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登録有形文化財 「宮村住宅」
明治末から大正初期にかけて数年がかりで建てられました。
戦中、戦後と変動の激しい時代を経て、今もおだやかな佇まいと
して生きています。
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宮村住宅と宮村眞鶴(まつる)宮村家は菊池村、加茂川村、清泉村、砦村の水田を広く保有していた地主で、この住宅を建てた祖父・眞鶴は惣三郎の次男として明治5年に生まれました。学者を志し、五高に進んだものの、病気のため途中で断念し、長男・達と共に土地を守ることになりました。
地主として生きることは不本意だった祖父も、明治37年、祖母・八代(上益城郡白旗村横山家の長女)を迎え大正初め、新宅(現、宮村住宅)wo
構え分家しました。
子供は七人、娘ばかりでした。進歩的な考えの眞鶴と八代は娘たちにも高等教育を受けさせ、賢い女性になるようにと育てました。眞鶴は娘達の婿には独り立ちした男性でなければ、ということにとこだわり、きちんと職業を持った男性を選び嫁がせました。
そして、六番目の道(母)は為男(父)を婿養子として迎えました。が、眞鶴の喜びは束の間、医者だった為男は娘ひとり(私、玲子)を残し、昭和20年の終戦間際に戦死しました。
その後、農地改革、殆どの土地を手放さなければなりませんでした。
眞鶴にとって、為男の戦死は予想外でしたが、急とは言え、農地制度に関しては、半ば想定していたことでもあったようです。
晩年の眞鶴は、すべて娘、道に任せ、庭いじりや釣りを楽しむ日常でした。
昭和30年代に眞鶴、八代は相次いでなくなりました。
昭和44年、玲子は重範(婿養子として)と結婚、佐世保へ、道も隈府へ移り家を空けることになりました。
30年以上経た平成12年、この家は「宮村ホール」へと姿を変えました。
住宅の特長
三間続きの和室 水目桜の框
阿蘇五岳を彫った欄間(楠)
メモ帳
* 材料に大変こだわり材木は自前の山から曳いたもの。
* 完成を急ぐことなく、じっくりと材木の乾燥による変化を確かめながら 天候や季節なども考えて取り組んだ。
* 阿蘇五岳の欄間は眞鶴の注文で、棟梁の作品。
* 本宅(長男・達)の完成が、新宅(次男・眞鶴)より遅れたため数年 間は旧住宅と新宅を行き来していた。
* 合理的な考えの眞鶴は、落ち葉が詰まらないように、屋根は寄棟に。
* 自然のままを好み、庭は雑木林と芝生にして楽しんだ。
「宮村ホール」へ
私たちは現役時代を佐世保で過ごしていたため、30年あまり家を空けていました。
定年を前にUターンすることになり、昔の面影を残しながらも、暮らしやすく時代に合うように、土間はレンガ敷き、白壁はクリーム色に手直ししました。古民家という建物が昔の家屋というだけでなく、人が集うことで古さと新しさの風が行き交う活きた家にしたい・・という想いから、「観る・聴く・集う」の場、「宮村ホール」をオープンしました。
これからも形をかえながら進化していく「宮村ホール」でありたいと思っています。
(2013.7 宮村玲子 記)
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