私の主張 平成二十四年五月十五日更新 (これまでの分は最下段) 「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る
―正字・正かな運動實踐のためにー(二)(「國語國字」第百九十七號平成二十四年四月二十五日)
文化傳承としての古典尊重と假名遣論
國語問題協議會は昭和三十四年の設立であるから、本年はすでに半世紀を越えること三年、一貫して正字・正かなの復活を標榜してきたが、言論界の世代交代により、昭和二十年代から四十年代頃までは健在であつた、「現代かなづかい」を拒否する「頑冥な保守主義者」が退場して、正字・正かなを目にすることも皆無に近くなり、また前稿に述べた如く、最近では古典の現代假名遣表記さへもが提唱されるに至つてゐる。かうした最近の客觀情勢を考へると、一種の戰術轉換を迫られてゐるやうに思はれる。 (―正字・正かな運動實踐のために―(一)國語國字第百九十三號)
轉換の主眼は運動の目的を文化傳承としての古典尊重の原點に置くことである。意味の明確化でもある。我々が傳承すべき國語の傳統とは何か。繩文時代後半に成立して水田稻作を弘めて以來の話し言葉と、五世紀初頭の漢字傳來以來の書き言葉といふ、長い歴史の中で先人が傳承し、發展させた文化としての國語でなければななぬ。この内後者は慥かに西洋言語學の定義通り「話し言葉の記録用」として出發したが、奈良時代以降それまでの上代特殊假名遣に代表せられる強い表音性から、次第に現在の五十文字への包攝により、發音からの獨立性を高め、平安中期以降のハ行轉呼に對する書法追隨を拒否した藤原定家により、完全な獨立を假名遣として確立し、これが契沖、宣長を歴て今日完成したといふ歴史を背負つてゐる。特に現在の「口語體」は「文語體」の本質を歴史的假名遣を媒體として正確に受繼ぎ、明治大正時代の文學者の努力により成立した「書き言葉」である。この長い歴史を有する言語文化を次世代に傳承することが我々の責務である。
一般に文化の傳承には其の文化を有する共同體の成員個人個人が次世代に對して傳へ、次世代はこれを「學習」して受け繼ぐことが要請される。例へば最近のテレビで、ラーメンヲ啜る擬音語として壓倒的多數の人が「ズルズル」を聯想すると報じてゐた。「ズルズル」は洟の流れであり、また問題解決の先延しであつたりと餘り良いイメージはなく、食事の擬音語としては寧ろ「不味さうに啜る」を意味する。このやうな「感性」は父母や先輩の指導がなければ育たない。この一事からも明らかな如く、今日の國語問題は國民各人が次世代への言語文化の傳承に無關心であることに盡きるのではないか。
從つて假令義務教育に於て其の教育がなされずとも、日本人一人一人が子供に古典を讀み聞かせ、それを通して國語の感性を育て、延いて文語や歴史的假名遣にも親しませ、學習させる必要がある。さうしてこのことは今後の正字・正かな運動を考へる上で重要な轉換の必要性を示唆してゐる。
我々は「現代仮名遣い」を完膚無きまでに批判し得るが、當局者は一切反論せず只管既成事實の積上げに邁進して來た。昭和六十一年の「現代仮名遣い」には折角個々人の表記にまで及ぼさうとするものではなく、一方歴史的假名遣を尊重すべきと明文化されたにも拘らず、言論界特に有力な言論人は見向きもせず、正字・正かな運動は急速に失速した。
結局昭和五十年代「國語破壞を止める」運動の高まりの中で、「現代仮名遣い」制定をめぐり、“これを“強制と感じる被害妄想患者に必要以上の配慮”して、前書きを“八箇條にも膨れ上げさせて”、兔に角廢止から守り切つたことがその後の「現代仮名遣い」の勝利に繋がつたと言はざるを得ないのである。 (引用符内白石良夫「かなづかい入門」平凡社新書百六十五頁)
このやうな經緯を見れば、「現代仮名遣い」批判は一定の成果を收めたとはいへ、今日なほこれに拘泥するのは必ずしも得策ではないと思はれる。文化傳承の立場からも、我々は「現代仮名遣い」が不合理だから、或いは歴史的假名遣が合理的だからといふ選擇に走るべきではない。
同樣のことは古典そのものに對しても認識を明確にする必要がある。今日「古典文化尊重論」に名を藉りた「原典尊重主義」が、我々に對して寧ろ批判的な勢力により聲高に主張せられ、例へば、寫本校訂に於ける歴史的假名遣依據を否定し、或いは漱石や藤村の手書き原稿にある表現や表記の誤りをその儘全集に印刷する傾向にあるなど「原典尊重」を逆手に取つた國語破壞が進行してゐる。我々が尊重する古典とは、前代のものでは、假令原本が失はれてゐても、寫本を先人が校勘して定本としたもの、或いは近代の作品に於ても、印刷時のゲラ刷校正を經たもの、即ち文化的に處理、傳承せられて來たものでなければならない。
以上述べて來た戰術轉換の具體化に當つては、正字・正かな運動を言語文化の傳承運動と捉へ、博く全國民の理解と協力を求める爲の活動として、子供への古典讀み聞かせ支援、明治大正文學の正字・正かな再版の促進、高校での國語の歴史を概説する副讀本の制作などが考へられる。
一方このやうな戰術の轉換には一見「理論的脆弱さ」を孕んでゐるかに見える。「現代仮名遣い」批判に走らないのは、歴史的假名遣の内包する矛楯を覆ひ隱してゐるのではないか、或いは寫本の校訂に歴史的假名遣を無條件適用すると意味を誤解する恐れがあるなどの批判が目に浮ぶ。我々はこれらの批判に對して謙虚に反省しつゝも、なほ歴史的假名遣を主張する所以は、それが文化として成立し、傳承發展して來たものへの愛に外ならない。そしてそれは、恰も親や國に對すると同じく、選擇不能の對象への愛であり、當に「大慈大悲」の「かなしみ」を意味してゐる。
本稿は平成二十四年四月十九日、西東京市柳澤公民館に於ける非營利活動法人東京雜學大學に於て行つた講演内容を基に、加除したものである。
市 川 浩
昭和六年生れ
平成五年 有限會社申申閣設立。
正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。
國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。
これまでの私の主張(ホームページ掲載分)日附降順
―正字・正かな運動實踐のためにー(一)
「國語國字」第百九十三號(平成二十二年四月一日)
論語臆解 「國語國字」第百九十三號(平成二十二年四月一日)
上代特殊假名遣臆見
―日本語變換ソフトからの管見―「國語國字」平成十九年二月二十三日(第百八十七號)に掲載
正字・正かなの印刷環境 ――「東京グラフィックス」平成十八年十二月號(Vol.45 No.561)に掲載
教育再生への視點
――「當用漢字」、「現代かなづかい」告示六十年に思ふ――
桶谷秀昭著「日本人の遺訓」を讀みて(文語の苑「侃侃院」)
「契冲」正字・正かな發信のために−「國語國字」第百八十五號(平成十七年十一月十一日)
忘れられる歴史的假名遣
「假名遣腕試し」に思ふ−「國語國字」第百八十四號(平成十七年十月十日)
「契冲」の獨白――字音假名遣を考へる――(「月曜評論」平成十六年四月號掲載)
パソコン歴史的假名遣で甦れ!言靈 (『致知』平成十六年三月號(通卷三四四號))
文語の苑掲載文二篇
昭和の最高傑作 愛國百人一首飜刻 たまのまひゞき
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