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一言で説明すると…イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。 |
前年の1792年の収穫は悪くはありませんでした。しかし、8月10日以後、財産家や商人に対する民衆の攻撃(食糧暴動)が激しくなるにつれて、食糧の市場への出まわりはかえって悪くなり、値上がりにつながりました。小麦の価格は地方によってかなりのばらつきが出、パンの入手が困難になりました。
地方では黒パンが1リーブルあたり7〜8スーしますが、貧しい労働者は一日働いて賃金がようやく9〜10スーでした。これでは、生きていくことすら困難です。
アッシニア紙幣の下落 x軸は年、y軸は%で表した信用度 |
四面楚歌のフランスが生き延びるためには財政の立て直しが必要でした。そして、そのためにフランスに残された手立ては、アッシニアの無制限発行しかありませんでした。
対外情勢に対する不安や深刻な食糧事情などから、アッシニアの信用は下降の一途をたどり、1793年に入ってからは22%にまで落ち込みます。つまり、アッシニアの額面金額の22%でしか市場では通用しなくなってしまったのです。
アッシニアが下落すると人々は商品の買占めを始めます。買占めの対象は、当然日々の食糧、小麦です。日本のお米と同じように、小麦の価格は他の物価の基準になり、小麦が異常に騰貴すると経済に大きな影響を及ぼします。
パリコミューンは小麦を中心とした穀物の最高価格制定の請願書を出しました。国民公会はジロンド派の強い反対を押し切って、穀物の最高価格法を制定します。この法律は、農民と消費者とを市場で直結させ、中間の商人を排除しようと言うものです。
この法律の制定は不可避のものでしたが、穀物についてだけの規制であり、徹底性に欠けました。全最高価格法が制定されるのは、ジロンド派が追放されてからのことです。
とは言うものの、小麦の不足は解決されません。パンが手に入りにくくなり、人々の心はすさんでいきます。このように民衆の生活が困窮されていくと、過激派と呼ばれる集団が生まれました。
民衆の生活苦を背景として、過激派(アンラージュ=狂人)と呼ばれる集団が出てきました。司祭のジャック・ルー、郵便局員のジャン・ヴァルレなどが代表です。この二人はかなり豊かな家の出身ですが、議員にはなれず、貧しい労働者に向かって街頭演説を繰り返し、人気を得ました。
過激派は買占め人、投機業者、財産家を目の敵とし、議会に迫って彼らの処罰と物価の統制、配給制を実施させようとしました。そのために、買占め人などを襲撃したり、運搬途中の物資を略奪したりして、手に入れた物資を安価で分配したのです。
ジロンド派の根本思想は何と言っても「商業の自由」と「所有権の確保」です。その立場に立って、内務大臣のロランは食糧暴動を非難しながら次のような発言をしました。
「議会は何もすべきではない。何もしないことだけが食糧問題を解決するだろう」
また、ジロンド派指導者のブリッソーはこのように言ってます。
「秩序の維持が何よりも必要である。共和国の敵は今や『無政府状態』である」
これでは生活苦にあえぐ人々には何の救いにもなりません。
ロベスピエールは言いました。
「権利の内の第一のものは『生存する権利』である。他の全ての法は『生存する権利』に従属する」
もちろん、商業の自由も大事である、という立場は変わりません。ただし、生きるか死ぬかというような時には、商業の自由は遠慮すべきである、という現実的な考えを持ち出しました。つまり、生存を商業の自由の上に位置したのです。
パリのコミューンを地盤とする山岳派は、ジロンド派と闘うために過激派に対しても理解を示しました。
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