ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

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フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。


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カザレス (ジャック・アントワーヌ・マリ・ド・カザルス) 1758-1805 (H12.5.1.UP)
Jacques Antoine Marie de Cazales

三部会での貴族代表。反革命家。

竜騎兵連隊の士官。貴族身分から三部会に選出され、僧侶出身のモーリーと共に王党派の要として活動。のち、立憲議会議員。1791年に亡命。ナポレオン治下に帰国。

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カミュ 1740-1833 (H12.5.1.UP)
Camus

第三身分代表として三部会で活躍した弁護士。

弁護士。第三身分代表として三部会に選出される。その後、立憲議会と国民公会の議員となるが、デュムーリエに裏切られて捕まり、2年9ヶ月オーストリアで牢獄生活を送る。1796年帰国。

総裁政府時代には、五百人会議議員となる。

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カルノー (ラザール・ニコラ・カルノー) 1753.5.13.-1823 (H11.10.14.UP)
Lazare Nicolas Marguerite Carnot

恐怖政治下での軍事責任者。「勝利の組織者」と言われる。

カルノー

ブルゴーニュの旧家に生まれ、革命前に工兵学校を出て技術将校となる。北部地方の部隊に勤務。革命勃発後は、パ・ド・カレー県から立法議会議員に選出される。

1792年には平原派の国民公会議員となり、のち、山岳派に移る。1793年には公安委員となり軍事問題に専心。国防問題を鮮やかに処理し、近代的国民軍の組織を組み、十四軍団を創設。ワッチーニの戦いで指揮を取り、「勝利の組織者」と言われた。

1794年、国民公会の議長となったが、ロベスピエールに「寛容派」と見られ、また、戦略の件で同じ公安委員のサン・ジュストと意見を異にし、ロベスピエール派と対立するようになった。

テルミドールでは今までの軍功を考慮され、処分を受けず、元老院議員、総裁政府の総裁を歴任し、軍事指導にあたった。

フリュクチドールのクーデターで一時ドイツに亡命するが、ブリュメールで帰国してからナポレオンに乞われて数ヶ月陸軍大臣となり、法制委員会のメンバーとなる。

1802年、ナポレオン帝政に対しては政治的自由を擁護する観点から反対を表明し、引退。 1814年再出馬し、アントワープを守り、百日天下では内相を勤め、王制復古後、国外に追放され、ドイツのマグデブルクで亡くなった。のち、パンテオンに改葬される。

一日十六時間執務したと言う精勤ぶりで知られ、理工科大学、工芸学校の創設、メートル法制定に功績を残し、また、軍事技術に関する著作はヨーロッパ軍隊の教典とされた。微積分学、位置幾何学の研究もした。学士院会員でもある。

「大カルノー」とも呼ばれた。長男のニコラス・レオナルド・サディ・カルノーは「カルノーサイクル」で知られる物理学者、次男のラザール・イポリテ・カルノーは進歩的な法「カルノー法」で知られる政治家、次男の子サディ・カルノーは第三共和国の第四代大統領である。

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カロンヌ (シャルル・アレグザンドル・ド・カロンヌ) 1734-1802 (H12.1.25.UP)
Charles Alexandre de Calonne

「貴族の革命」のきっかけを作った財務総監。

カロンヌ

北フランスのフランドル地方ドゥエに生まれ、同地の徴税官、高等法院検事になる。メッス、リースの地方総監を経て、そこで道路や運河の建設などに優れた行政手腕を発揮した。(画像をクリックするともっと大きな肖像画が見られます)

1783年、前任者のネッケル後釜として財務総監に就任した。

ネッケルの財政政策を批判し、巨額の負債を抱える公庫の債権に着手。しかし、最初放漫な公債政策を取ったために行き詰まり、1786年、賦役廃止や国内関税撤廃などの貴族や聖職者に対する課税を含むより徹底的な改革案を提出。これらは特権階級の利益を著しく侵すものなので高等法院に反対され実現しなかった。

1787年、名士会召集し、特権枢の免税を廃止しようとしたが失敗。財政の一部を公表せざるを得ない状況に追いこまれた。

この名士会が端緒となり、「貴族の革命」が行われた。同年罷免され、ブリエンヌに財務総監を譲り、イギリスに亡命。革命期にはイギリスで亡命貴族を援助して、反革命運動を組織した。1802年、ナポレオンに赦免され帰国したが、ほどなくパリで死亡した。

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カンバセーレ (ジャン‐ジャック・レジ・ド・カンバセーレ) 1753-1824 (H11.9.15.UP)
Jean-Jacques Regis de Cambaceres

執政政府時代の第二執政

革命前は会計院参事官を務め、革命が起きてから国民公会議員となり、ダントンよりの中間派に属す。国王裁判には、執行猶予付きで死刑に投じた。

生来、気が弱く、いつも強い者の傘下に入り、革命を生き延びる。テミルドール反動後は五百人会議議員となり、プレリアル30日のクーデターで司法大臣に就任、執政政治ではナポレオンに次ぐ第二執政を務める。ナポレオン法典を作成するときには議長となり、活躍する。のちにパルム公となるが、王政復古で国外追放、1818年許されて帰国。 (カンバセレスと読むこともあります。)

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カンボン (ピエール・ジョゼフ・カンボン) 1756.6.10.-1820
Pierre-Joseph Cambont (H13.5.28.UP)

「財政のロベスピエール」と呼ばれた。

南仏に生まれ、初めは貿易商を営んでいたが、1791年、立法議会に入り、財政問題を担当した。在任中は、巨額のアッシニア紙幣を新たに発行し、アッシニア紙幣乱発の原因を作った。

1792年、国民公会に入る。平原派から山岳派に移り、ルイ16世処刑賛成票を入れた。

1793年、最初の公安委員会の委員を務める。のち、財政問題の専門家として財政委員会の議長となり、戦時財政の遂行に手腕を奮い、「財政のロベスピエール」と呼ばれる。しかし、インフレ抑止に努めたものの不成功に終わる。その後、公債台帳を発表するが、これによって新政体は、旧政体の負債を知ることになる。

山岳派とジロンド派の抗争に際しては、最後まで調停に努めた。

最後にはロベスピエール 打倒に回ったが、テルミドール派に追求されて潜伏し、その後、郷里で引退した。ナポレオンの百日天下の時、議会に復帰したが、王制復古で国王裁判で死刑票を入れたため、「王殺し」として追放され、ベルギーに逃れ、そこで死亡。

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クートン 1755-1794
Couthon

「ロベスピエールの第二の魂」と言われた革命家。

オーヴェルニュの公証人の子。弁護士として活躍。無料の法律相談、病院や事前施設などの利益擁護など、無欲な実直さで社会に奉仕した。

革命中にリューマチのため下半身が麻痺。立法議会に入ってしばらく中立を守ったが、八月十日の革命によってロベスピエール派になり、国王処刑に賛成した。

1793年には公安委員会の一員となり、ロベスピエールサン・ジュスト行動を共にした。また派遣議員としてリヨンに派遣されたが、寛大な処置をしたため、コロー・デルボワフーシェと交替した。その後、パリに戻ると、国民公会議長に選ばれ、エベール派、ダントン派に対しては厳しい態度を取った。

94年には南仏に出ることになっていたが、テルミドールを予知してパリに留まり、ロベスピエール派として処刑された。

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コロー・デルボワ 1755-1794
Collot d'Herbois (H11.3.9.UP)

ロベスピエールを裏切ったが、ロベスピエール派として流刑された。

金銀細工職の子としてパリに生まれる。劇団に入り、各地を巡業し人気を得る。革命では、当初「一七八九年クラブ」に属した。1790年の連盟祭では革命劇を上演し大成功した。

ジロンド派内閣への入閣を図ったが失敗。その後、山岳派に移る。1792年8月10日の革命以降、パリ・コミューンの一員となり九月の大虐殺に加担。1793年には公安委員会に入る。

職業柄鍛えられた発声法による扇動的演説は、革命の士気鼓舞に貢献した。恐怖政治の主唱者であった彼は、リヨン虐殺を行い、この責任を問われることを恐れロベスピエールを裏切り打倒に動いた。

しかし、結局、テルミドールのクーデターの後は恐怖政治の責任を追及され、テルミドール派によってギアナに流刑され、同地で亡くなった。

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コンドルセ 1743-1794.3.29. (H11.2.16.UP)
Marquis de Condorcet

元数学者の革命家。

侯爵の子としてピカルディに生まれた。初め、「積分論」などを著し、数学者として名声を得た。のち、テュルゴヴォルテールなどに接近して経済論文を書いた。「百科全書」の経済学の項目を執筆するなど刊行に協力し、1782年、アカデミー・フランセーズの会員になる。また、夫人はサロンを開いた。

革命では、立憲王党派の立場を取ったが、ヴァレンヌの逃亡後、王政廃止に傾く。立法議会では財務委員を務め、公教育委員会委員長として公教育の組織に関する法案を発表し、これがその後のフランスの教育制度の基礎となった。

国王裁判では、処刑に反対山岳派との対立を次第に深めた。1793年、ジロンド派憲法の草案を起草し、ジロンド派追放ではジロンド派支持のパンフレットを発刊してロベスピエールらから非難された。

いずれの党派にも属さなかったが、恐怖政治の下では、ジロンド派に属すると嫌疑をかけられ、逃亡潜伏を続けた。

逃亡中に、「人間精神進歩の歴史概観」を執筆していたが、完成間際に逮捕され、獄中で服毒自殺した。

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