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一言で説明すると…キリスト教を破棄するために、「革命暦」を取り入れ、「理性の祭典」が催されました。 |
僧侶基本法への宣誓要求が生んだ教会の分裂は国民を二分しました。拒否僧侶は反革命者と同じに扱われ、監視、圧迫は日増しに強くなりました。特に戦争が始まると、反革命に対する危機感から彼らへの迫害はさらにひどくなりました。
1792年9月2日〜9日の九月虐殺では約300人以上の聖職者が犠牲となりました。
1793年、内外の危機が深まる中で、国民公会は宣誓僧侶、拒否僧侶の区別なく、キリスト教そのものを事実上抹殺してしまおうと考えました(キリスト教の破棄)。
手始めとして、キリスト紀元を葬り去ると同時に新しい共和国を記念するため、今までのグレゴリー暦を廃止し、新しく「革命暦」を制定しました。
これにより、1年の各月に新しい名前が付けられ、今までのキリスト教の祝日や儀式が全て否定されました。
制定されたのは1793年11月24日ですが、開始は1年前にさかのぼり1792年9月22日としました。この革命暦を元のグレゴリー暦に戻したのは、1806年1月1日、ナポレオンでした。
キリスト教を破棄させるために、過激派のエベール、ショーメットらが「理性の祭典」提唱しました。理性を神聖化することで、人々をキリスト教から引き離そうとしたのです。
1793年11月19日、「理性の神殿」と改名されたパリのノートル・ダム寺院で一人の女優によってオペラに具現された「理性の祭典」が行われました。同じような催しが地方でも行われ流行し、それに伴い、たくさんの教会が略奪され、共和主義の神殿に変えられました。キリスト教を破棄させる運動は大きな成果をあげました。
しかし、公安委員会はこのような行き過ぎたキリスト教破棄を好みませんでした。国民公会も「理性の祭典」には反対の立場を取りました。教会に好意を持っていたからではなく、内外の多くの敵と戦わなければならない共和国の現状を考えると、カトリックを信仰している多数の国民を敵に回したくなかったからです。
ヴァンデの反乱を持ち出すまでもなく、宗教の弾圧は内乱を再燃させかねないものなのです。
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