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一言で説明すると…1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。 |
一方、前線ではベルギーを占領したデュムーリエが、2月25日、オランダに侵入しましたが、オーストリア軍に背後をつかれて敗北を喫しました。その後、オーストリア軍と取引して、政府には何も知らせずベルギーを明け渡してしまいました。
彼は、国王が処刑されるときも、最後の最後まで国王を救おうと運動をしていた人物でした。そして今、祖国の敵オーストリアと組んで、パリを攻め落とすつもりだったのです。
4月4日、いよいよ軍隊を率いてパリに向かおうとした時、部下の兵士から銃火を浴びせられた彼はオーストリア軍の中に逃げ込みました。これを「デュムーリエの裏切り」と言います。(もっと詳しく→)
経済政策の失敗に加え、「ヴァンデの反乱」と「デュムーリエの裏切り」はジロンド派を苦境に追い込みました。特に、「デュムーリエの裏切り」はジロンド派にとって非常に苦しい問題でした。
もともとジロンド派の政治は、彼らが推し進めていた外国との戦争に勝利していたことを基盤としていたのです。そして、その中枢を担っていたのがデュムーリエでした。確かに、デュムーリエには天才的な軍事的才能があります。ジロンド派がその活躍に期待したのも無理はありません。
しかしながら、彼はジロンド派の期待に答えるつもりなど毛頭なかったのです。日和見主義者で、国王とも緊密な関係があった彼を重要なポストに置いたジロンド派はあまりにも迂闊でした。
国民公会でロベスピエールはジロンド派を糾弾します。
「これまでブリッソーはデュムーリエの親友であったし、今もそうである。ブリッソーがデュムーリエを弁護しなかったことはただの一度もない。デュムーリエの計画は私達を危険な戦争に巻き込んだ。彼らはオーストリアに対する戦争を企てたのだ」
デュムーリエの裏切りの翌日、ベルギー、ライン左岸からのフランス軍の撤退が始まり、戦場は再びフランス国内に移りました。
敗戦は革命を苦境に立たせます。王制復古を願う人々が喜びます。どのような形であれ、国王の処刑に賛成票を投じた人は生命の危険にさらされます。自由のために、勝利に向かって生きぬくしかありません。
しかし、ジロンド派にはもうその力がないことは誰の目にも明らかでした。
ジロンド派がデュムーリエの裏切りに直接関係していたことまありません。しかし、国王裁判の頃から妙な噂の絶えなかったデュムーリエのような人物を最重要な戦地に行かせたという責任は重いのです。
ジロンド派はがけっぷちに追いやられています。4月5日、公安委員会が新設されますが、ジロンド派からは誰も選ばれていません。
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