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 11.総裁政府  

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11.総裁政府
  1. 総裁政府総裁政府が発足しました。彼らは下落しきったアッシニアの発行を止め土地証券を発行することによって経済の建直しを図りましたが、うまく行かず、経済はますます混乱しました。
  2. バブーフの陰謀革命から忘れ去れらていた「平等」を勝ち取るため、バブーフらは反乱を企てました。しかし、実行に移す前夜、政府の放っていたスパイにより、全ての計画が暴露され、全ての計画は水泡に帰しました。
  3. イタリアのナポレオンヴァンデミエールの反乱を鎮圧したナポレオンが、オーストリア攻撃作戦でイタリア方面を担当する総指揮官になりました。総裁政府の命令を無視しながらも、勝利を重ね、ついにはカンポ・フォルミオ条約を結び、オーストリアと講和します。
  4. フリュクチドールのクーデターナポレオンがイタリアに遠征している間、国内では王党派のまき返しが始まろうとしていました。右翼の力を抑えるため、総裁のバラスはまたしても軍事力を使って、フリュクチドールのクーデターを成功させました。

ii. バブーフの陰謀

一言で説明すると革命から忘れ去れらていた「平等」を勝ち取るため、バブーフらは反乱を企てました。しかし、実行に移す前夜、政府の放っていたスパイにより、全ての計画が暴露され、全ての計画は水泡に帰しました。

パンテオン・クラブ

アッシニアは破綻し、その後の土地手形(マンダー・テレトリアル)の失敗により、1795年のインフレーションは荒れ狂いました。貨幣の欠乏、事業不振、失業の増大で民衆の不平は募りました。

民衆の生活苦の中から、急進的な運動が台頭しました。総裁政府は王党派への対抗勢力を養っておく必要から、民衆クラブの創設を黙認し、新聞統制を緩和し、ときには助成金まで与えていました。

パンテオンの裏の住民による「パンテオン・クラブ」ジャコバン派の生き残りや、旧国民公会会員を集めて結成され、生活難の影響によってたちまち1000人近い会員に膨れあがりました。総裁のバラス「パンテオン・クラブ」に資金援助をしていました。


バブーフ Babeuf

その中でフランソワ・ノエル・バブーフが活動を始めました。彼はテルミドールまでほとんど革命活動をしませんでしたが、テルミドール以後、激烈な論調の新聞「護民官」を発行し、左翼の中心人物になりました。彼は自分の新聞にこう書きました。

「一般に革命とは何か。特に、フランス革命とは何か。それは貴族と平民の間、金持ちと貧乏人の間で宣言された戦争なのだ。」

バブーフは法律上の平等ではなく、事実上の平等を求めました。

「それに到達する唯一の方法は、共同の管理を打ちたて、私有財産を廃止し、各人の才能を各人が心得ている仕事に結び付け、各人にその成果を現物で共同保管所に供給させ分配の管理を打ちたてることである」

これは明らかに共産主義への指向です。


バブーフの陰謀

バブーフは、彼の計画を実現に移すため、「陰謀組織」を結成し、その蜂起によって一気にことを成し遂げようとしました。つまり、彼はかつての急進的な暴動のように、民衆に公然と訴え民衆運動の力で目的を達する方法を棄てたのです。秘密組織による少数者の権力獲得、蜂起戦術の実行、革命的独裁の樹立を選んだのでした。

この方法は、バブーフの協力者であるブオナロッティ(ロベスピエールの弟子)からブランチ(フランスの革命家、1805-1891)に伝えられ、さらにレーニンに伝えられました。


総裁政府の対応

政府では、「パンテオン・クラブ」を弾圧するべきだとするカルノーと、左翼勢力との絶縁を避けるべきだとする他の総裁との激しい争いを繰り広げました。

結局、1796年2月、政府は「パンテオン・クラブ」を無政府主義の温床として、警察の手で閉鎖させました。

また、バブーフらの行動に対して更に、強硬な弾圧方針を採ることにしました。1796年4月、政府は次のような宣言をしました。

「王権の再建または1793年の憲法の再建…または土地均分法のもとに財産の略奪及び分割をそそのかすものは全て死刑にする」


失 敗

クラブは閉鎖されましたが、バブーフは屈することなく運動を続けました。過激なメンバーは、反乱委員会を設置して弾圧に対する報復と反乱を企てました。これは、革命から忘れ去れらていた「平等」のための闘いになるはずでした。

準備は万全でした。武器弾薬も蓄えらました。しかし、警察は初めから綿密にこの組織内部にスパイを持っていたのです。反乱の前夜、5月10日、バブーフ、ブオナロッティは隠れ家で逮捕され、その他15名が捕らえられました。さらに、残りの247人の協力者に対しても逮捕状が出て、この事件は終わりました。


結 末

一週間後、バブーフと同志ダルテは、バブーフの息子から渡されていた短刀で獄中自殺を図りましたが、結局、血まみれのまま刑場に連れていかれました。

流刑になったブオナロッティは、この陰謀を宣伝し、この事件は共和主義者の英雄的な伝説となり、反乱のテクニックや陰謀の内部組織も余すところなく研究されました。

しかし、これにより極左運動は当分再興できないほどの打撃をこうむったのです。総裁政府は左翼を心配することがなくなりました。次の目標は軍事的進出です。


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