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管理人のつれづれ10

 

管理人は結構文章を書くことが好きである。
そしてつまらないことをとってもつまらなく書くことが大好きである。
そして私的なこと、思ったことを書きたいが為にこのページを作ってしまいました。
書くことに自己満足する為だけのつまらないページです。
おそらくどうしようもない事を書いていると思うのでここで引き返されることをお勧め
します。

 

 

サッカーと日本人  (2002/5/31)

 

本日より日本と韓国共同開催によるワールドカップが始まる。テレビでもそうしたニュースが多く、何とか
気分だけはそうしたニュアンスになっている。が、私はあまり興味がない。いや、私だけではなくサッカー
という競技は日本人には非日常的で、余り親近感がないように思えてならないのだが。私の場合はスカパー
と契約しているので全試合を無料で見ようとすれば見ることが出来るのだが、それよりもプロ野球で現在
首位を奇跡的に走っているタイガースを応援するのに忙しいからそんな暇はないのだ。この思いは私だ
けではなく日本人がサッカーに関して感じているのではないか。当家ではご飯時にJリーグとプロ野球を
同時刻で放送していると、間違いなくプロ野球(タイガース)を見ている。もちろん、日本代表の試合は別
であるが。ちなみに私はサッカーではセレッソ大阪の森島選手の大ファンである。Jリーグ昇格前から応援
しているが、日本代表試合でも森島選手の動きのみを見ている。だから彼が出ていなかったり、途中で
交代させられたりすると「トルシエのバカ野郎」と言いながら、後の観戦は適当になってしまう。日本が勝つ
にこしたことはないが、私はとにかく熱狂的な森島選手ファンだから彼が出ない時点で全く興味を失って
しまう。正直なところ、ベッカムがどうとか、ジダンがどうとか、インザーギがどうとかテレビで褒め称えられ
ていても、それ誰?何やってるの?という感じが私を含めた多数日本人の率直な思いであると思うのだが、
如何なものだろうか。例えばサッカーを愛する一部の方たちには申し訳ないのだが、これが野球のワー
ルドカップを日本で開くとして日本代表にイチローや松井が打ち、井川や野茂、佐々木が投げてアメリカ(要
大リーグのオールスター)と対戦するとなった時を想定した場合、どちらに感心が集まるだろうか。言わずも
がなである。しかし世界的に見れば圧倒的にサッカーの方がメジャーではあるのだが。そのファンの熱狂的
なところは凄いものがあるが、あまり感覚的にはピンと来ない。日本代表以外の試合も民放で放送される
ようだが、視聴率は低いことは間違いないであろう。その上に、日本が一次リーグ敗退にでもなろうものなら
・・・・・・・考えるだに恐ろしい。それ故日本代表は死んでも勝ちあがらなければならない。今後のJリーグの
未来もかかっているといっても過言ではないのだから。それ故、プレッシャーから虫垂炎になる選手も出て
きたのかもしれない。サッカーと日本人が身近なものになるかどうかを日本代表一人一人が背負わされてい
るのである。一次敗退してしまうと後のワールドカップは決勝リーグといっても、日本人にとっては他人事と
なってしまうであろう。恐らく決勝でどこのチームが勝っても、その日にタイガースが勝てば翌日のスポーツ紙
の一面は・・・・・・サッカーと日本人は今そんな関係だと私は思う。何にしても勝たなきゃ、日本代表!!

 

 

 

死ぬこと  (2002/5/30)

 

余り気色のいい話ではないのだが、最近よく考えることを書いてみたくなった。私が死ぬことを初めて考え
るようになったのは中学校3年生であった。中学校は別であったが、小学校の時に同じクラスで遊んでい
た友人が当時自殺したのである。新聞にも大きく取り上げられ、理由はいじめではないかと書かれてい
た。小学校の時から表面はノンビリ屋に見えたが、私には彼の繊細な性格が判っていた。それだけに、
知り合いの死はショックであった。それから、私は自分自身がいなくなった世界を怖いものと感ずるよう
になったのである。自身がこの世にいなくなることを考える恐怖というものは、若い時の感覚は凄い大きさ
となる。そして祖母の死と棺桶に横たわった姿を見た時に大きなショックを受けたものである。もちろん
親愛なる祖母の死であるから、ショックを受けて涙することは当たり前ではあるのだが自分の死に対して
はっきりと自覚する日ともなってしまったのである。それからこれまで百回近く、それも突然に自分が死ぬ
ことを想像しては一時的なショック状態になったものである。ある時は目覚めた時、ある時は電車の中で
、ある時は授業中であったりと。それは今でも不定期に発生するもので、こうしたことを何故考えてしまう
のかは未だに判らない。それは私自身が弱虫であることが一つの理由であることに間違いないのだが、
それだけではなく多くの理由のない理由が重なって発生しているのだと思う。以前述べたように、昨年末
に会社の同期が心筋梗塞で突然この世を去った。今考えるに、私の調子の悪さはその時から来ている
ような気がしてならない。そして昨年、曲がりなりにも生きた証とする私の野鳥写真集が完成した。
この二つから私は生きる意味を無くしてしまったのかもしれない。何も今は意欲が湧かない、廃人に近い
状態になってしまっている。生きる為には理由が必要と私は思っている。家族の為や目標の為といった
明確な理由である。残念ながら、今の私にはなにも無くなってしまった。辛うじてあるとするならこのホーム
ページのみではないかと。しかし一方では、死ぬことにも明確な理由が必要な気もする。先日、明石市で
国土交通省によって殺された美帆ちゃんが短い人生を終えた。しかし、彼女も大きな意味を持って素晴ら
しい人生を全うしたと私は信じている。ご冥福をお祈りします。私は死ぬことを絶えず考えている。決して
自ら絶つという意味ではないと思うが、どのような形で迎えようとも今は静かに受け入れようと考えている。
死ぬことの意味を最近よく考えてしまってならない。( 縁起でもないことを打たすな!!  弟より )

 

 

木綿のハンカチーフ  (2002/5/27)

 

最近、久しぶりにこの曲を何度か聞くようになった。そして改めてこの歌詞の素晴らしさに圧倒される思い
がする。この曲は太田裕美がかつて歌って大ヒットしたいわゆる歌謡曲である。作詞はヒットメーカーと
して今でも有名な松本隆である。(といってもついさっき検索して初めて知ったのであるが。)この曲は私
が小学生ぐらいにはやっていた。当時、誰からもらったのかは覚えてはいないが、明星の付録について
いた歌謡曲のソングブック集を見て、この曲が好きで何度も繰り返して歌った記憶がある。当時は歌詞
よりも、太田さんの透明感のある声と曲調に惹かれて好きだったのである。が、今回再び聞くことでこの
歌の歌詞に感動してしまった。きっかけは私も大ファンで現在人気がある椎名林檎が2枚組カバーアルバ
ムを発表し、FM802で盛んに流れるようになったからである。最初はああ懐かしいなと聞いていたの
だが、大胆なアレンジと椎名林檎の圧倒的に深い声質がこの歌詞を聞かせてくれた。単純に言えば、都会
に出向く男と彼を送り出して地元に残る女性との時間の流れと別れを歌詞にしているのだが、その表現
方法が手紙のやりとりになっていて、男の都会によって変わっていく様と、女の変わらない、深くそれ故に
見事な潔いサヨナラまでをストーリー仕立てで歌っている。当時は都会(恐らく東京をイメージしている)に
出ることがそれだけインパクトというか、人生を変えるものであったのだろう。それ故に、当時ヒットしたの
だろうが不思議なことに今の時代の方がこの歌詞は私を掴んで放さない。それは椎名林檎の素晴らしい
歌声の力だと思う。抑揚を極力抑え、ワンフレーズの最後をすべて伸ばすことで聞くことへの神経を集中
させるよう意図したのではないかと感じた。「恋人よ、僕は旅立つ 東へと向う列車で〜♪」機会があるなら
ば、是非椎名林檎による木綿のハンカチーフをお聞きください。ほんとに素晴らしいですよ。

 

 

 

蟻(アリ)  (2002/5/24)

 

私には今許せないことがたくさんあるのだが、その一つがアリを退治するなどという狂気の沙汰としか
思えない殺虫剤を製造・販売する会社が存在することである。アリ達のどこが有害なのであろうか。この
意見には弟も同意しており、同じく許せないと申しております。家の中で歩かれるのが気持ち悪いなど
という一部のバカ主婦たちの意見を取り入れて、こうした殺虫剤を生産しているのだろうか。売れるから
作るという需要と供給の関係が成立しているのであろう。私はアリが大好きである。私のような馬鹿者
と違ってとても働き者のアリたちを素晴らしい生き物だと思うし、彼らは昆虫の死骸や多くのものを食し
て自然界に大きく寄与している。そして我々人間のように、自然に対して害悪でしかないゴミのような
生物ではないのである。小学校の頃に学研の○年の学習の教材でアリの生活を見るという極めて楕円
型で透明のケースにアリたちを入れて観察したことがあった。彼らはそうしたケースに入れられても
健気に巣を作って生活の場を確保する。生き物の素晴らしさを小さいながらに見て、ほとほと感心させ
られてしまった。それが今は一部の狂った人間達によって害虫扱いされているのである。テレビのCM
を見る度に、私の中に怒りがふつふつと煮えたぎってくるのである。○○製薬や○鳥よ!そんな無益な
殺虫を研究する金があるのなら、是非作ってもらいたい物がある。題して「国会議員ホイホイ」である。
国会議事堂前に設置し、誘う匂いを万札とするといいだろう。合せて勲章と銅像でも置いておけば効果
テキメンである。そうすれば、政治ももう少しは良くなるだろう。どこかの政党は胡散霧消するかも。
とにかく最近の日本人は、働き者のアリたちをどうして暖かい目で見てやることが出来ないのだろうか。
私が子どもの頃にはこうしたお馬鹿な殺虫剤は売っていなかったと思うのだが。ただし、シロアリだけは
働き者が揃っては困るし、駆除されるのはやむを得ない話である。それとさすがにゴキブリさんとはどう
しても仲良く出来ない私である。アリたちを人間の迫害から守る会でも作ってやろうかな。

 

 

 

続・MTV  (2002/5/20)

 

以前に80年代の洋楽ビデオクリップの件で書いたのだが、最近になってまた幾つかの曲がCMに
使用されて再び書きたくなったのである。ヤクルトでフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「Relax」
やサントリービールでJ・ガイルズバンドの「Centerfold」が使われていてとても嬉しくなってしまった。
特に「Relax」は当時、斬新な曲とビデオクリップにはまったものである。(彼らは一発屋で終わって
しまったが)それが、先日この曲の念願のビデオクリップを録画することが出来た。本当に懐かしく
て、素直に感激してしまった。以前にビデオクリップを見たいと書いた2曲は放送され、余りの喜び
に何十回も繰り返して見てしまった。DVDだから画質が落ちることがないので安心である。その他
には当時好きだったポール・ヤングの「Come Back and Stay」、10CCの「I’m Not in Love
、ABCの「Look of Love」、ロビー・ネビルの「セ・ラ・ヴィ」、サバイバーの「Eye of The Tiger」
ビリー・ジョエルの「Uptown Girl」、アル・ヤンコビックの「Eat It」、バグルズの「ラジオスターの悲劇
ポインター・シスターズの「ジャンプ」、クール&ザ・ギャングの「Celebration」等等を再見することが
出来てホクホクである。さらに来週にはドナルド・フェイゲン、ジェネシス、ダイア−・ストレイツやブロ
ンディなどが見ることが出来る予定で、それだけが今の私の楽しみである。80年代の洋楽は本当に
素晴らしい曲が多かったが故にコマーシャルでよく使われるのだと思う。そう言えば、先日ラジオで
スティックスの「ミスター・ロボット」を久しぶりに聞いて感激したもんなあ。でもCDで聞き直すよりは、
やはり当時のビデオクリップでのご対面が最高ですよ。これだけでもスカパーと契約している価値は
十分あります。今はトンプソン・ツインズの「Hold Me Now」とマイケル・センベロの「マニアック」の
ビデオクリップが見たいなあ。判らない人には全く判らないことを書いてしまって申し訳ありません。
でも私は当時の音楽が本当に好きなんですよ。

 

 

 (2002/5/18)

 

私はコンプレックスの固まり人間なのであるが、中でも一番大きいのが自分の声なのである。どう
嫌なのかとというと、音質が高いのである。そのコンプレックスは小学校に入った時から常に持って
いた。自分で話していて嫌になることも多い。もちろん声変わりはしたのだが、思ったよりトーンが
落ちることがなかったので、期待していた私はがっかりしたものである。それに鼻がつまり気味の
声なので余計に聞き苦しい。数年前に某番組で数分間テレビに無理矢理出されたのだが、それを
家で見ると無茶苦茶な鼻声でトーンも高くで自分で見ていて本当に恥しかった。(姿も)高校生の時
テープで録音した自分の声を初めて聞いた時に、「ああ、俺ってこんな変な声でしゃべっているんや
なあ」とショックを受けて、一時話せなくなった時期もあるくらいであった。だから、カラオケなども行く
ことがない。自分の声に大きなコンプレックスを持っているだけに、恐ろしくてとても行く勇気がない。
何せ、声をごまかす為に中学校の音楽の自由課題で「OK牧場の決闘」を英語で歌ってごまかした
くらいなのである。どういう声が理想かというと、三船敏郎や刑事コジャックの声優をやっていた森山
周一郎さん、それに一番憧れたのは昔、NHK−FMでクロスオーバー・イレブンでナレーターをやっ
ていた津嘉山正種と横内正であった。それに比べて大嫌いだったのが、元オフコースの小田和正
である。今でもラジオからあの声を聞くと、寒気がして思わず消してしまう。あの声質が合わないし
本人が大阪嫌いということを聞いたのも大きな要因かもしれないが。何にしても、声は生れた時に
決められたものであるから、どうしようもない。そういう点でHPは声が聞かれないから安心である。

 

 

浜辺のうた  (2002/5/12)

 

「明日浜辺をさまよえば、昔のこととしのばるる。風の音よ雲のさまよ、よする波も貝の色も。」
最近、なぜか小中学校に習った童謡や唱歌を口ずさんでしまう。それも極めて曖昧な形でしか歌え
ないから、インターネットで調べたりして懐かしんでいる。特に好きなのが「浜辺のうた」である。この
歌は今でも強烈に心に残っており、中学校だったと思うのだが音楽のテストで歌った記憶が鮮明に
ある。この詩がとても素晴らしいと思っているので、忘れずに心の中に残っていたのだろう。そう
言えば小中学校の遠足や郊外学習というものにはわら半紙で作った、小さい歌の冊子をいつも
配られた記憶がある。その当時の歌謡曲のヒット作品などもある一方で「ふるさと」といった童謡も
たくさん掲載されていて、バスの中で皆で合唱したものである。そうそう、いつも中村雅俊の歌で
ある「ふれあい」は必ず掲載されていたものである。誰にでも歌いやすい為であろうか。日本には
季節ごとや地域、自然に関しての素晴らしい童謡や唱歌があるものである。その一方で外国の曲
に日本の詩をつけて無理矢理歌ったものもある、「駅馬車」のように。(あの曲に日本の詩は今考え
ても無理があると思うのだが。)また、「大きなのっぽの古時計、お爺さんの時計〜♪」という歌も
未だに忘れられない好きな曲である。「たきび」「うみ」「赤トンボ」「おぼろ月夜」「茶つみ」「しゃぼん玉」
等々をインターネットで探し出して、一緒に歌ってしまっている。皆さんには思い出の歌、忘れられな
い歌なんかはおありですか。懐古主義で年をとった証拠かなあ。

 

 

 

学習塾  (2002/5/10)

 

この4月から公立学校が完全週5日制になった。ゆとりの教育などとばかげた方針が掲げられて
いるが、日本の若者の教育レベルは間違いなく急落していくことだろう。また、不景気な折の共働き
をしているような家族にとって、過度な負担を強いることであろうと私は思っている。その休みに子供
たちが部屋でTVゲームをしていたらと考えると、何の為のゆとりなのかと疑問を感じ得ない。
その休みの時間の使い方の一つに学習塾が挙げられている。私も中学生の時だけではあるが、
学習塾というものに通っていた。いや、今のようなカリキュラムがしっかりしたものではなくて、女性の
先生が一人で運営されていた。英語だけの塾だったが、我が学区では異常な人気があり、隣町から
通う生徒も多かった。自宅の横にプレハブのボロボロの教室が一つ。そこに一度に50人程度が
集まって学年別に教えてもらっていた。とにかく教室の中は先生の作った答案用紙等がうず高く積ま
れており、とにかく汚かった。先生は時間になるやプリントを配り、いきなりテストをさせる。驚くほど
レベルが高いのである。何と中学二年で灘高の受験問題や、高校生が習う問題を出してくるので
なかなか簡単には答えられない。しかし、そういった難しい問題ばかりやらされる為か、学校の英語
の試験がばかばかしいほど簡単に見えてしまうから凄い。それがこの英語塾の優秀なところである
が、先生がまた無頓着な性格で個々の生徒を覚えているようでもなく、調子が悪い時はそれを生徒
にはっきり言ってテスト、テストのみで時間終了もある。それについて誰も文句も言わないし、楽しん
でもいたのだ。先生が機嫌の良い時に配られる塩せんべいを皆が楽しみにしていた。開始時間を外
で待つ時間さえも楽しめるような暖かい雰囲気があった。お蔭で中学校時代は英語の成績だけは
飛びぬけて良かった。恐らくあの塾に通っていたほとんどの生徒が良かったのではなかろうか。
大学生になったある日、先生に久しぶりに会った。お聞きすると、教えるのが面倒くさくなって塾は
閉じてしまったとのこと。今はフランス語が面白いので、独学して近い内に行って来ると元気に話され
ていた。数年前、その先生の家は壊されてマンションになっていた。あの頃がとても懐かしい。
先生もいいお年だったので、今は悠々自適にリタイアされているのだろうか。フランスには間違いなく
出向かれたのだろう。とにかく、あんなに楽しい塾はなかった。

 

 

 

知らぬ間に  (2002/5/8)

 

正直、政治的なことについては書き込みたくなかったのだが、あまりに怖いことがどんどんと曖昧な
ままに進められていくことに我慢できなくなって決心して書き込んでいます。小泉首相はこの一年に何を
したというのでしようか。改革、改革と唱えるばかりで、何ら進むことはなく天下りは相変わらず止まる
ことなく、無駄な我々の税金は高級官僚に食い物にされるばかりです。この不景気に対して何ら手を
打つこともなく多くの人々を路頭に迷わせているというのに、首相になったことに一人酔って遊んでいる
日本一無能な公務員と言えるでしょう。腐敗した外務省にも国会議員の腐敗についても何らリーダー
シップを取ることもありません。こんな人間に改革など出来るあろう筈がありません。その上に、自分の
主義を通して国民が望んでもいない郵政公社の民営化、メディア規制法三案、有事規制法三案を
どさぐさまぎれに押し通そうとしております。メディア規制法は政府による言論の統制という戦前に戻す
ことが可能な恐るべき暴力的法案であります。行き過ぎた報道がないとはいいませんが、それは我々
国民が規制すべきであって政府が規制するものであってはなりません。また、非常に中味が曖昧な
有事規制法は通すべきではありません。それ自体が不必要とはいいませんが、外形の法案だけ先に
通して中味は細部で政府や官僚が煮詰めるというのは、決して許されることではないのです。直接に
我々国民の声、つまり選挙を通してその是非を問うのが当然ではないでしょうか。今国会でこれらの
法案が通れば、与党の議員並びにそれらの政党を支持している全ての人間が後悔することは間違い
ないでしょう。末代まで未来の日本国民に恨まれることは間違いありません。小泉首相は最終的には
日本国憲法の改定を狙っているのです。私は戦勝国に与えられたとはいえ、今の日本国憲法を我が国
の宝だと思っております。今のようなゴミのような国会議員たちに憲法改定などさせてはならないので
す。ひょっとして宗男疑惑も田中真紀子騒動も、辻本議員の秘書疑惑のリークも、それにタイミングが
本当に良すぎる不審船の事件及び引き上げについても、全てはこれらの重要法案をドサクサ紛れに通
してしまおうという一部の人間達の策略のような気がしてならないのは私だけでしょうか。
ワイドショーを見ているその間に法案が通ってしまったら、我々国民は今後その事実も知ることが出来
なくなるかもしれないのです。知らぬ間に、知らぬ間に。

 

 

野良猫と私  (2002/5/2)

 

私は猫である。それも間違いなく野良猫である。犬のように人間に媚びたり、シッポを振ることができ
ない。とことんマイペースで、他人に合わすことが出来ない不器用な人間である。だから野良猫が
とても羨ましい。人間にもそれほどかまわれずに、自由に生きている姿に憧れを覚えてしまう。
今日のことである。山田池でコルリのさえずりが聞こえたので、その声につられて歩いていった。一番
よく聞こえるベンチには先客があった。黒と白のぶちの野良猫であった。私が近づくと、その野良猫
はベンチから降りてきて二声ニャ−と鳴いた。恐らく自分の縄張りということを示したかったのでは
ないだろうか。それでも特等席でコルリの声をどうしても聞きたかったので、野良猫に「悪いけど坐らせ
てや。」と声をかけてベンチに腰掛けた。と、その野良猫も私の横に上がってきて、何度か匂いを嗅い
だ後に座り込んだ。何度か目線があったのだが、認めてくれたのか猫は目線を下に落とした。コルリ
の声は素晴らしかったし、ウグイスも近くでさえずってくれて30分も座り込んで聞いていた。隣の猫を
時々見たが、こちらのことを全く気にしていなかった。ただし、近くの道を他の人や散歩中の犬が通る
度に目線を上げて、耳をたてて集中していた。と、おかしなことに私も知らぬ間にその野良猫と同じよ
うにそちらを見ていたのである。不思議な感覚ではあったが、その一瞬に野良猫と私は一つの何か
同じ感情のようなものを共有できたのである。言葉では説明しにくいのだが、私は確かにその猫と同じ
視線と気持ちで犬や人を観察していたのである。野良猫にとっては犬や人という物体は警戒すべき
ものである。一匹で生きていく為には絶えず神経を研ぎ澄まさなければならないのである。コルリが
いつの間にか遠ざかって行ったので私はゆっくりと席を立った。その時に猫と目が合った。「ありがとう
、お邪魔しました。」と自然にその猫に言葉をかける私がいた。あの時間は何だったのであろうか。
あの野良猫は本当に私を警戒していなかったのであろうか。私は一瞬にでも野良猫になれたので
あろうか。もう一度言うが、私は猫である。そして私という人間が、もう間もなく本物の野良猫になって
いくことを感じている。人間を放棄するという意味ではない。その時がとても楽しみである。

 

 

 

花がいっぱい  (2002/4/29)

 

私の家は現在花園状態になっている。何せ、家族は私を除く人間がガーデニングに凝っているもの
だから、狭い家の周りや屋上、家の中にまで花が咲き乱れているのである。今はオダマキとパンジー
やテッセン、マリーゴールド、シャガや数種類のエビネ、アイリスという菖蒲類から始まってハーブ類
も数種類花を咲かせており、イチゴにミカンの花、芙蓉類のピンク色も美しい。それにつられて多くの
ハチ(ミツバチ、アシナガバチ、クマバチ等)、チョウ(ナミアゲハ、アオスジアゲハ等)、テントウムシ他
たくさんの昆虫達に会う事ができる。私は野の花以外はあまり興味はないのだが、昆虫達が観察で
きるのでとても楽しいのである。とにかく玄関先にはあまりに多くの鉢植えがあるので、通行の迷惑
になるんじゃないかととても心配している。それと面白いのは、屋上の鉢植えに勝手に出てくる植物達
である。これは当家のものが植えたのではなく、ヒヨドリ等の野鳥達が運んできたと推察されるもの
である。とにかく面白いので、とことん育てることにしている。ミカンの木も彼らが運んできたものだし、
最近まで名前の判らなかったマサキという低木はすでに1m近くに育っている。未だに名前不明とい
う植物が10種以上あるのだが、とにかく大きくなるまで判らないところがとても楽しい。アオキの木も
よくヒヨドリ等で運ばれると聞く。そうした野鳥達の贈り物を何だろうとワクワクしながら育てるという事
を好む私の家族は変わっていていいと思う。冬を除いて花が絶えることのない家の周りは常に色と
匂いに囲まれて雰囲気が明るい。ただ、一度だけ鉢植えが盗まれたと言って家族の者がガッカリして
いた。花泥棒をしてそれを商売にしている野郎がいると聞く。おそらく心の貧しい人間なのであろうが
その花を育てた暖かい人間の心を踏みにじる愚かで野蛮な行為である。
話はそれたが、とにかく花に囲まれていると昆虫になったような気になってしまう。いちいち花の匂い
を嗅いでしまうのが習性になってしまった。花はいつも人を幸せにしてくれるのである。

 

 

握手  (2002/4/28)

 

私は人と握手した記憶が全くない。社会人も学生時代も握手した自分の情景が浮ばない。こんなことを
書きたくなったのは、aikoという歌手の新曲に「あなたと握手」というものがあってどうして握手なのかと
いうDJの答えに、家族や友人と別れる度に握手をしているという話を聞いたからである。握手とは人の
温もりを感じるものだそうである。その時にふと思い出そうとしたのだが、全く握手をしていないような気
がするのだ。小学校の時のうろ覚えの記憶の中にも全く欠落しているのである。辞書で引いてみると、
「(あいさつ・親愛のしるしとして)手を握り合うこと」 と書かれてある。家族同士で握手するのはaikoの
家族と僅かな比率だけだとは思うが、それ以外に全くないという人間は私以外に果しているのであろう
か。考えられるのは小学校の卒業時には先生と握手した可能性くらいか。挨拶のためにお辞儀はする
が、握手までするものなのだろうかとそのラジオ番組を聞いてから深く考え込んでしまったのである。
親愛という言葉は私の人生には程遠いものであったから、そういうしるしを示したこともないし、もらった
こともない。考えてみれば握手してもらったこともない私の人生とはなんて寂しい人生なのだろうかと、
強烈な孤独感と果てしない空しさが私の心の中で暗闇を作り始めている。握手ってどういう気持ちです
るものなのだろうか。握手の温もりって何だろうか。私には判らない。
誰か握手してくれませんか。

 

 

コンビ二  (2002/4/28)

 

コンビニはもう私達の生活には欠かせないものになってしまっている。スーパーが無くなっても代わり
になるものはあるが、コンビニはそういう訳にはいかない。はっきり言ってコンビニほど利益率の高い
商売はない。ほとんど定価販売だし、店員といえばほとんどがアルバイトでどう考えてもおいしい商売
であるとは思う。思うが実際はある程度の購買客を確保しての話であり、商売敵が近隣に店を立地
されればたちまち厳しいものとなる。さて個人的な評価ではあるが、弁当やおにぎりのレベルが一番
高いのはセブン・イレブンである。ワースト1はローソン!最悪・最低で、未だにここでまともな物を食し
た記憶がないのである。御菓子関連の充実度では、デイリーヤマザキを昔から一番評価している。
店員のサービス面でもやはりセブン・イレブンが一番である。サークルKもなかなかいい。ワースト1は
阪急グループ系列のAsSoonAsである。総合的に望めばセブン・イレブンが好きなのだが、私の家の
近くには長い間、ローソンのみが2件しかなかったのである。お蔭でまずい弁当やおにぎりばかり食わ
されたものだから私は長い間、コンビニとはろくな食べ物を提供出来ないものだとあきらめていた位で
ある。京都深泥池近くにあるセブン・イレブンで弁当とオニギリを食べてからは、それがローソンに限定
したことなのを初めて理解した。基本的に米がまずいのであるが、これは致命的な欠陥である。
それ以来、近くのローソンでは決して弁当等を購入しなくなった。今はおいしくなっているかもしれないが
二度と購入しようとは思わない。そんな私の家近くにようやく昨年末、デイリーヤマザキが新たに店舗
を構えたのである。どれだけ待ち望んだことか。選択肢が無かった私にとっては非常にありがたいこと
である。やはりコンビニとは比較して使い分けることが肝心だと私は思っている。それぞれの品揃えを
見て、サービスを比較検討してこそ価値が判るというものである。ところでコンビニは戦略として顧客
の流れを想定して余計なものを購入させる品物の並べ方をしているそうだが、私は一度として無駄な
買い物をしたことがない。コンビニに何となく入って買い物をするということが全くないからである。
コンビニに何となく入店することの怖さを皆様はお気づきであろうか。そう、コンビニこそが無駄遣いを
誘発させる王様である。数百円の無駄使いも積もればすごいものとなる。恐るべし、コンビ二!

 

 

遊園地  (2002/4/20)

 

阪急電鉄が先の見込みがないとのことで、来年にも宝塚ファミリーランドを閉園することを聞いて本当
に寂しい思いがする。子供の頃に良く連れていってもらった記憶があり、高校生の時は友人と一日
乗り放題チケットで遊んだこともある。私にとっては枚方パークと共に大事な遊園地であった。
少子化や遊びの多様化、更にUSJの影響等から赤字を解消出来ないというのが建前の理由のよう
であるが、実際のところは阪急電鉄は数年前から閉園を考えていたようなところが多分にある。阪急
ブレーブスを簡単に身売りしたように、我々には宝塚歌劇さえ残ればというような気持ちがあったので
はないか。USJは格好の閉園への口実となったのであろう。しかし、USJは小さな子供達が遊ぶに
は多少無理がある。宝塚ファミリーランドは遊戯施設と共に動物園もあったので、子供時代の私に
とっては一度行って二度おいしい遊園地であった。先日もニュースで関西の遊園地の入場者数が
軒並み数を減らしていることが、USJの影響だけのように結論付けて報じられていたが、私は違うと
思っている。遊園地はかつては家族で楽しむ重要な場であったのだが、そういった価値観を今の大人
達に見つけさせることが出来なくなったからではないだろうか。悪戯にキャラクターショーのようなもの
に傾倒していくうちに、本来守っていくべき大事なものを経営者が失っていたように思う。宝塚ファミリー
ランドは最初から電車の乗車数を増やす目的のみに作られたのだろうか。それのみが理由なら悲しい
気がする。枚方パークも入場者数が減っているようだが、是非頑張ってほしいものである。一方あやめ
池遊園地では、近隣の小学校の教育の場として園を提供して生き残りをかけることをこれもニュースで
見た。とても素晴らしいことだと思う。小さな遊園地だから出来る柔軟性なのだろうが、こうしたお客様
を大切にしてこれからも奈良近辺の子供達のために、遊園地の名前を消さないようにしてください。
最後に、最近の遊戯施設はどうしてスピードやスリルばかりを追い求めるのであろう。それが結局は
投資過多を生み、自分達の首を絞めているだけにしか見えないのだが。また、そうしたものばかり追求
している日本人って結構おかしいと思うのは私だけであろうか。私の子供の頃の貴重な思い出の場所
が消えていくことは例え様がないほど寂しい。頑張れ、関西の遊園地たち!

 

 

 

 (2002/4/17)

 

雨の時間が基本的に好きである。週末の撮影が邪魔されない限りは、雨を感じる瞬間を私はいつも
楽しんでいる。特に雨が降る前のあの雨の匂いを嗅ぐ一瞬に幸せを感じてしまう。湿気というもので
はなく、雨にはたまらなく魅力的な匂いがある。夜の雨が好きである。寝ようと床についた瞬間に雨
が降りだした時など、ひとり布団のなかでほくそえんでしまう。出来れば僅かな雨音が聞こえるくらい
がいい。暗闇の中で聞く雨音はいつも私に心の平安をもたらしてくれる。
傘をさしている時間も嫌いではないが、それにも条件がある。風が強くないことと、適度な雨量である
こと。降っているか降っていないか判らない雨は傘を楽しむことが出来ないし、大雨だと楽しんでいる
気持ちの余裕が全くないからである。雨は晴れの日の風景、情景を全く違ったものに変えてしまうか
ら不思議である。スズメの元気な声があまり聞こえなくなり、他の音も吸収されて自分の耳が研ぎ
澄まされたように雨音のみに集中していくのが判ってしまう。ああ、今私は雨の中にいるのだ。そう
思いながら歩いている瞬間が知らず知らずのうちに喜びに変わっていくことが多い。
雨は時には人を災害で苦しめたりする一方、水不足の解消に役立つこともあるということで常に我々
の日常と深く結びついている大切な友達である。だから、雨に時雨や梅雨、五月雨などといろいろな
名前をつけて我々日本人は愛してきたのだと思う。確かに梅雨などはジメジメして気分的にも憂鬱に
なってしまうが、梅雨あればこその夏の喜びを感じられるとは思えないだろうか。(私自身は暑がりな
ので、夏は別段好きではないが)昔の私の家はぼろかったので、よく大雨の日は雨漏りをして洗面器
等を使って水受けをいくつも置いたものである。その受けるピチャ、ピチャという音さえも楽しかった
記憶がある。私は雨の時間をこれからも楽しむことの出来る感性を常に持っていたい。しかし週末
だけ降らないで欲しいなどといった勝手な事を言ってるようでは・・・・・・・・・とにかく雨はいい。

 

 

 

人を撮る  (2002/4/17)

 

私が一番苦手な被写体は人間である。とにかく撮影しようという気にも全くならないので、例えば知人
の記念撮影をする時にでも人間が被写体と思うと体に震えが来るのが判ってしまう。また、今までに
撮影しようと思った人間に全く会ったことがなかったので、私には無縁な世界だなどと思っていたから
人間を撮影した写真集も持ってはいないし、本屋でページを開いたことさえないのである。そんな私
が初めて撮影したいと心底思う方に出会ってしまったのである。一度は断られたので、やはり無理と
あきらめていたのだが、ある日に思いがけずOKを頂くことが出来た。本当は飛び上がりたいほどに
嬉しかったのだが、OKを頂いた時期が我が人生最悪の心身状況で撮影が出来なくなっていたので
ある。優しい方でこちらの体調が回復するまで待って頂けるとのことで、今は撮影出来る日が来るの
を生きがいにして辛うじて息をしている状態である。しかしながら、一度も人を被写体として撮影した
経験のない私にはどうやって撮影すればいいかが、全く判らない。正に五里霧中&暗中模索である。
一応、撮影方法の書かれた本を見つけて読んでは見たものの、果して私にそうした写真が撮影できる
かどうか不安一杯である。折角、無理を言って貴重な時間を割いてもらったのだからモデルの素晴ら
しさを、例えば野鳥達を撮影するように表現できればいいのだが。本当に撮影して良かったと喜んで
頂けるようなポートレート写真を、胸を張ってお渡ししたいと願ってはいる。が、正直なところ全くと
言っていいほど自信がない。撮影日が来るのを待ち望みながらも、その一方でまともに撮影できなか
ったらどうしようといった不安が日に日に大きく膨らんでいくジレンマに陥っている私である。
どなたか、モデル撮影経験のある方がいらっしゃいましたら、何卒ご助言を宜しくお願い致します<(_ _)>

 

 

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