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ジロンド派没落
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- 7.ジロンド派没落
- 対外政策…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
- 経済不安…イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。
- 軍事問題…1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。
- ジロンド派の終焉…国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。
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iv. ジロンド派の終焉
一言で説明すると…国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。 |
山岳派の台頭 Montagnards
経済問題でも
軍事上の問題でも、ジロンド派は失敗を繰り返しました。そのため、今までジロンド派についていた平原派が山岳派支持に回るようになったのです。また、議会の外でも、山岳派はパリ・コミューンと協力して、ジロンド派を攻撃するようになっていきます。
「サン・キュロット化対策」が受け入れられていく様子を具体的に見ていきましょう。
3月10日
- 革命裁判所の設置:反革命派を裁く。
3月21日
- 監視委員会の設置:外国人の取締り。9月17日以降は反革命容疑者リストの作成。
3月28日
- 亡命者に関する法律制定:亡命者は死亡者とみなされ、永久に追放の上、財産は没収。
4月6日
- 公安委員会の設置:9名(後12名)の委員からなり、臨時行政府の活動を監督。
特に、勢いに乗ったダントンが自らを最重要委員にして設置した公安委員会には、一人のジロンド派もいませんでした。そして、この公安委員会はダントンさえ考えも及ばないほど力を持つようになります。
ジロンド派の反撃
山岳派とサン・キュロット(パリ・コミューンなどを中心とした民衆)に圧倒されそうになったジロンド派は必死に反撃をします。
4月1日
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デュムーリエと共謀したという口実でダントンを告発。
4月13日
- ジロンド派のガデーの提案に基づいて、暴動の煽動者として
マラーを告発。
告発されたダントンやマラーも、革命裁判所の判事も陪審員も、みんな山岳派なのです。二人とも意気揚揚と帰ってきました。
5月18日
ガデーが国民公会で「金と支配権との両方を渇望する無政府主義的な」パリ・コミューンを告発してエベール、
ヴァレルを逮捕しました。
5月25日
ジロンド派の国民公会議長イスナールがパリを脅迫しました。
「もし仮に区民公会が品位を傷つけられたら、全フランスの名において、私はパリは全滅するだろうと宣言する」
パリ市民はこんな脅迫に驚きません。その代わり、彼らはこの侮辱に対してきちんと答えを出したのです。
また、革命のるつぼとなったパリに対抗するため、地方のブルジョワ勢力を結成しようとしましたが、ジロンド派のすることは全て失敗に終わりました。ジロンド派は革命から見放されてしまったのです。
激突
5月26日
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ジャコバン・クラブで
ロベスピエールが人民に蜂起を呼びかけました。
「全ての法が侵され、専制政治がその極みに達し、誠意と純潔が踏みにじられる時、人民は蜂起しなければならない。そして、そのときがまさにやってきたのだ」
5月29日
- 蜂起を組織するため、秘密の蜂起委員会が成立しました。
5月31日
- 国民衛兵隊司令官アンリオが市の要所を固めました。セクションとコミューンの代表は国民公会に赴き、「ジロンド派議員の逮捕」、「金持ちに課税してパンの値段を1リーヴル3スーとすること」、「軍隊からの貴族の追放」、「老人や病気の人の救済」などを要求しました。
彼らは議場に入り、山岳派と並んで座りましたが、追い詰められたジロンド派は巧妙に蜂起側の攻撃をかわしました。
6月2日
労働者は武装してアンリオの指揮に従いました。8万の軍隊が国民公会のあるテュイルリー宮殿を囲みました。
蜂起委員会のメンバーが、国王の死刑に反対投票をした者たちの逮捕を要求しました。国民公会の議員は議場から出ようとしましたが、宮廷を取り巻いていた国民衛兵によって阻止されました。右派は渋々と、そして、山岳派は熱心に群集の要求を飲み、国民公会はジロンド派の指導者29人の逮捕を承認しました。
ジロンド派と山岳派の戦いはパリに関する限り、ここに終わりを遂げました。