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 恐怖政治  

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8.恐怖政治
  1. 山岳派独裁ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。
  2. 新しい軍隊公安委員会軍隊を強化しました。イギリスやオーストリアなどの外敵も、ヴァンデの反乱などの内乱も鎮圧され、戦局上の危機は一応克服されました。
  3. 最高価格法ジロンド派を追放した国民公会は、民衆の強い要求に応えて、全ての商品価格を公定する「全最高価格法」を採用しました。これにより経済は一時的に安定しました。
  4. 革命暦と理性の祭典キリスト教を破棄するために、「革命暦」を取り入れ、「理性の祭典」が催されました。
  5. 恐怖政治の恐怖恐怖政治下ではどのような恐怖が行われていたのでしょうか。多くの人々の命が消えていきましたが、そのほとんどはパリ以外の地方で行われていたのです。

v. 恐怖政治の恐怖

一言で説明すると…恐怖政治下ではどのような恐怖が行われていたのでしょうか。多くの人々の命が消えていきましたが、そのほとんどはパリ以外の地方で行われていたのです。

恐怖政治の原因

恐怖政治が流血の恐怖となったのはロベルピエールの厳しい綱紀粛正のためだけではありません。次の要因があったからこそ、サン・キュロットの圧力公安委員会が恐怖政治に駆り立てられたのだと考えられます。

  1. 外国からの危機
  2. ヴァンデの反乱連邦主義者の反乱
  3. 山岳派の内部闘争
しかし、上記の原因が取り除かれていたとしても、ある程度の恐怖政治は行われていたに違いありません。なぜなら、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「人類の再生」は危機に瀕していて「人類」を守るためには「徳」が必要であり、「徳」を持たない人間は粛清されるべきであると信じていたからです。


数字としての恐怖政治

ここでは1793年3月17日から1794年7月までに処刑された人について観察してみます。

公式記録に載った処刑者は19,723人で、この数字にはパリで処刑された人も地方で処刑された人も含みます。しかし、ツーロンヴァンデなどを中心に裁判なしで処刑された人や牢獄で死んだ人が4万人いると言われています。また、ヴァンデの反乱で殺された人が20万人いると言われているので、実際の数字は少なくても26万人となります。

また、19,723人の内訳は下の表および円グラフの通りです。

場 所処刑者数
ナント3,54818.0%
ヴァンデの反乱8,67444.0%
リヨンマルセイユツーロン3,15816.0%
南部9104.6%
外国に侵入された国境5512.8%
北東部の国境2431.2%
パリ2,63913.4%
合計19,723100.0%

罪 状
反逆罪78
煽動と陰謀19
経済違反1
その他2
次に、処刑者の罪状の内訳も見てみましょう。そのほとんどが内乱などの反逆罪で、上の表の地方での処刑者の数に近いこともわかるでしょう。


パリの恐怖政治

ロベスピエールのいるパリでは2,639名です。しかし、この数字にはかなりのばらつきがあります。

1793年3月から1794年6月までの1年4ヶ月の間にパリで処刑された人は1251人で、残りは1794年6月からまでのたった2ヶ月間で処刑されました。

1794年6月までは比較的穏やかで、一ヶ月で80名強。一日2−3名くらいですが、それ以降の2ヵ月はものすごいです。単純計算で一ヶ月で700名強。一日20名以上。パリそのものが気が変になったとしか思えません。

もちろん、この全ての数字にロベスピエールが関与したわけではありません。彼を血に飢えている人間、と誤解している方も多いのですが、独裁していた最後の3ヶ月はともかく、弁の立つ彼は、公安委員会のスポークスマン的な役割をしていたのです。そして、この数字にロベスピエール自身も入っていることをお忘れなきよう。


良い市民と悪い市民

パリで捕らえられる人は、反革命家や違法に食糧を貯蔵している人の他に、「公徳心のない売春婦、無神論者、不道徳者、単なる無関心者」にまで及びました。正当な理由があるにしろ、個人的な恨みからにせよ、告訴されることは、実際に処刑されないにしても、それ自体で死刑を宣告されたようなものでした。

貴族や反革命家、違法な商人ばかりでなく、ブルジョワや一般市民の生活も恐怖で脅かされていました。 当時パリを訪れた人の手記を御覧になる人はこちらへ

とは言え、生活そのものが全て変わってしまったわけではありません。パリの民衆はそんなに弱くないのです。彼らは逞しく生きていました。当時のパリの日常生活を知りたい人はこちらへ

ロベスピエールはこのように言いました。

「市民には2種類ある。すなわち、『良い市民』『悪い市民』だ。愛国心は心の問題である」


派遣議員 Representives

派遣議員は中央委員会の代行者です。軍隊の補充や容疑者の逮捕などの監督を任されており、かなり自由な裁量権を持っていました。彼らの中には、新兵募集や食糧供給などの本来の義務を忘れ、パリの恐怖政治などよりも残虐な行為を行っていたのです。その一部をご紹介しましょう。

彼らの残虐な行為は大量の犠牲者を出しましたが、全ての派遣議員がこのようなことをしていたわけではありません。

例えば、ボルドーに派遣されていたイザボー。彼は賄賂に目がくらみ処刑をあまり遂行しませんでした。

また、イザボーと一緒にボルドーに派遣されていたタリアン(この人に注意!!ロベルピエールを失脚させた人物です)職権乱用で大量に処刑をしていましたが、任務先で知り合ったテレーズ・カバリスという実に魅力的な女性の色香にまいってしまってからは、テレーズの友人などが多くいるブルジョワ階級の処刑をほとんどしないようになりました。

派遣議員としてのサン・ジュスト Saint-Just

上記二人とはまったく違った意味で特筆すべきはサン・ジュストです。

彼は、反革命派が多く潜み、またデュムーリエ将軍の裏切りで解体しかけていたアルザスに、ルバと共に派遣されました。任地に着くとすぐ、彼は効率的で大胆な政策を断行しました。つまり、

@ 軍法会議を軍人と民間人の両者を裁く広範な権限を持つ裁判所に編成し、27人に極刑を、34人に和平までの拘禁を言い渡しました。この法廷はとりわけ上級将校に対して厳しく、軍規の引き締めに大きな役割を果たしました。

A 軍功のあった3人の士官を昇進させました。

B 一晩の内に1万人の特権階級から1万7千足の靴と2万1千着のシャツを集め、裸足の共和国軍の兵士に渡しました。

彼はアルザスでは国防が第一課題であることを承知してたので、ライン河周辺の軍隊を整備し、また、民衆運動の再編協力関係の構築にも熱心に務めました。その活躍振りは、サン・ジュストが優れた軍事的指導能力政治的リーダーシップの才能にも優れていたことを示すとして非常に高く評価されています。

また、外国からの侵入や反革命家達の恐怖がない県では、ほとんど処刑者がなく、また、ひとりの処刑者も出さなかった県もあります。

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ii.新しい軍隊へ
iii.最高価格法へ
iv.革命暦と最高存在へ
v.恐怖政治の恐怖