面白いところです。もっとも、密室トリック自体はあまり面白味があるとはいえないのですが、第一発見者となった純が密室状況のせいで疑われるなど、物語の中での扱い方がなかなかよくできていると思います。そして、“タイガ”の仕業であるかのような第二の事件、さらには純らが目撃した“座敷わらし”や“ドッペルゲンガー”など、ホラー風の味つけがされた謎の数々も魅力です。
〈観察者〉鳶山の登場は物語も半ばを過ぎてからですが、猫田から話を聞くなり思わぬところに着目しているのが目を引きます。このあたりも含めて、本書での鳶山は手がかりをもとにした推理を積み重ねるというよりも、不可解な点を説明できる仮説を思いついてからそれを補強する材料を探す、という順序で真相に迫っている節がある(*3)のですが、これは手がかりを示しづらいところのある真相の性質からしてやむを得ないところ。というわけで、手がかりがやや不足気味になっているのは否めませんが、むしろ鳶山の着眼点こそが読者に向けた手がかりといえるのではないでしょうか。
いずれにしても、数々の謎が次から次へと解き明かされていく終盤は圧巻。一つ一つの真相は少々小粒に感じられたり、ある程度予想できる部分があったりもするものの、それらを巧みに組み合わせて形作られる教団の秘密はなかなか強烈ですし、色々なことに辻褄が合って腑に落ちる感覚も十分。そして、講談社ノベルスに移ってからの“お約束”ともいえる後味の悪い結末は、事前にほぼ見えてしまうだけに救いのなさが際立っている感があります。ミステリとしてはやや変則的で風変わりな印象もありますが、よくできた作品であることは確かでしょう。
2015.05.27読了 [鳥飼否宇]
【関連】 『物の怪』 『憑き物』 / その他〈観察者シリーズ〉
泰平ヨンの未来学会議 〔改訳版〕 Kongres Futurologiczny
[紹介]
コスタリカで開かれる世界未来学会議に出席した泰平ヨン。増加の一途をたどる世界の人口問題について討議をするはずが、会議の最中にテロ事件が勃発し、それを鎮圧しようとする軍の作戦に巻き込まれてしまう。投下された爆弾から拡散した薬物を吸い込んで幻覚に襲われたかと思えば、ホテル地下の下水道から決死の脱出と逃避行を余儀なくされ、果ては重傷を負った末に冷凍睡眠を施されて未来世界へたどり着くことに。かくして泰平ヨンが目覚めたその世界は、295億もの人口を抱えながら精神化学{サイコケミストリー}のおかげで紛争一つ生じない、奇妙なユートピアだった……。
[感想]
『泰平ヨンの航星日記』・『泰平ヨンの回想記』(ハヤカワ文庫SF・入手困難)に続く〈泰平ヨン・シリーズ〉の第三作で、『コングレス未来学会議』の題名で映画化され(*1)、その日本での公開に合わせるように改訳・復刊されました。泰平ヨンが宇宙飛行士として活躍した『泰平ヨンの航星日記』から打って変わって地球上での物語となっていますが、鋭い風刺を一見ユーモラスにも思えるドタバタで表現する、ブラックユーモアSFといった感じの作風は同様です。
頁数は決して多くないものの、改行が少なく文章がぎっしり詰まった一人称の語りで進んでいく物語は、序盤からかなりハイペース。次々と奇天烈な対策が発表される“未来学会議”の様子からして、学術会議のイメージとは程遠く(?)やけにバタバタした印象になっているのですが、さらにテロ事件など矢継ぎ早に起きるめまぐるしい騒動に、薬物による真に迫った幻覚までもが加わって、ついていくのに少々苦労するほど大変な事態になっていきます。ついには冷凍睡眠を経て未来世界に至る、とんでもない展開には苦笑せざるを得ません。
その未来世界――作中の年代では2039年――で目覚めた泰平ヨンは、数十年の間にがらりと変貌した社会の姿(*2)に戸惑いながら、新たな生活を始めることになります。世界を支えているのは、薬物で精神をコントロールする“精神化学{サイコケミストリー}”で、序盤に登場する各種の“薬物爆弾”をより発展させたようなものであるため、読者も比較的すんなりと受け入れやすくなっているのが巧妙。知識でさえも薬物によって身に着けることが可能で、かの小林製薬(*3)もびっくり(?)の珍妙な薬品名が次から次へと登場してくるのが愉快ですが、同時に訳者の苦労もしのばれるところです。
冒頭の世界未来学会議では、人口問題を解決するために破れかぶれのようなアイデアが提示されていましたが、泰平ヨンが目にした未来世界は、その膨大な人口にもかかわらずうまくやっている――人口問題が解決された一種のユートピアとして描かれています。が、レムがそうそう“うまい話”を書くはずもなく、終盤にきて泰平ヨンに明かされる世界の秘密は、ある程度予想できていてもやはり凄まじいものがあります(*4)。“人口問題の解決”というただ一点を除いてユートピアがディストピアに反転するといっても過言ではなく、最終的にはそうでもしなければ……という警鐘として受け止めるべきなのでしょう。
物語の結末は、特に(一応伏せ字)本書の後も〈泰平ヨン・シリーズ〉が続いている(ここまで)ことを踏まえれば、これまたおおよそ見当がついてしまうきらいがありますが、そもそも本書では、どちらかといえばストーリーよりも“何が、どのように描かれるか”が重要といえるのではないでしょうか。豊富に盛り込まれた奇怪なアイデアに驚嘆させられつつ、それによって生み出されるブラックなユーモアにニヤリとさせられ、そして軸となっている文明風刺に考えさせられる、短いながらも実に読みごたえのある作品です。
“しかし、立派に『未来学会議』の映画化作品である。”(「文庫版へのあとがき」より)とのこと。
*2: 社会/文化の変貌を反映した言語の変容(一見意味不明な新語の発生)にも興味深いものがありますが、後にそれを逆転させた“言語予知学”というアイデアが登場してくるのが実に面白いところです。
*3: 例えば「小林製薬のネーミングセンスが抜群すぎる - NAVER まとめ」などを参照。
*4: その中で、人々がしょっちゅう息を切らしている理由には、思わず唖然とさせられました。
2015.06.09読了 [スタニスワフ・レム]
【関連】 『泰平ヨンの航星日記』
ミステリー・アリーナ
[紹介]
折からの豪雨の中、今年もいつものメンバーが年次会のために鞠子の別荘に集まった。だが、少し遅れてやってきた丸茂によれば、途中の川に架かった橋が濁流で冠水し、通行止めになってしまったという。陸の孤島と化した別荘で、思わぬ殺人事件が起きる。女主人の鞠子が四階の自室で、背中をナイフで刺されて死んでいたのだ。気心の知れた仲間たちしかいないはずなのに、一体誰が? さらに、不可解な事実が少しずつ明らかになり――事件の謎に挑むのは、いずれも腕に覚えのあるミステリマニアばかり。はたして、次から次へと意外な“解決”が示されていくが……。
[感想]
深水黎一郎の新作となるノンシリーズの長編で、帯などに“多重解決の極北”
と謳われているように、一つの事件に対して複数の“解決”を提示する多重解決の趣向を前面に出した一作です。実に十五通りもの“解決”が用意されている(*1)のもさることながら、その中で非常にユニークな試みがなされているのが秀逸で、質量ともに(*2)多重解決ものの一つの頂点といっても過言ではない傑作です。
アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』に代表される多重解決、すなわち一つの事件(謎)に対して複数の解決を示す趣向は、ミステリにおける解決の相対化――“たった一つの結論しか導き出されない”ミステリへの批評を目的として生み出されたようですが、それでも最終的な“真相”――たった一つの結論を求めるのがミステリ読者の大勢であることもあって、完全にパラレルな解決を示して(リドルストーリー風に)終わる作品は多くはありません(*3)。むしろ、複数の“解決”が重ねられることによるどんでん返し的な面白さを重視する方が主流といえるのではないでしょうか(*4)。
多重解決の形式は、複数の探偵役が同等の情報を手にした状態で解決が示されるものと、本書のように情報が追加されることで新たな解決が生み出されるものとに大別することができますが、私見ではどちらもそれぞれに一長一短があるように思われます。後者のタイプでいえば、異なる情報をもとにして異なる解決が示されるところに説得力がある(*5)一方で、いわゆる“後期クイーン問題”(*6)を抜きにしても、残り頁数のわかる読者にとっては“早すぎる解決”であることが見えてしまい、ややもすると拙速な印象を与えかねないところがあるのは否めません。
……といったようなことを念頭に置いておくと、本書をより楽しめる……かもしれません。とにかく、本書の具体的な内容にはあまり言及しない方がいいと思われる(*7)ので、難しいところではありますが、とりあえず漠然とした表現をしてみると、多重解決を自然に成立させる工夫が色々と凝らされているのが本書の最大の特徴です。まずは発想の勝利であることは確かですが、さらにそれを具体的な形で実現させた手腕と労力には、脱帽せざるを得ません。また、多重解決の形式それ自体がプロットと強固に一体化しているところも、“頂点”たる所以の一つです。
もちろん、個々の“解決”にもそれぞれに力が注がれていて、いわば“意外な犯人博覧会”となっているのが非常に面白いところです。それゆえに予想しやすくなっている部分もないではないですが、最後まで様々なパターンで読ませてくれるのは間違いありません。と同時に、“解決”そのものだけではなく、それが示されるたびに繰り広げられるあくの強い人物たちの応酬も見どころで、読んでいて思わずニヤリとせずにはいられません。ややマニアックではあるかもしれませんが、ミステリファンにはぜひとも読んでいただきたい――そしてできれば自分なりの“解決”に挑んでいただきたい一作です。
“帯には《多重解決の極北》とありますが、実は十五重解決です。多重解決の傑作と言えばバークリーの『毒入りチョコレート事件』(八重解決)ですが、その倍を目指しました〈一個足りなかったけど)。”(作者のtwitterより)。
*2: ちなみに、一冊あたりの解決の数では霞流一『首断ち六地蔵』の方が多いですが、そちらは連作短編なので、一つの事件あたりの解決の数では本書に軍配が上がります。
*3: 典型的な例としては、某国内作家((作家名)貫井徳朗(ここまで))の長編((作家名)『プリズム』(ここまで))があります。
*4: その中にあって、三津田信三の〈刀城言耶シリーズ〉では真相に至る手段として“一人多重解決”が展開され、また円居挽の〈ルヴォワール・シリーズ〉では解決を提示し合うことによる“勝負”に重きが置かれるなど、多重解決をやや趣の違った形で扱った作品もあります。
*5: 逆に、同等の情報から異なる解決が示されるタイプでは往々にして、それぞれの推理/解決の説得力が相対的に低下するか、もしくは解決を誤った探偵役の“手落ち”が強調されることになってしまう傾向があるように思います(解決の相対化を狙った作品であれば、それでもかまわないのかもしれませんが……)。
*6: 「後期クイーン的問題#第一の問題 - Wikipedia」を参照。
*7: 上の[紹介]もだいぶ苦労しています。
2015.06.25読了 [深水黎一郎]