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一言で説明すると…フランスは敗戦が続きます。議会は「祖国は危機にある」宣言を出しました。ロベスピエールの活躍により国民は愛国心に燃え、革命は次の重大な局面に向かっていきます。 |
フランス軍はオーストリア軍を発見しただけで退却しました。当時のフランス軍はほぼ半数の将校が亡命しており、不在でしたから指揮系統がめちゃくちゃでした。
残って指揮にあたった将校達も貴族で、革命のために本気で戦う気などありませんでした。むしろ、国王の側に立って、敗戦による革命の転覆を狙っていたのです。
また、マリー・アントワネットは敵側に作戦図を渡していましたから、作戦は筒抜けです。勝てるはずがありません。
敗戦続きのため、主戦論者のジロンド派に対する不信感も生じてきました。
この戦争のできない軍の状況でひとつ特筆すべき点があります。欠けていた将校のポストに実力のある者をどんどん抜擢していったのです。また、年金や勲章も身分の別なく功労のあった者に与えられ、兵士の給料も増額しました。
これにより、将校と兵士との間に信頼が回復され、規律と軍人精神も復活しました。軍は段段再建されていきました。
また、ナポレオン・ボナパルトの異常なスピード昇進がなされたのも、このような背景があったからです。
5月27日「拒否僧侶追放」の法案が信心深い国王の拒否権で採決されませんでした。内務大臣ロランは国王を非難し、王位を奪取することをほのめかしました。
6月8日 二万人の義勇兵募集の法案も拒否権にあいました。
6月13日 ジロンド派の宣戦布告内閣は戦争の責任を取らされ、また、国王の不況を買って罷免になり、フイヤン派がまた政権を握りました。
このように再三にわたり議会が国王の拒否権にあい、権威を無視されていることにパリ市民は反発しました。
6月20日
国王に反省を求めようとして、テュイルリー宮殿に向かいました。国王が暴徒から自由の帽子(赤のふちなし帽)を受け取り愛嬌をふりまいたりして、一応何事もなくこの事件は終わりました。
7月11日、議会は
「多くの軍隊がわが国の国境に向かっている。自由を恐れる全ての者が、フランスの憲法に反対して武器を取っている。諸君、祖国は危機にある」
という非常事態宣言をしました。
その前日(7月10日)、この宣言を阻止できなかったフイヤン内閣は辞職しました。
ジロンド派は、政権が目の前に来たのを見て、密かに国王と連絡を取り始め、今度は共和主義を攻撃し、王の権利剥奪に反対しました。(「おいおい」と言いたくなるような日和見です。)
その頃、バスチーユ陥落3周年和記念する「連盟祭」に参加するため、各地から連盟兵が集まってきました。
7月30日にはマルセイユの連盟兵が到着しました。彼らはルージェ・ド・リールの作った「いざ、祖国の子よる光栄の日は来た」という出だしで始まる「ラ・マルセイエーズ」を高々に歌いました。後のフランス国歌です。
ロベスピエールの活躍が再開しました。彼は祖国の危機宣言に燃え立っている連盟兵に呼びかけました。
「病気の根源までさかのぼろう。……我々の病気の主な原因は行政権と立法権にある」
つまり、こうです。
「プロシア・オーストリア両国はフランスの内省に干渉しない。しかし、王室にたとえわずかでも危害が与えられたら、パリを完全に破壊し、見せしめとなるような復讐を行う」
これを受け取ったフランス国民は怒りました。タイミングは最悪でした。威圧するどころか、火に油とガソリンを注ぐようなものだったのです。
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