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一言で説明すると…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。 |
対外政策の主導権はジロンド派が握りました。多少、時間的に前後しますが、いくつかの戦争結果を見てみましょう。
1792年9月20日 ヴァルミーでプロシア軍を破る。
11月6日 デュムーリエの指揮でオーストリア軍を破る。これはヴァルミーの戦いとは違い、革命軍が正々堂々と戦いを挑んで勝利を収めた最初の戦いでした。
戦勝は続きます。しかし、占領地をどうするのかと言う問題が発生しました。
講和の条件としてプロシアは
それどころか、11月19日、「自由の回復を望む諸国民に友愛と平和を援助する」宣言をし、サヴォワの合併とベルギー征服への道を開いたのでした。
1793年1月1日、国民公会は24名からなる国防委員会(後の公安委員会)を設置しました。行政権を強化するため、軍を統制することが重要な目的でした。しかし、軍の状態は芳しくありませんでした。給与が充分に与えられない兵士は、法律に基づきどんどん帰郷していました。1792年12月には40万の兵士がいましたが、1793年3月には22万8千人になっていました。
1793年2月24日、国民公会は兵士の不足を補うため、30万人動員令を可決しました。しかし、思ったほど良質な兵士は集まりませんでした。(その理由を知りたい方はこちらへどうぞ)イギリスの首相ピットは、フランスがベルギーに侵入したのを見て、態度を硬化させました。さらにルイ16世の処刑はイギリスに参戦の口実を与え、フランス向けの商品輸出を停止しました。
1793年2月1日、国民公会はブリッソーの提案に基づいて、イギリスとオランダに宣戦布告をしました。
ついで3月7日、スペインにも宣戦布告しました。ローマ法王、ナポリ、トスカナ、ヴェネチアとも国交断絶し、フランスはスイスとスカンジナビア諸国を除いた全ヨーロッパと交戦さぜるを得ない状態になりました。まさに四面楚歌です。
フランスに敵対する諸国は、イギリスを中心に第一次対仏同盟を結成しました。対仏同盟は以後20年にわたって前後7回結成され、執拗に反仏活動を続けました。
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