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 議会と王  

順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
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4.議会と王
  1. 政治クラブこの頃、いくつかの政治クラブのようなものができました。流動的で複雑ですが、少し整理してみましょう。
  2. アッシニアと教会財政危機を乗り越えるために教会財産を没収し、その対策として後々までフランスを苦しめるアッシニアを発行します。また「僧侶基本法」を制定して僧侶を二つに分けてしまいました。
  3. 1791年の憲法待望の憲法が可決されました。旧制度を破壊した国民議会は、人権宣言の理想にのっとった新制体(立憲君主政体)を作り出すために活動しました。
  4. 国王の逃亡1791年6月、思いもかけない事件が起きました。国王が逃亡したのです。フランス国民を見捨てようとした国王の逃亡は、革命に大きな展開をもたらしました。国王がいなくても太陽が昇ることを知った国民から、「国王不要論」が出てきました。

ii.アッシニアと教会

一言で説明すると…財政危機を乗り越えるために教会財産を没収し、その対策として後々までフランスを苦しめるアッシニアを発行します。また「聖職者基本法」を制定して聖職者を二つに分けてしまいました。

立憲議会の課題

立憲議会と名前を変えた国民議会は封建性を廃止し、新しい政治原則を確立し、議会制度の基礎を築きました。立憲議会の第一の課題はもちろん、憲法の確立ですが、その前にやらなければならないことがあります。そもそもフランス革命の根本的原因である国家財政の問題は、未だに手付かずでした。

常に現実を見ていたミラボーは、「財政改革なしに憲法問題の前進なし」と言っていました。議会をヴェルサイユからパリに移し、ひとつの区切りをつけた議会は、財政問題に真剣に取りかかりました。


巨額の負債

さて、国家が負っている負債を整理してみましょう。

これがフランス国家の現状です。


教会財産の没収

1789月10月10日、進歩派の聖職者タレーランが、フランス全土の約一割、約30億リープルと言われた莫大な教会の土地財産を国家負債の償還に充てることを提案しました。

一般的に、貴族の領地は私有地として見られていましたが、教会の財産は公共のものとする考えが強かったので、上級聖職者以外からの抵抗は意外に少なかったのです。

1789年11月2日、議会は上級聖職者の抵抗を排除して、教会の財産を没収しそれらを国有化することに決定しました。


アッシニア Assignat
アッシニア証券
国庫の赤字を償却する財源は教会財産で確保されました。しかし、物は土地ですから売らなければなりません。しかし、無制限に売り出せば、買い手が殺到して通貨が国庫に集中してしまう恐れがあります。そうなると、通貨が不足し経済は混乱しますし、教会財産の売却そのものが失敗する可能性があります。そこで、アッシニア証券が考案されました。

アッシニアとは、「支払いに当てる」という意味で通貨として流通させる予定はなく、証券は教会財産を担保にする五分利息付きの証券で、発行額も4億リーヴルを限度としました(1790年3月17日)。アッシニアを回収し廃棄するつもりでいたのです。

アッシニア紙幣
500リーヴルの
アッシニア紙幣
教会財産の売却は順調に行き、アッシニア証券は予定通り動き出しました。しかし、当時、亡命貴族が大量の硬貨(金貨、銀貨)を持ち去っていたため、通貨が不足していました。国有財産の売却が進むにつれて、紙幣として流通させざるを得なくなりました。それを補うため、アッシニア証券の五分の利息を廃止し、1790年4月17日には三部利息付きの新アッシニャを貨幣として流通することが決定されました。(ここをクリックすると概要にいきます)

9月29日には無利子の新アッシニア紙幣が発行され、しかも発行限度は4億から11億リーヴルに引き上げられました。その後もアッシニア紙幣の発行額は増大に増大を重ね、価値は下落し猛烈なインフレーションを引き起こし、後々まで政府を苦しめていくのです。(アッシニア紙幣の偽造を防ぐために政府は科学者ラボアジエに助言を頼みました。)


聖職者基本法 Constitution civile du Clerge

聖職者基本法
聖職者基本法 click!
1790年7月12日、議会は「聖職者基本法」を制定しました。その主な内容を見てみましょう。

  1. 司教や司祭は役人と同様、選挙で選ばれる。→つまり、国家公務員となった聖職者は任用条件としてローマ法王による確認が不要となる。
  2. 聖職者は俸給を国から支給される。
  3. 教会組織は行政区画に従う。
変更前後の聖職者の収入の差を見てみましょう。
 パリ司教の年収司祭の年収助任司祭の年収
革命前20万リーブル700リーブル 350リーブル
革命後5万リーブル6000リーブル1200リーブル
差 額−15万リーブル+5300リーブル+850リーブル
上下の差は明らかに縮みました。下級聖職者は革命のおかげで生活にゆとりができ、上級聖職者は贅沢な生活を切り詰めなければならなくなりました。彼らは、当然のことながら、反革命の立場を取るようになります。(ここをクリックすると概要にいきます)


教会の分裂

議会は、「聖職者基本法」を制定するにあたり、全ての聖職者に憲法と「聖職者基本法」を守る誓約をすることを求めました。宣誓を拒否すれば直ちに罷免され、亡命するか地下に潜るしか方法はありません。聖職者の五分の三くらいは宣誓したと言われています。しかし、1791年3月10日、事情は一変しました。

ローマ法王が「人権宣言」と「聖職者基本法」を非難する親書を出したのです。この結果、宣誓聖職者拒否聖職者はフランス全土でほぼ半々に分かれました。聖職者の分裂は信者をも分裂させます。フランスは二つに割れました。

H13.9.11.UP
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ii.アッシニアと教会 iv.国王の逃亡

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