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 ジロンド派没落  

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7.ジロンド派没落
  1. 対外政策ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
  2. 経済不安イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。
  3. 軍事問題1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。
  4. ジロンド派の終焉国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。

i. 対外政策

一言で説明すると…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。

対外政策

対外政策の主導権はジロンド派が握りました。多少、時間的に前後しますが、いくつかの戦争結果を見てみましょう。

1792年9月20日 ヴァルミーでプロシア軍を破る。

11月6日  デュムーリエの指揮でオーストリア軍を破る。これはヴァルミーの戦いとは違い、革命軍が正々堂々と戦いを挑んで勝利を収めた最初の戦いでした。

戦勝は続きます。しかし、占領地をどうするのかと言う問題が発生しました。

  1. 占領地の旧制度を破壊するのは異議がないものの、占領地の独立を認めるべきなのか、それともフランスに合併するべきなのでしょうか。
  2. フランス軍の費用は誰が捻出するのでしょうか。フランスでしょうか、占領地でしょうか。
これらは、革命を他国にまで広げようとするときの自己矛盾です。一歩間違えれば征服戦争になってしまうからです。国民公会もこのことには神経を尖らせました。彼らは征服ではなく、講和を求めました。

講和の条件

講和の条件としてプロシアは

  1. 帝国領からフランス軍を撤退させること。
  2. ルイ16世(処刑前の話です)とその家族の生命を保証すること。
オーストリアは
  1. 国王一家を釈放し、国境へ国王一家を送ってくること。
  2. 8月4日の封建制度廃止令によって侵害されたドイツの君主達にその損害の賠償をすること。
などを要求してきました。ジロンド派が本当に講和を望んでいたのならば、国民の利益のために裏切り者の国王を許す、という態度を取れたはずです。ポーランド問題に頭を痛めていた両国は、すぐ交渉に応じたに違いありませんが、ジロンド派は、そのような思いきった政策を出すことができませんでした。

それどころか、11月19日、「自由の回復を望む諸国民に友愛と平和を援助する」宣言をし、サヴォワの合併ベルギー征服への道を開いたのでした。


30万動員令

1793年1月1日、国民公会は24名からなる国防委員会(後の公安委員会)を設置しました。行政権を強化するため、軍を統制することが重要な目的でした。しかし、軍の状態は芳しくありませんでした。給与が充分に与えられない兵士は、法律に基づきどんどん帰郷していました。1792年12月には40万の兵士がいましたが、1793年3月には22万8千人になっていました。

1793年2月24日、国民公会は兵士の不足を補うため、30万人動員令を可決しました。しかし、思ったほど良質な兵士は集まりませんでした。その理由を知りたい方はこちらへどうぞ

第一次対仏同盟 the First Coalition

イギリスの首相ピットは、フランスがベルギーに侵入したのを見て、態度を硬化させました。さらにルイ16世の処刑はイギリスに参戦の口実を与え、フランス向けの商品輸出を停止しました。

1793年2月1日、国民公会はブリッソーの提案に基づいて、イギリスとオランダに宣戦布告をしました。

ついで3月7日スペインにも宣戦布告しました。ローマ法王、ナポリ、トスカナ、ヴェネチアとも国交断絶し、フランスはスイスとスカンジナビア諸国を除いた全ヨーロッパと交戦さぜるを得ない状態になりました。まさに四面楚歌です。

フランスに敵対する諸国は、イギリスを中心に第一次対仏同盟を結成しました。対仏同盟は以後20年にわたって前後7回結成され、執拗に反仏活動を続けました。



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iii.軍事問題
ivジロンド派の終焉