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 ジロンド派没落  

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7.ジロンド派没落
  1. 対外政策ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
  2. 経済不安イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。
  3. 軍事問題1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。
  4. ジロンド派の終焉国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。

iii. 軍事問題

一言で説明すると…1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。

ヴァンデの反乱 The Vendean Rebels

<背景>
ヴァンデを中心とするフランス西部は信仰心のあつい地域でした。住民は自分達の信仰を根底から揺り動かす「僧侶基本法」と、拒否僧侶に対して行われた厳しい処置を憎み、早くから革命に反感を持っていました。
<原因>
そのフランスの西部では、30万人動員令に基づく義勇軍をくじ引きで決めることになっていました。くじ引きが予定されていた3月10日、今までたまっていた革命への不満も引き金となって、西部一帯の農民が一斉に蜂起しました。これをヴァンデの反乱と言います。
ヴァンデの反乱
<経過>
国民公会は3月19日、「武器を所有している反乱者全員を処刑し、その財産を没収する」という厳しい処置を取りましたが、国境に国民衛兵を送っているため兵力が不足しており、鎮圧することができませんでした。反乱軍は次第に力を持ち始め、内戦となりました。政府が国境の軍隊を配備しても、思うような成果はあげられませんでした。

反乱軍ははじめキリスト教徒軍、あるいはローマ・カトリック軍と呼ばれて農民独自のものでしたが、貴族が王位と旧制度を復活するために利用し、反乱軍はカトリック王軍と呼ばれるようになりました。
<結果>
反乱軍はロワール河を越えて北上しました。共和国軍によってようやく鎮圧されるのはこの年の12月です。しかし、この反乱はゲリラの形を取って1795年まで続きます。
<影響>
農民と貴族の思惑に相対するところがあったため、ヴァンデ軍には統一性が欠けていました。そのため、反乱は広がりませんでしたが、国内の商業及び軍事活動は妨げられ、ジロンド派に非難が集まりました。


デュムーリエの裏切り The Defection of Dumouriez

一方、前線ではベルギーを占領したデュムーリエが、2月25日、オランダに侵入しましたが、オーストリア軍に背後をつかれて敗北を喫しました。その後、オーストリア軍と取引して、政府には何も知らせずベルギーを明け渡してしまいました。

彼は、国王が処刑されるときも、最後の最後まで国王を救おうと運動をしていた人物でした。そして今、祖国の敵オーストリアと組んで、パリを攻め落とすつもりだったのです。

4月4日、いよいよ軍隊を率いてパリに向かおうとした時、部下の兵士から銃火を浴びせられた彼はオーストリア軍の中に逃げ込みました。これを「デュムーリエの裏切り」と言います。(もっと詳しく→)


ジロンド派の対応

経済政策の失敗に加え、「ヴァンデの反乱」「デュムーリエの裏切り」はジロンド派を苦境に追い込みました。特に、「デュムーリエの裏切り」はジロンド派にとって非常に苦しい問題でした。

もともとジロンド派の政治は、彼らが推し進めていた外国との戦争に勝利していたことを基盤としていたのです。そして、その中枢を担っていたのがデュムーリエでした。確かに、デュムーリエには天才的な軍事的才能があります。ジロンド派がその活躍に期待したのも無理はありません。

しかしながら、彼はジロンド派の期待に答えるつもりなど毛頭なかったのです。日和見主義者で、国王とも緊密な関係があった彼を重要なポストに置いたジロンド派はあまりにも迂闊でした。

国民公会でロベスピエールはジロンド派を糾弾します。

「これまでブリッソーデュムーリエの親友であったし、今もそうである。ブリッソーがデュムーリエを弁護しなかったことはただの一度もない。デュムーリエの計画は私達を危険な戦争に巻き込んだ。彼らはオーストリアに対する戦争を企てたのだ」

デュムーリエの裏切りの翌日、ベルギー、ライン左岸からのフランス軍の撤退が始まり、戦場は再びフランス国内に移りました。

敗戦は革命を苦境に立たせます。王制復古を願う人々が喜びます。どのような形であれ、国王の処刑に賛成票を投じた人は生命の危険にさらされます。自由のために、勝利に向かって生きぬくしかありません。

しかし、ジロンド派にはもうその力がないことは誰の目にも明らかでした。

ジロンド派がデュムーリエの裏切りに直接関係していたことまありません。しかし、国王裁判の頃から妙な噂の絶えなかったデュムーリエのような人物を最重要な戦地に行かせたという責任は重いのです。

ジロンド派はがけっぷちに追いやられています。4月5日、公安委員会が新設されますが、ジロンド派からは誰も選ばれていません。



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ii.経済問題へ
iii.軍事問題へ

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