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一言で説明すると…外敵や反革命派に対する恐怖から、民衆はパリの監獄を襲い、反革命派の疑いのある囚人を虐殺します。そして、その興奮の中、フランスはヨーロッパ随一の軍隊プロシア軍をヴァルミーで破ります。 |
プロシア軍が8月16日に国境を超えました。23日にはプロシア国境に近いロンウィが陥落しました。
8月28日、パリ・コミューンは反革命の容疑のある市民から武器を取上げるために、家宅捜索を行うことを命令し、議会は承認しました。容疑者の探索が二日間にわたり行われ、3,000人が逮捕投獄されました。
プロシア軍は、30日には、パリへの最後の砦であるヴェルダンを包囲しました。そのヴェルダンも2日以上は持たないだろうと言われていました。また、ヴァンデその他では王党派の蜂起が始まりました。パリには恐怖が走ります。
9月2日の朝、ヴェルダン包囲の知らせが届きました。パリ・コミューンは次のような布告を出しました。
「市民諸君。武器を取れ。敵が市門に迫った。ただちに諸君の旗を掲げて進め。シャン・ド・マルスに集合せよ」
ダントンは議会で熱弁を奮いました。
「今鳴っている警鐘は警戒の合図ではなく、祖国の敵への攻撃の合図である。敵を倒すためには、勇気が、さらに勇気が、常に勇気が必要なのだ。そうすればフランスは救われる」
太鼓と警鐘が鳴り、市門は閉ざされ、義勇兵はシャン・ド・マルスに集まりました。そこで彼らはマラーの檄文を読みました。
「牢獄に行き、人民の敵をこらしめてからでないと出発してはいけない」
大勢の連盟兵が国境に向かって出発した後、獄中にいる反革命分子が蜂起するだろう、という噂が広まっていました。「敵は牢獄にあり」というわけです。
9月2日午後から虐殺が始まりました。6日まで続きました。
投獄されていた宣誓拒否僧侶達は、連盟兵や市民の手で虐殺されたのです。死者は1100人から1400人と言われています。
コミューンは虐殺を正当化する次のような文書を各県に報告し、ダントンが副署しました。
「牢獄に拘禁されている凶悪な陰謀家の一部は民衆によって処刑された。これから民衆が敵に向かって進軍しようとしているとき、牢獄の中に隠れた裏切り者を恐怖で抑制するために、これは必要で正当な行為である。」
また、ブルジョワの一人の女性は夫に宛てて次のような手紙を書いています。
「民衆は立ちあがりました。怒りにふるえる民衆は3年間の最も恥ずべき裏切りに対して報復しているのです。私は安心して叫びます。『勝利は私達のものである』と」
悪名高い9月虐殺はこの場では民衆に受け入れられました。外敵と反革命分子から追い詰められたと感じている民衆の本能的な抵抗だったのです。
ブラウンシュヴァイク公率いるプロシア軍は9月2日にヴェルダンを陥落し、パリに向かっていました。今までの戦いで見せたフランス軍の醜態からすれば、防衛は絶望的でした。10月の初めにはパリに入るだろう、と外国は予想していました。
ブラウンシュヴァンク公は当然ながらフランスを甘く見て、すばやい行動を取りませんでした。その間に、中部戦線司令官のケラーマンと北部戦線司令官のデュムーリエとが合流し、5万の兵が結集しました。対するプロシア軍は3万4千です。
9月20日、ヴァルミーで砲撃戦が始まりました。ブラウンシュヴァンク公は、君主のいないような軍隊は大砲の音だけで敗走するものと予想していました。しかし、サン・キュロットの軍隊はたじろぎません。多少の混乱はありましたが、勇敢に戦い、ケラーマンは剣の先に帽子をつけ、高く掲げながら「国民万歳!」と叫びました。この叫びは大隊から大隊へと繰り返され、ブラウンシュヴァイク公は突撃を命ずることができませんでした。
夕方、豪雨になりました。戦闘は終わりました。両軍の損傷はほとんどありませんでしたが、プロシア軍はこの後、泥の中で食糧、飲料水の欠乏と赤痢に苦しみながら惨憺たる退却をしました。
プロシア軍に従軍していたゲーテは、 「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」 と書き記しました。
ヴァルミーの勝利の翌日は、立法議会にかわる新しい憲法制定議会、すなわち国民公会の成立した日となりました。
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