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5.王制転覆
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- 5.王制転覆
- 立法議会… 1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
- 国外の脅威と戦争…ビルニッツ宣言や亡命貴族などの脅威から、フランスは戦争へと巻き込まれていきます。その中でただひとり、ロペスピエールだけが反戦を唱えますが、聞き入られません。
- 祖国の危機…フランスは敗戦が続きます。議会は「祖国は危機にある」宣言を出しました。ロベスピエールの活躍により国民は愛国心に燃え、革命は次の重大な局面に向かっていきます。
- 8月10日の革命…今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。
- 9月虐殺…外敵や反革命派に対する恐怖から、民衆はパリの監獄を襲い、反革命派の疑いのある囚人を虐殺します。そして、その興奮の中、フランスはヨーロッパ随一の軍隊プロシア軍をヴァルミーで破ります。
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ii.国外の脅威と戦争
一言で説明すると…1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
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拒否権発動
立憲議会は、亡命貴族と拒否僧侶対策にまず重点を置きました。そして、
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王弟プロヴァンス伯への帰国命令:
亡命貴族のリーダーであるプロヴァンス伯が二ヶ月以内に帰国しない場合は、摂政の資格を取上げる。
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亡命貴族の財産没収:
翌1792年1月1日までに帰国しなければ、財産を国民のものにする。
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ドイツ諸侯への抗議:
亡命貴族に援助を与えているドイツ諸侯に対し、援助をやめさせるようルイ16世に勧告する。
- 拒否僧侶の追放:
拒否僧侶が宣誓しない場合は年金を取り上げ、また騒動などを起こすことがあれば追放する。
以上4つの法令を可決しましたが、国王は全ての法案に拒否権を発動しました。議会は騒然としました。
また、この年の8月25日に出されたピルニッツ宣言や、亡命貴族の策動によって、戦争は避けられない、という世論が作られていきました。
主戦派と反戦派
主戦派
ジロンド派:国王が裏で糸を引いているのを知っていたので、戦争が始まれば国王の反革命の姿があらわになり、反革命とつながる外国勢力にも打撃を与えることができ、主戦論のジロンド派が政治的に優位に立つことを予想していました。彼らはもちろん、戦争に負けることなど考えてもみませんでした。
フイヤン派:戦争については消極的であり慎重でした。しかし、内外の状況から判断して、戦争が立憲王制の回復に必要であると考えるようになりました。
国王:オーストリア、プロシア連合軍が勝利し、それにより王制が復活することを熱烈に願っていました。
反戦派
ロベスピエール:議会も世論も圧倒的に戦争に賛成していましたが、ただひとりロベスピエール
だけは反対しました。彼の冷静で状況を正確に見極めた理論はこうです。
@戦争は亡命貴族や宮廷を喜ばせるだけである。
A国外の敵を叩く前に国内の敵を叩くべきである。
B革命を他国に広める前に、フランス国内で革命を固める必要がある。
C軍隊は今、戦争に耐えられる状況にない。勝つことはできないだろう。
D仮に勝っても、野心家の将軍によって自由が破壊されたら何にもならない。
ジャコバン・クラブでは拍手喝さいを得ましたが、時代の流れには勝つことができませんでした。
戦争突入
1792年1月25日
- 議会はルイ16世に対して、レオポルト二世にビルニッツ宣言を正式に取り消すことを要求する決議を成立させました。
3月1日
戦争を避けようとしていたレオポルト二世が急死して主戦論者フランツ二世が即位しました。
3月23日
ルイ16世により、フイヤン派の代わりにジロンド派内閣が指名されました。戦争は避けられません。
3月27日
- 新外務大臣デュムーリエ(彼にも注目!!とんでもないことをしでかします)が、オーストリア・プリシア同盟の解消を求めるよう要求しました。フランツ二世は拒否します。戦争は決定的になりました。
4月20日
- ルイ16世は、議会の賛同の基にオーストリア皇帝に宣戦布告しました。
この戦争は、絶対王制が倒れたフランスと旧制度を維持している近隣諸国の戦いでした。つまり、新しい秩序と古い秩序の戦いということもできます。
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