ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

人物スケッチ あ行 え・お


フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。

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エギヨン公(アルマン・デジレ・デュ・プレシ・ド・リシュリュ、エギヨン公) 1761-1800
Armand Desire du Plessis de Richelieu, duc d'Aiguillon (H12.12.22.UP)

封建的特権廃止の立役者

南仏の二つの州で王としての特権を持つフランス最大の貴族領主。デュバリー夫人やルイ15世の信任が厚かった彼の父は国民から軽蔑されていた。立憲議会議員でもあり、ブルトンクラブ(ジャコバンクラブの前身)の幹部でもある。1789年8月4日夜、封建制廃止提案をする。のち、軍職に戻り1792年、罷免され亡命。

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エベール(ジャック・ルネ・エベール) 1757.11.5-1794.3.24
Jackques Rene Hebert

「デュシェーヌ親父(ペール・デュシェーヌ)」誌の発行人で民衆の指導者。

アランソンの金銀細工師の息子で裕福な家庭に生まれたが、父の死後困窮し弁護士を志望してパリに出て放浪生活を送る。

整った容姿と慎ましい行動のため、下品で卑猥な毒舌の才能があるとは一見思われない。90年、その才能を充分に生かした「ディシェーヌ親父」という新聞を出し、そのストレートな文体と過激な思想はパリの民衆に大きな影響を与えた。コルドリエ・クラブに属し、王政廃止の請願、八月十日の蜂起に活躍。

パリ・コミューンの第二助役としてジロンド派と戦う。山岳派が政権を掌握してからは、非キリスト教化、食料暴動を指導して、その急進性のために公安委員会と対立し、94年三月ダントン派と共に処刑された。

貧困だった過去を持つため、反対者からは「うそつき」「泥棒」などと非難されており、面白いことに、彼の逮捕の理由は「シャツその他の窃盗の罪」だった。

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エロー・ド・セシェル(マリ・ジャン・エロー・ド・セシェル) -1794
Marie-Jean Herault de Secelles

貴族出身のジャコパン党員

祖父はヴォルテールの学友でパリの警察警部補を務め、父は騎兵大佐でエローが生まれた年に戦場で死亡した。

「剣よりも法衣を信奉する」決意をした彼は、親戚の後押しもあり、19歳にして高等法院の国王付き弁護士に任命された。「圧制の犠牲者」の弁護をし名をあげた。敏腕で、しかも美貌の青年弁護士という評判はマリー・アントワネットの耳にも入り、彼を宮廷に迎え、特別あつらえのスカーフを贈った。

高等法院内の「王党派」であったが、後、ジャコバン党員になり、ダントンと共に処刑される。

処刑される日まで、彼はマリー・アントワネットから送られたスカーフを身に付けていた。

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オシュ 1768-1797
Hoche (H11.3.16.UP)

革命期で最も有能な軍人。

ヴェルサイユの馬丁の子として生まれ、16歳で入隊。マラーを尊敬し、革命戦争が始まると、連戦する。若い人材を積極的に登用したカルノーにより、イギリス軍に封鎖されたダンケルクを防衛した功績が認められ、1793年には旅団長、モーゼル軍指令官となり、ナポレオン・ボナパルトなどと共に若い有能な軍人として異例の昇進をした。ブラウンシュヴアイク率いるオーストリア・プロシア併合軍にいったんは敗れたが、その後、撃退する。一時、王党派の容疑で告発され、。テルミドール九日まで拘留された。

1795年、ヴァンデの反乱を鎮圧する命令を受け、イギリスに資金援助されている亡命貴族や王党派と戦い、勝利を収めた。1796年にはアイルランド遠征軍司令官となったが、暴風雨のため失敗。その後、サンブル-エ-ムーズ軍司令官となった。

また、陸軍大臣に就任。革命期の将軍の中で、最も有能で最も共和世に忠実(サン・ジュストの次?)であったと言われ、その豪胆ぶりと寛大さが称えられているが、29歳の若さで、戦地ヴェツラーで病死した。

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オルレアン公(ルイ・フィリップ・ジュゼフ・オルレアン公) 1747-1793
Duc d'Orleans

自由思想を持つ公爵。「平等のフィリップ」と自称した。

ルイ14世の王弟の家系に属する公爵。彼はフランス最大の領主であったが、自由思想を持ち、あらゆる改革を受け入れてルイ16世に取って代わろうとしていた。

オルレアン公

彼は首飾り事件が起こると、それを何の関係も内マリー・アントワネットを攻撃するのに利用し、また、ヴェルサイユ行進もそそのかしたと言われ、国王夫妻は彼を警戒していた。おそろしいほどの陰謀を企て、ブルボン家を滅ぼして王位を奪おうという野心を持っていた彼は、その野心が達成される絶好の機会として革命を歓迎した。

私生活も放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自宅の庭(パレ・ロワイヤル)は、政治的な危険分子はもちろん、隠微な人々の溜まり場にもなった。

名士会では第三身分の要求を支持し、立憲議会ではミラボーと結んだ。
1792年8月10日の事件で王権がなくなり、共和世が宣言されると、元次期国王候補者の彼は、民衆からうさんくさい目で見られ、それを打ち消そうと、国民公会でも最左翼に位置したり、「平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称した。

ルイ16世の処刑投票に平然として賛成票を投じたが(ルイ16世の心中は察して余りある)、息子が祖国を見限ったのをきっかけに逮捕され、1793年11月6日、ルイ16世に遅れること10ヶ月、マリー・アントワネットの処刑から一ヶ月もたたない内に、処刑された。あの世で国王夫妻に対面したとき、一体なんと言って、死刑投票のことを弁解したのだろう。興味のあるところである。

結局、彼はルイ16世の代わりになろうとして、国王の排除に腐心したが、国王がいなくなることにより、身の破滅を招いたとも言える。自由主義貴族を自認していながら、それはただの飾り物に過ぎず、まるで時代を読む目がなかったと言うことだろう。

彼の子供が、七月王政のルイ・フィリップである。

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