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一言で説明すると…1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。 |
立憲議会とは、三部会召集の時、第三身分を中心に作った国民議会のことです。国民議会は「憲法が制定されるまで決して解散しない」とテニスコートで誓ったように、憲法制定がその主な目的でしたから、「立憲議会」とも言われます。
1791年、フイヤン派を中心にして作られた憲法が可決されましたので、その 責務は終わりました。9月30日、立憲議会は「国王万歳!」を繰り返し解散しました。
立憲議会の二年半でそれぞれの階級がそれぞれの考え方を固めました。具体的に見てみましょう。
立憲議会は会期の終わり、現職の議員は続く「立法議会」の議員にはなれないことを決定しました。これはバルナーヴを中心としたフイヤン派を抑えるためです。右翼もっと保守的な憲法を望み、ロベスピエールを中心とする左翼はもっと民主的な憲法を望み、両者で協力してフイヤン派を攻撃したからです。
したがって、立法議会の議員は全て新人です。しかも大多数が二十歳代の青年でした。全議員754人の構成を見てみましょう。
この両派の対立は戦争の賛否によって深められていきます。この対立もフランス革命史の中では非常に興味深いものです。
1791年の憲法にのっとり、「国民の代表者」の国王は「フランスの王」から「フランス人の王」になりました。後に触れますが、表面的には議会を認めたものの、いくつかの重要な法令に拒否権を発動し、議会との対立を深めます。
その一方、裏の取引も行っていました。1791年4月、ミラボーが急死してから、パルナーヴ、デュポールなどの三頭派と秘密の取引をしていました。王と王妃(実際は王妃です)は三頭派の忠告を聞くふりをしながら、内心では憲法を認めませんでした。その上、王妃は愛人フェルセンを通じてヨーロッパ諸国に働きかけ、フランスに宣戦するよう依頼してました。
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