人物スケッ チ た行


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フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。



ディートリッシュ、フレデリック男爵 1748-1793 (H11.3.19.UP)
Dietrich

「ラ・マルセイエーズ」の作曲を依頼したストラスブールの市長。

下ライン製鉄所の創始者の父と共に若いときから働いた。父親のジャンはルイ15世とドイツ皇帝から爵位を授かっている。

フレデリック自身は地質学者、経済学者としても知られ、1780年には科学アカデミーに入り、テュルゴコンドルセらと親交を結んだ。

1790年にライン河沿いのストラスブール市長に選ばれる。彼は公の選挙で市長になったことを非常に誇りに思っていた。1792年のある晩、ライン軍団の将校たちを市役所に招き、歓迎会を開いた。その時、アマチュア音楽として定評のあったルジェ・ド・リールにライン軍団独自の行進曲の作詞作曲を依頼した。

翌朝、ルジェ・ド・リールは一晩で作り上げた曲をディートリッシュに聞かせ、すっかり気に入った彼はすぐさま、楽譜の印刷をした。それが、のちフランス国家となる「ラ・マルセイエーズ」である。

1792年8月10日以降は「議会を最高権力とは認めない」ように指示したということで非難され、12月25日、他の「陰謀家たち」と共に革命裁判所に移送され、処刑された。罪状は

1.愛国主義のまやかしの仮面をかぶっている。
2.ルイ16世と大臣達の陰謀を助けた。
3.ラファイエットと共に立法会議に対抗した。
4. 人民協会を迫害した。

などで、これらの内のひとつでも死刑に値するようなものだった。

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ディドロ 1713-1784 (H11.11.10.UP)
Denis Diderot

「百科全書」を編纂した自由主義哲学者。

ディドロ
ディドロ

1713年、シャンパーニュのラングルで裕福な刃物職の親方の息子として生まれた。ブルジョワジーの彼はパリ大学に学び、優秀な成績を修めた。貧しいお針子と結婚し父を激怒させたが、結婚後1年あまりで別の女性と親しくなる。

放浪生活の後、1745年、ダランベールと共に、「百科全書」の編集責任者となり、260人以上の執筆者を統括し、幾多の苦難を乗り越え、1772年にこの大著を完成させた。

この間も、哲学著作として「哲学夢想(1746年)」「ダランベールの夢(1769年)」などを執筆。また、小説として今も名作とされる「ラモーの甥(1762年)」等を書く。

「百科全書」完成後、蔵書を買い上げてくれた上に300フランの年金をくれたロシアの女帝エカテリーナ2世に謝意を表するため、ロシアに赴く。帰仏後、終生のテーマ、道徳の問題を考察した「セネカ論(1778年)」を完成させ、1784年、パリで他界した。

その他、「百科全書」の中の項目「美」の執筆以来、美術にもを並々ならない関心示し、官展「サロン」の批評家となった。

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デジレ・クラリ
1777-1860 (H11.10.12.UP)
Bernardine Eugenie Desiree Clary

ナポレオンの元婚約者。

マルセイユの富裕な名門、織物商兼銀行家の娘として生まれる。

コルシカの独立闘争から逃れるためマルセイユに亡命してきたボナパルト家の長男で、ナポレオンの兄ジョゼフが、デジレの姉マリー・クラリと結婚。その縁で24歳のナポレオンと16歳のデジレはクラリ家の大反対を押し切って(ボナパルト家はまず慕ったので)、大恋愛の後、勝手に婚約してしまう。

しかし、その直後の1793年、ナポレオンツーロンの反乱を鎮圧するため、革命政府に命ぜられツーロンに赴く。

その後、名を成したナポレオンはパリに滞在し、数々の浮名を流す。マルセイユで婚約者を待つデジレは不安な日々を送り、婚約者の愛情を取り戻そうと切々と手紙を書きつづけるが、1796年、ナポレオンパラス総裁の元愛人ジョゼフィーヌの虜となり、結婚してしまった。

失意の内に暮らすデジレの前に、ナポレオンと肩を並べるほど民衆に人気のあったシャルル・ベルナドット将軍が現れた。ベルナドットを懐柔したいナポレオンは、義妹でもあるデジレを1798年8月16日、ベルナドットと結婚させる。

その後、ナポレオンデジレへの贖罪の気持ちからか、ベルナドットを優遇する。

1810年、スウェーデンに王位継承者が亡くなり (この辺の詳細が知りたい人はこちらにどうぞ)ベルナドットナポレオンの後押しの元で、思いもかけずスウェーデンの国王となり、デジレは王妃となる。

しかし、住み慣れたパリと比べて、北国の厳しい気候や習慣の違いにどうしても馴染めず、スウェーデン宮廷ともうまくいかないデジレは、パリにもどらざるを得なくなった。

その頃から、ナポレオンの没落が始まり、夫は反ナポレオンの立場を取る。ナポレオン帝政が崩壊し、王政復古になるとデジレは息子オスカルをドイツ王女ジョゼフィーヌと婚約させて、スウェーデンで王妃として穏やかな日々を送る。

1860年、79歳でこの世を去ったとき、その枕もとからは、かつてナポレオンに書き送った手紙の写しが何通も発見されたという。

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デムーラン (カミーユ・デムーラン)

1760.3.2.-1794.4.6. (H11.7.13.UP)
Camille Desmoulins
民衆よ、武器を取れ

7月14日のパリ市民の蜂起を煽動したジャーナリスト。

ピカルディ地方に生まれ、パリのルイ・ル・グラン学校ではロベスビエールと机を並べて学んだ。優秀な学生であり、ギリシャ、ローマの古典を愛読していた彼の共和主義思想は、アテネのような形態を理想としていた。

1785年、弁護士を開業するがあまりはやらず、貧しい生活だったと言われる。1788年、「フランス人民の哲学」を刊行し、革命の訪れを予告した。

1789年7月、ネッケルが罷免された時、パレ・ロワイヤル広場「武器を取れ!!」とパリ市民の蜂起を促した。旧体制に対するパンフレット「自由なフランス」等を刊行するなど、ジャーナリストとしての才能を発揮し始める。「パリ人への街頭演説」を著してからは、「街頭検事」と呼ばれた。

1790年12月、7年越しの恋が実り、11歳年下の資産家の娘リュシルと結婚。その結婚式にはロベスピエールブリッソーぺティオンなども招かれた。

1791年には「フランスとブラバン(ベルギーの州)の革命」紙を発刊し、民主主義思想を展開し、革命推進の担い手となっていった。コルドリエ・クラブの一員となり、ダントンの影響を受ける。のち、国民公会議員となり、山岳派の一員として、「仮面をはがされたブリッソー」「革命秘史断片」などを発刊し、ジロンド派攻撃の急先鋒となる。ジロンド派追放後はエベール派を攻撃する。

その一方、1793年12月には「ヴィユー・コルドリエ」を発刊し、ダントンと共に寛容主義を唱えてかつての朋友ロベスピエールに反抗した。これが原因で1794年4月6日、ダントン派として処刑。

裁判の時、年齢を問われ、「33歳。サン・キュロットたるイエスと同じ年齢」と答えたと言う。

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デュポール (アドリアン・ジャン・フランソワ・デュポール)1759-1798
Adrien Jean Francois Duport (H12.5.14.UP)

「三頭派」の一人で王妃の相談役にもなる。

パリ高等法院評定官の息子。父の跡を継ぎ、パリ市内に城館を持つ。イギリスの司法、立法を学び、病弱だが、激しい正義感を持つ。

1789年の三部会では貴族身分代表の議員としてパリから選出され、第三身分との合同を早くから主張し、封建制廃止を唱えた。革命的貴族としてバブーフを助けて活躍し、立法議会では、バルナーヴラメット「三頭派」を結成。「デュポールが考え、バルナーブが言い、ラメットが行う」と言われたように、雄弁ではなかったものの、1790年の陪臣団制度の採用などに貢献した。

ヴァレンヌ逃亡後、革命の諸原理と王政との融合和解を試み、国王の相談に乗った。8月10日の革命で、逃走中捕らえられたが、ダントンに助けられイギリスに亡命した。

テルミドール以後帰国したものの、フリュクチドールで再び亡命し、スイスで客死した。

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デュポン (ピエール・サミュエル・デュポン・ド・ヌムール)1739-1823
Pierre Samuel Dupont de Numours (H12.5.14.UP)

経済学者。デュポン財閥の祖。

時計職人と貧しい貴族の娘の間に生まれる。パリで貧しい青年時代を送り、ヌムールの大地主の女婿となり、「国富についての省察(1763)」によってケネーに認められ重農主義の仲間に入り、ケネーの著作の編集に尽力した。

ついで穀物取引の自由化の経済的意義を明らかにし、テュルゴと交友を持ち、テュルゴの最も親しい協力者となる。テュルゴの死後、英仏通商条約の締結にあたり、その功によって貴族となる。

1789年の三部会には第三身分代表として選出され、人権宣言教会財産の没収、財政改革などを推進して重要な役割を果たした。

しかし、アッシニア紙幣発行の反対や1789年クラブの結成、革命の早期終結の要求などでジャコバン勢力と対立。マラーから人民の敵として攻撃されれた。立憲議会の解散と共に政治活動から退く。8月10日の革命後、潜伏。1794年、山岳派の支配の元で投獄されテルミドールで釈放された。

フリュクチドール18日に再逮捕、そして釈放。アメリカに渡りデュポン財閥の基礎を築いた。一時帰国して、総裁政府の元で元老院となり、のち、ナポレオン統治時代の国務顧問官を務め、アメリカのデラウェアで亡くなった。
バレエ・ダンサーのパトリック・デュポンとは何か関係があるのでしょうか。ちなみに私はパトリックのファンです。

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デュムーリエ(シャルル・フランソワ・デュムーリエ)1739.1.25-1823
Charles Francois Dumouriez (H11.4.5.UP)

国民公会に反抗してオーストリアに身を投じた軍人。

カンブレ出身。10代で将校となり七年戦争に参加、1763年にはルイ15世の秘密外交にも携わった。革命になると、ミラボーラファイエットオルレアン公ジャコバン・クラブに接近。1792年にはジロンド派内閣の外務大臣も務め、国王に宣戦を進言した。ジロンド派内閣が解散するのに伴って外務大臣を辞任。八月十日の革命後、北部軍司令官となり、1792年9月、ヴァルミーの戦いでプロシアに勝利を収めた。ついでジェマップの戦いでオーストリアに勝ってベルギーを占領したが、オランダ侵入に失敗して罷免された。

その数日後、オーストリアのコーブルク公と交渉し、パリ進撃、王権回復を企てたが、公安委員会はデュムーリエの行動を監視するため委員を派遣した。彼はこの派遣委員を逮捕、敵軍に引き渡した。国民公会が彼を逮捕しようとしたため、オルレアン公の息子、のちのルイ・フィリップらと共に、オーストリア軍に身を投じ(デュムーリエの裏切り)、亡命貴族を支援しようとしたが、信用されなかった。1804年、イギリスに渡って不遇の内に没した。

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テュルゴ (アン・ロベルト・ジャック・テュルゴ)1748-1825
テュルゴAnne robert Jacques Turgot

1774年から1776年までの財務総監。

パリ市長の子供として生まれた名門ブルジョワの出身である。 のち、ソルボンヌ大学神学部付属神学院で教育を受ける。この学校で、彼はイギリスの経験論哲学やヴォルテールなどの影響を受け、神学の他、言語学、哲学、歴史、法学、文芸、物理、経済学などを学び、若年にもかかわらず、既に百科全書派となっていた。

1761年、当時フランスで一番貧しい地方であるリモージュに赴任し、13年間県知事を務めた。税制の改革、穀物取引の自由化など見事な改革を行い、その業績を買ったルイ16世に引き抜かれ、財務総監となった

就任の翌日、彼はルイ16世に次のような書簡を奉呈した。

「私はあらゆる悪幣と闘うただ一人の人間となることでしょう。陛下と陛下に親しい人々の天性のお人の良さとも闘わなければならないでしょう。」

彼は、危機に瀕している財政問題を誠実に処理しようと「破産せず、増税せず、借り入れせず」を三大原則とし、ひたすら節約しようとしたが、このような方針は貴族達の反発を招いた。

続いて、賦役を廃止し全ての階級が税金を払うようにすると、貴族から激しい反対を受け、マリー・アントワネットを中心とする旧勢力や高等法院の策謀によって失脚を余儀なくされた。

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テレーズ・カバリュス 1773-1835 (H11.3.3.UP)
Therese Cabarrus

タリアンを骨抜きにした「テルミドールの聖母」

テルミドールの聖母

銀行家カバリュスと美しいスペインの母親との間に生まれ、子供の頃から美貌で実際的な知識も身に付けていた。十六歳の時、自分に無い爵位と宮廷の逸楽に憧れて、お金持ちの年老いた貴族ド・フォントネ侯爵と進んで結婚。

宮廷生活を楽しむと同時に、その頃進歩的な貴族の間で流行していた「自由主義」にかぶれ、ラメット兄弟ラファイエットとも交流を深める。革命の勃発と同時に夫は亡命。テレーズは自分の友人たちに名誉をもたらせた革命に興味を持ち、夫に従って亡命することを拒否し離別したが、名誉などやって来なかった。1793年、ボルドーに移り、そこからスペイン国境に向かい、父の援助で亡命しようとした。

ボルドーではうさんくさい目で見られたので、積極的に革命の祭典で自由の女神に扮するなどして愛国者を気取った。その内、派遣議員としてやってきたタリアンの目に触れた。テレーズ自身はタリアンなど相手ではなかったが、当時の派遣議員は絶大な権力を握っていたので、身の保全も兼ねてタリアンの愛人になる。タリアンはテレーズにのぼせ、求められるままにテレーズの友人である反革命容疑者を処刑リストからはずした

間もなく、ボルドーで不明朗なことが行われていることがパリに知られ、タリアンは呼び戻される。その後を追ってテレーズもパリに行ったが、そのまま逮捕され、ラ・フォルス監獄に入れられる。死と隣り合わせで不安な日を送り、タリアンに早く出す何とかするように矢のような催促をするが、なかなか釈放されない。1794年7月25日、痺れを切らしたテレーズはタリアンに次のような手紙を送る。

「今、検察の人が帰りました。明日、革命裁判所に出頭するようにとのことです。つまり断頭台に登りなさい、と言うことです。昨夜、私はロベスピエールがいなくなり監獄の扉が開かれた夢を見ましたが、どうやら現実とは違うようです」

この手紙を受け取ったタリアンは、バラスコロー・デルボア誘われていたクーデターの敢行を決意し、7月26日、返事を書く。

「僕はいよいよ実行する。君も充分気を付けるように。冷静さを失わないように」

7月27日、クーデターの成功を信じていなかったタリアンは自殺するつもりで国民公会に向かうが、ご存知の通り、「テルミドールの反動」は行われ、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。

彼女の魅力の虜になったテルミドール派の人々はテレーズを「テルミドールの聖母」と呼び、これが彼女の一生の称号となった。テレーズとタリアンはすぐに結婚。テルミドールという名の娘をもうける。

しかし、一年足らずでタリアンの栄光はなくなり、テレーズはパラスの愛人となる。だが、バラスは浪費癖のあるテレーズに困り果て、革命成金のウヴラールの元に厄介払いをした。それも長続きせず、1805年カラマン伯爵と再婚。残りの三十年を夫の領地で平穏に暮らした。

ちなみに彼女はナポレオンの妻、ジョゼフィーヌとは大の仲良しである。

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テロアーニュ・ド・メリクール 1762-1817(1)
Theroignue de Mericourt

誰からも頼られた革命の女丈夫。最期は悲しいけれど、革命に純粋に打ち込んだ女闘士。

ベルギー生まれ。幼い頃貧しい親に女中奉公に行かされ、その後、イギリスの上流社会でコール・ガールになり、その間に知性と教養を磨く。
フランスの情勢を知るとパリに赴く。バスティーユ監獄襲撃ヴェルサイユ行進に率先して参加したり、積極的に活動する。

1790年、マリー・アントワネットを憎悪していたことがあまりにも有名だったため、オーストリア軍にとらえられる。しかし、オーストリア皇帝レオポルトによって釈放され、1792年再びパリに戻る。

彼女を幽閉したオーストリアをやっつけたいという気持ちから、外国との戦争を望んでいたジロンド党と近づいた。

1793年5月31日、テュイルリ宮殿でジロンド派の失政に怒り狂っていた場末町のおかみさん連中が、ジロンド派議員に罵声を浴びせていた。その中を一番やじられていたブリッソーが通った。彼と親しかったテロアーニュはブリッソーを守ろうと彼のそばに走りよった。すると、そばにいたおかみさん達は激怒し、テロアーニュのスカートをまくりあげ、お尻をいやと言うほど叩いた。

その屈辱の中で彼女の精神は瓦解し、1年後精神病院に入れられ、革命の推進に大きな力となった彼女の明晰な頭脳は二度と元に戻らなかった。

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