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一言で説明すると…ヴァンデミエールの反乱を鎮圧したナポレオンが、オーストリア攻撃作戦でイタリア方面を担当する総指揮官になりました。総裁政府の命令を無視しながらも、勝利を重ね、ついにはカンポ・フォルミオ条約を結び、オーストリアと講和します。 |
バブーフがまだ、陰謀を練っていた1796年の春頃、総裁政府の軍事目標は、公安委員会の計画を踏襲し、フランスの「自然国境」を回復することでした。特にライン川一帯を獲得しようとしているフランスの障害はオーストリアでした。カルノーはオーストリアを次の三方面から攻撃する計画を立てました。
これにオッシュ率いるアイルランド軍がイギリスを脅かす、というわけです。
1796年3月5日、総裁政府はオーストリアと同盟するイタリア諸国を攻撃し、背後からオーストリアを脅かす作戦を立て、ナポレオンをイタリア軍総指揮官に任命しました。
総指揮官になったナポレオンは3月9日に、バラスの愛人となっていたタリアン夫人(テレーズ・カバリュス)の紹介で知り合ったボーアルネ子爵の未亡人である年上のジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネと結婚しました。しかし、新婚生活も束の間、2日後には早くもニースに向けて出発していました。
3月26日、ニースに着いたナポレオンは次のような言葉で兵士達を激励しました。
「諸君。君たちは裸で栄養も悪い。私は諸君をこの世で最も豊かな平原に連れていこう。富める田園や大きな都市が諸君の支配下に入り、そこで諸君は名誉と栄光と富を見出すだろう」
この言葉にはもはや共和主義や革命的な情熱はありません。「共和主義の精神が軍隊内で進むに連れて」勝利が確実になる、と述べたサン・ジュストとは大きな違いです。
とにもかくにも、わずかだったイタリア遠征の軍資金にもかかわらず、大勢の兵士を団結させたり、敵の弱点を素早く見抜くことのできるナポレオンの才能は、数々の軍事的成功をもたらしました。
ナポレオンは快進撃により、「十五日間に六回の勝利を収め、二一の軍旗と五十五の大砲を奪い」ニースとサヴォアを征服しました。
ミラノからは多額の戦利品を総裁政府に送り届けました。これらがフランスの財政再建に役立ったことは言うまでもありません。
5月14日、ナポレオンはミラノに入場しました。そこで、総裁政府から与えられた「北イタリアでオーストリアを牽制する」、という役割を無視して東に向かいました。カルノーはナポレオンの自分勝手な行動を心配し、イタリア南部に行かせようとしましたが、ナポレオンは聞く耳を持ちません。
各地では共和国の負けが続いていました。例えば、オッシュが計画したアイルランド上陸作戦は嵐のせいで実行できないまま挫折し、ドイツ方面のフランス軍はニュルンベルクで敗北しました。
ただ一人北イタリアのナポレオンだけが奮戦しています。
8月16日にはロンバルディアをチスバダナ共和国とし、1797年1月14日〜16日にかけてオーストリア軍相手に戦い、リヴォリで驚異的な勝利を収めました。
2月2日にはマントヴァが降伏。さらにローマに進み、法王軍を一掃し賠償金を要求しました。それから、ドイツ方面軍のモローと合流するために北上して東アルプスを超え、ウィーンを目指しました。
ヴィラッハに着いたオーストリア軍の指揮官に平和条約を求める一方、その間に兵を進め、ウィーンを脅かす要塞レオーベンを手に入れました。
オーストリア軍は劣勢を認め、全権団を送り、休戦と講和を求めました。総裁政府はナポレオンが勝手な交渉をすることを禁じましたが、4月18日、彼はさっさと講和条件を決めてしまいました。それは次のようなものです。
レオーベンでの予備折衝は数ヶ月後の1797年10月17日、カンポ・フォルミオ条約でほぼそのまま正式に承認され、ナポレオンがサインしました。これは彼のイタリア作戦の輝かしい終幕を飾るものでした。
カンポ・フォルミオ条約を批准したその日、総裁政府はナポレオンを「イギリス遠征軍」の総司令官に任命しました。最後に残った敵イギリスへの侵攻を託したのです。
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