私の主張 平成二十四年四月三十五一日更新 (これまでの分は最下段) 「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る
―正字・正かな運動實踐のためにー(一)(「國語國字」第百九十三號平成二十二年四月一日)
「主として」と「いはほ」
市 川 浩
國旗國歌法に定める君が代の「いはほ」が現代假名遣ひで「いわお」と表記されてゐる問題に就いて考へて見たい。現代假名遣ひの根據たる昭和六十一年七月一日内閣告示第一號の前書は第二項に「この假名遣は法令、公用文書、新聞、雜誌、放送など、一般の社會生活において、現代の國語を書き表すための假名遣のよりどころを示すものである。」とし、更に第四項には、「この假名遣ひは、主として現代文のうち口語體のものに適用する。原文の假名遣による必要のあるもの、固有名詞などでこれによりがたいものは除く。」としてゐる。
第二項からすれば國旗國歌法は法令であるから「いわお」と表記することになるが、實は「いはほとなりて」の歌詞は「なりて」と原文の文語體がその儘明記してあり、從つて「文語體」に現代假名遣ひが適用可能かどうか、第四項が問題となる。「主として」を除けば、現代假名遣ひの適用範圍は、「現代文のうち口語體のもの」に限られるから、古典文はもちろん、現代文でも「文語體のもの」は適用範圍外であることは明白である。
しかし「主として」とあるから、第四項は「現代文のうち口語體のもの」以外にも適用を例外的に認めることを示してゐるが、其の場合は嚴密な適用基準を明示しないと恣意的な運用による混亂を招くことになる。特に「現代文のうち口語體のもの以外」が何を示すのかが問題となる。「現代文のうち口語體のもの」でないものは全て對象になるとも考へられる。しかしこれは「主として」の文脈を考へると誤りであることが判明する。
先づ「主として」が「現代文」を指示するのであれば、さうでないものは「古典文」更には「未來文」である。そのうちの「口語體」が例外適用の對象となる。室町時代の狂言や江戸時代の作品に出てくる會話文等が其の例にならう。
次に「主として」が「現代文のうち口語體のもの」全部に係るとすると、其の例外は「現代文のうち口語體でないもの」になり、現代文に於ける口語體以外の詩歌など文語體のものが例外適用の對象となり得るのであつて、「現代文のうち口語體のもの」以外なら何でも例外對象とするのは誤りである。
此は全く同じ構文「死刑は主として殺人罪のうちの惡質なものに適用する」を考へれば自明であらう。即ち、「主として」が「殺人罪」を指示するのであれば、殺人罪ではない、例へば放火などで極めて惡質なものも死刑の對象になり得るし、「殺人罪のうちの惡質なもの」全部に係るとすると、其の例外は、殺人罪ではあつても必ずしも「惡質」とせぬ確信犯テロによる要人及び其の家族の殺害などに死刑が適用される可能性を示唆するものであつて、「殺人罪のうちの惡質なもの」以外の全ての犯罪に死刑が適用可能などとの解釋を生んではならないのである。
このやうに考へると君が代が古文の通り文語文として儼存してゐる以上、「いはほ」と歴史的假名遣で表記すべきであると結論附けて好いであらう。
しかし問題はさう簡單ではない。文部科學省主任教科書調査官の職にある白石良夫氏は其の著「かなづかい入門」で「假名遣は表記の規則である」とした上で「新假名遣で古典を書く」として「源氏物語の時代以降は、「ジ・ヂ」「ズ・ヅ」以外、現代われわれの發してゐる發音のはうに近いのだから、それらの本文は現代假名遣で書くはうがふさはしいと思ふのだが、いかがであらうか。」と發言してゐる。即ち表記の規則としての現代假名遣が古典文語文への適用可能を前提として議論を展開してゐるのである。「表記の規則」であるからには其の適用範圍は「主として現代文のうち口語體のものに適用する」との定義に忠實であらねばならず、たとひ「主として」の插入句により、例外適用が許容されるとしても、その運用は愼重でなければならない筈である。「政府見解に違背」を理由に空幕長更迭の例を考へれば、白石調査官は當然文部科學省の見解を代辯して「主として」だから他は何でもありと解釋してゐることになる。此の點は別途確認の必要があるが、既に書籍として一流出版社から刊行されてゐる以上、少くとも同省がこの解釋を默認してゐることは明らかである。即ちたとひ文語體であつても「いわお」が可能であることになる。
問題はこれだけではない。官廳の文書を律するものは昭和二十七年四月四日内閣甲第十六號依命通知の「公用文作成の要領」であり、其の「第一
用語用字について」の「三 法令の用語用字について」の2-(1)-1には「文語體・かたかな書きを用ゐてゐる法令を改正する場合は,改正の部分が一つのまとまった形をしているときは,その部分は,口語體を用ゐ,ひらがな書きにする」とある。となると、現行法の「いわお」を「いはほ」に「改正」せんとすると、先に「なりて」を「なつて」と口語體に改めることとなり、從つて現代假名遣ひがその儘遺ることになる可能性がある。
此は杞憂に過ぎないのかもしれないが、この問題の根柢には、内閣告示より下位の内閣依命通知が官廳の實務に於ては絶對命令として罷り通つてゐる實態がある。「交ぜ書き」、「宛字の書換へ」を事細かに規定し、新聞社等民間も此に倣ふから、國語分科會が表外字に就いての彈力的運用をいくら答申しても全く反映されてゐないのである。現に「涵養」を内閣法制局が「かん養」と直せと言へば議員も抵抗できない。依命通知、政令、省令など殆ど一般人の目に觸れぬから不合理があつても改善の機會は殆どない。(序ながら同項2-(1)-4には 「舊かなづかひによる口語體を用ゐてゐる法令を改正する場合は,改正の部分においては,現代假名遣ひを用ゐる。」となつてをり、憲法改正ではまったく審議拔きで表記が現代假名遣ひとなる)
更に出版界では古典文語體の現代假名遣ひ書き直しが既に急速に進んでゐる。官界、言論界を擧げて歴史的假名遣の撲滅に狂奔する理由は何なのか、さうして之に警鐘を鳴らす識者すらゐないのは何故なのか。若い世代が高校の文語の授業で、必然的に歴史的假名遣に遭遇するといふ現状は、戰後の國語政策に協力してきた人々にとつて或種の惡夢なのであらうか。できれば歴史的假名遣を一般の人々の目に觸れさせたくない、そんな心情が見え隱れする、そこには謂はゆる「敗戰利得者」の存在さへ疑はしむるものがある。
私たちはもう一度、昭和二十一年の「當用漢字」、「現代かなづかい」告示の原點から問ひ質さなければならない。
(引用の表記は地の文に統一)
(平成二十一年七月七日)
市 川 浩
昭和六年生れ
平成五年 有限會社申申閣設立。
正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。
國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。
これまでの私の主張(ホームページ掲載分)日附降順
論語臆解 「國語國字」第百八十七號(平成二十二年四月一日)
上代特殊假名遣臆見
―日本語變換ソフトからの管見―「國語國字」平成十九年二月二十三日(第百八十七號)に掲載
正字・正かなの印刷環境 ――「東京グラフィックス」平成十八年十二月號(Vol.45 No.561)に掲載
教育再生への視點
――「當用漢字」、「現代かなづかい」告示六十年に思ふ――
桶谷秀昭著「日本人の遺訓」を讀みて(文語の苑「侃侃院」)
「契冲」正字・正かな發信のために−「國語國字」第百八十五號(平成十七年十一月十一日)
忘れられる歴史的假名遣 「假名遣腕試し」に思ふ−「國語國字」第百八十四號(平成十七年十月十日)
「契冲」の獨白――字音假名遣を考へる――(「月曜評論」平成十六年四月號掲載)
パソコン歴史的假名遣で甦れ!言靈 (『致知』平成十六年三月號(通卷三四四號))
文語の苑掲載文二篇
昭和の最高傑作 愛國百人一首飜刻 たまのまひゞき 出版に協力して