(架空)山田正紀選集 第6巻

魔空の迷宮



序文

 前巻から1年も中断することになり、しかも当初予定していた作品から急遽差し替えという事態となってしまったのは、選者として遺憾の極みである。この場を借りて、お詫びを申し上げたい。

 さて、本書『魔空の迷宮』である。山田正紀の作品、特に長編の中では珍しく、オカルト的な題材がそのまま扱われており、ジャンルとしてはホラーに分類すべきかと思われる。本選集第3巻『ジュークボックス』の解説でもすでに述べたように、山田正紀の本来の資質は幻想小説に近いところにあると考えられるので、この種の作品がもう少し多くてもよさそうなのだが、実際には前述のように意外に少ない。その意味でも、ともすれば埋もれがちな作品である本書を取り上げるのは、十分に意義のあることだろう。

 もっとも、本書はいわゆるホラー的な恐怖をストレートに追究した作品というわけではない。また、エロティックな味付けがされてはいるものの、そこに重点が置かれているわけでもない。何というか、全体的にややつかみどころがないようにも感じられてしまう作品であり、そのあたりが本書の評価を何とも難しいものにしている一つの要因なのかもしれない。

 しかしながら、あくまでも“山田正紀の作品”という観点から見れば、本書は決して見逃せない作はずである。なぜならば、女性を描くのが苦手と評されることが多い山田正紀が、それにどのように対処してきたかということを理解する上で、非常に重要な作品ではないかと思われるのだ。解説では、そのあたりを検討していきたいと思う。



作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『魔空の迷宮』

解説
―― 山田正紀と女性 ――

 山田正紀はしばしば、女性を描くのが苦手だと評される。例えば、“女が書けない”SF作家Yの悲しみに端を発するドタバタ劇を描いた短編「暗い大陸」(『物体X』収録)の冒頭には、次のような一節がある。


 昭和五六年、新井素子さんが「Yさんの書く女性にはリアリティがないと思います」といった。胸にズキンときた。それよりさかのぼる四年まえ、河野典生さんが「きみには女は書けないな」といった。このときも胸にズキンときた。

 作中では、これをネタにして、開き直った自虐芸を繰り広げているところが山田正紀らしいといえばらしいのだが、それでもこの一節だけ抜き出してみると、直接的であるだけに何とも痛切なものが感じられる。

 しかしながら、“リアリティがない”とは、具体的にどのようなところを指すのだろうか。自分が男性であるせいか、筆者にはそのあたり今ひとつピンとこないところがあったのだが、幸いにも、山田正紀作品をお読みになった女性である八尾の猫さん(「FAIRY TALE」)にお尋ねする機会を得ることができ、「山田正紀一人のみの欠点ではない」という前提付きで次のような返答をいただいた。


(前略)
 なんというか、普通の女がいないんです。ほどほどに優しく、ほどほどに汚い、という「ごく普通の女性」が。
(中略)
 たぶんに、一人称であろうがなかろうが、山田正紀の描く女性はほとんどが個性が乏しいです。
 SFを読んでも、ミステリーを読んでも、時代小説を読んでも、ヒロインの役割を果たす女性が皆同じに見える、ないしはある種のパターンにはまって見えます。
(後略)
以上、ご本人の許可を得て掲載

 このような指摘を受けて、改めてよく考えてみると、確かに思い当たるところがないでもないのだが……。

 個性の乏しいヒロインの典型的な例として、筆者の頭に浮かぶのは、サスペンス『赤い矢の女』の主人公・本間美代子である。彼女は、恋人の失踪をきっかけに事件に巻き込まれていくのだが、最後までほとんど周囲の状況に翻弄され続けるだけである。つまり、物語において“事件に巻き込まれたヒロイン”という役割を型どおりに果たしているにすぎず、あまりにもステレオタイプといわざるを得ない。程度こそ違うが、『謀殺の弾丸特急』の晶子などにも多分に似たようなところが感じられるし、殺人事件に関わりながらもひたすら傍観者の立場に徹している『金魚の眼が光る』の矢代夕子も、これに含めてもいいのかもしれない。また、主人公クラス以外の女性についても、おそらく多くの例が見られるのではないか。
(注:山田正紀の膨大な著作に登場する女性すべてをチェックする余裕はさすがにないので、ご容赦されたい。)

 だが、山田正紀の作品の中には、このようなタイプとはやや毛色の違った女主人公が登場するものもある。例えば、初期のSF『デッド・エンド』や、ユニークなハードボイルドSF(?)の『電脳少女』、華道の世界に材を取った本格ミステリ『花面祭』、連作長編本格ミステリ『女囮捜査官』、あるいは異色のスプラッタ・ホラー『ナース』、さらには放浪の美少女を探偵役とした『阿弥陀』『仮面』『風水火那子の冒険』などが挙げられるだろう。これらの女性たちは、どのように描かれているのだろうか。

 『デッド・エンド』の主人公・ルーは、異星種族の研究に情熱を注ぐ民俗学者であるが、実は物語に重要な影響を及ぼしているのは、彼女の“母性”である。ここでは詳しくは触れないが、ルーは“母親”として物語に関わっているということになる。また、『電脳少女』において孤独な戦いを繰り広げる主人公・ユイは、“強いヒロイン”、つまり“ヒーロー”像を女性に投影したものととらえることができるかもしれない。しかしながら、その行動が“女性アイドル”としての心理に端を発しているという点は、見逃すべきではないだろう。つまり、彼女は“特殊な状況に追い込まれた女性アイドル”としての役割を担っていると考えていいのではないだろうか。同様に、『女囮捜査官』(特に序盤)の主人公である北見志穂は“虐げられた被害者としての女性”(これについては後述する)の代表であり、『ナース』の中心となる看護婦たちは“天使としての女性”を象徴しているといえるだろう。

 さらに、『花面祭』の主役である4人の女性たちは、微妙に形が違ってこそいるものの、いずれも“美の追求者”としての側面がクローズアップされていく。また、『阿弥陀』・『仮面』・『風水火那子の冒険』で主役をつとめる風水火那子に至っては、意識的に個性を殺し、“推理機械”としての役割に徹している(ように描かれている)節がある。
(注:これについてはまた別の事情もあると考えられるのだが、それはいずれ別の機会に述べることにしたい。)

 こうしてみると、前述の“事件に巻き込まれたヒロイン”も含めて、山田正紀作品に登場する女性たちについては、それぞれの個性よりも、作中で与えられた役割――“仮面{ペルソナ}”といってもいいだろう――の方が強調されている、といえるのではないだろうか。

 と、ここまで書いてみて、登場人物の個性と物語における役割とはどの程度まで切り離して考えられるのか、あるいはそもそも“個性”とは何なのか、という疑問がわいてきて収拾がつかなくなってしまったので、この項はここまでにとどめておく。

***

 ところで、女性を主役としていながら、前項であえて触れなかった作品が一つある。それは、異色のサスペンス『美しい蠍たち』だが、実はこの作品は、主役はおろか登場人物すべてが女性であるという実験的な作品となっているのだ。その意図は定かではないが、女性ばかりを登場させて男性を排することにより、女性たちの個性を少しでも際立たせようという狙いがあったのかもしれない。そうだとすれば、それはある程度成功しているといってもいいだろう。しかし、それがあくまでも“ある程度”にとどまるのは、この作品の女性たちがある統一されたコンセプトに支配されているからである。それは、作中に登場する「女はみんな蠍だ」という言葉に象徴される女性観なのだ。

 この「女はみんな蠍だ」という言葉は、明らかに男性から見た女性を表すものであり、女子高生を“獣”と形容した「獣の群れ」(『京都蜂供養』収録)と並んで、女性不信の表れかとも思える物騒な表現ではあるが、その本質は後の幻想ミステリ『妖鳥』の“女は天使なのか、それとも悪魔なのか?”という問い(これは偉大なる先達である山田風太郎にならったものだろうか)と同根であるだろう。この問いに対して、女性は天使でも悪魔でもなく人間である、と断じるのは、いささか安直にすぎるといわざるを得ない。これは、山田正紀にとって女性が理解し得ない存在である、という告白だと考えるべきではないだろうか。

 このような女性観がよりはっきりと、しかも(おそらく)最初に表れた作品が、本書『魔空の迷宮』である。

 本書は、ややエロティックな味つけをした、呪術的なホラー風の物語という体裁を取ってはいるが、いわゆるホラー的な恐怖はさほど感じられない。にもかかわらず、ある意味で、より正確にいえばある種の読者にとって、非常に怖い作品であることは間違いないだろう。

(以下、本書『魔空の迷宮』などの内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字

 本書で描かれているのは、容赦なく男性を切り捨てて、自分たちで世界を支配しようとする女性の姿であり、またそれについていくことができない、悲哀に満ちた男性の姿である。女性たちの行動は男性社会に対する復讐に他ならないのだが、それは同時に、男性に対する決別宣言ともとれる。つまり、その根底にあるのは深い断絶なのだ。

 本書を読んだSFファンの中には、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの某作品(『愛はさだめ、さだめは死』収録の「男たちの知らない女」)を連想した方も多いのではないだろうか。発表当時、大きな衝撃をもって受け止められたとされるこの作品は、男性と女性の間に横たわる深い溝の存在を見事に浮き上がらせている。テーマの共通性からみて、山田正紀が本書の執筆に当たってこのティプトリー作品を意識した可能性は高いのではないかと考えられる。

 なぜならば、山田正紀自身が、“女が書けない”ということを強く意識させられてきた作家だからである。そしてそれは技術的な問題ではなく、山田正紀にとって女性が理解し得ない、不可解な存在であるところに起因しているとみるべきだろう。無論、ティプトリーは山田正紀とは違って異性を描くことが苦手だと評されていたわけではなく、それどころか実際には女性であったにもかかわらず、それが明かされる以前には“女性であるはずがない”と評されるほど、“男性的”な作品を書く作家だと認識されていたのだが、それでもなお、二人の作家の異性に対する心情には共通する部分があったのではないだろうか。
(注:もっとも、ティプトリーのこの作品においては、性別にかかわらず自分以外の他者を理解することの困難性が描かれている、とも読めるのだが。)

 そして、この作品を書いたティプトリー自身が、男性の筆名を持ちながらも実際には女性であった(ティプトリーのこの作品が訳出された時点では、すでに明らかにされていたと思われる)ことも、見逃すべきではないかもしれない。つまり、異性を異質な存在として描いたこの作品が、女性の側から発表されたことで、山田正紀は“これを書いてもいいのだ”と開き直ることができたとも考えられるのだ。

 実際に山田正紀が意識したのかどうかは定かではないが、いずれにしても、本書を山田正紀版「男たちの知らない女」ととらえることは十分に可能だろう。それほどにテーマが共通している反面、どちらも同じく男性の視点から描かれた物語でありながら、かなり印象が異なっている。

 ティプトリー作品の場合には、登場人物たちはたまたま行動を共にすることになった、いわば行きずりの関係にすぎず、その関係性の希薄さゆえに、視点人物である男性の語り口は非常に淡々としたものになっている。あるいはそれは、作者であるティプトリーがニュートラルな立場に立っていることの表れともいえるだろう。そして、登場人物の女性は物語の結末において男性社会から逃亡し、語り手の男性はその行動を突き放した視線で眺めている。つまり、最終的にはどちらも相手を異質な存在と認識しているのだ。

 これに対して本書では、主要登場人物である男女の関係は決して希薄ではなく、それゆえに、男女間の意識のずれが一層強調されたものになっている。男性を異質な存在と認識した女性に対して、男性の意識は旧態依然のままである。あるいは、相手の変身にどこかで気づきながらも、以前の関係にすがろうとしているともいえる。そして、男性の桎梏から解放された女性は華麗な飛躍を遂げ、それについていけない男性はみじめな末路を迎えることになる。そして山田正紀は、あくまでも切り捨てられる男性の悲哀を描くことに重点を置いているように見受けられる。

 自身が抑圧された女性の立場にあったティプトリーにとっては、逆転よりも逃亡の方がより現実的な解決であったのかもしれない。そしてまた、女性でありながら男性風の筆名で作品を発表したという複雑な事情により、ニュートラルな立場から淡々と描くことを選んだ、とも考えられるだろう。一方、本質的にはロマンチストである山田正紀が、このような結末――支配関係の逆転――というのも、十分に納得できるところである(しかも、そこには山田正紀が好んで扱う“裏切り”が盛り込まれているのだ)。このような、両作家のアプローチの違いは、非常に興味深いところである。

(ここまで)

***

 本選集の第1巻『最後の敵』の解説にも記した通り、二項対立の構図を好んで作品に導入する山田正紀であるが、本書以降、男女の対立を描いた作品がほとんど見当たらないのは、やはり山田正紀自身、本書でそれを書き尽くしたという感があるからだろうか。やや近い例として思い浮かぶのは、『愛しても、獣』や『女囮捜査官』くらいである。

 『愛しても、獣』では冒頭、ある猟奇的な犯罪をきっかけに、男たちの中に住む“獣”を、ひいてはその“獣”を住まわせていることに無自覚な男たちを、女たちが弾劾していくという構図が描き出されている。だが、この対立はあとを引きはするものの、物語の中心は内部の“獣”の存在を自覚させられた男たちの哀しみへと移っていく。対立ではなく内省の物語である、というべきだろうか。

 また、“生まれながらの被害者”北見志穂を抑圧された女性の代表者として登場させた『女囮捜査官』にしても、巻が進むにつれて様相が変わっていく。典型的な男社会として描かれる警察機構の中に放り込まれた北見志穂は、やがて同僚の男性の中に理解者/協力者を得ると同時に、自らも周囲からの抑圧に抗するだけの(精神的な)力を身に着けていく。そして物語のテーマは最終的に、抑圧者に対する被抑圧者の反逆という、男女の枠を越えて一般化されたところに落ち着いている。
(注:余談だが、この構図はさらに抽象化された形で『ミステリ・オペラ』に登場している。)

 その一方で、『美しい蠍たち』や『花面祭』、『ナース』などのように、複数の女性たちを主役とした作品が書かれているのも本書以降のことである。そう考えてみると、本書が山田正紀にとって一つの転換点となったと考えるのも、あながち間違いではないのかもしれない。

 それにしても、女性を描くのが苦手と評されていながら、(膨大な著作の中に占める割合は低いとはいえ)意外に多くの作品で、しかもある程度コンスタントに女性を主役として登場させている山田正紀は、やはり間違いなく只者ではないだろう。


2004.02.15 SAKATAM

 最後になってしまったが、本稿を書くにあたってご協力をいただいた八尾の猫さんには、あらためて、心より感謝の言葉を申し上げたい。


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