このページの背景画像は「Sweet Home Page」さんからお借りしました。

 議会と王  

順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
お好きなところからどうぞ。下線の部分をクリックすると飛びます。

4.議会と王
  1. 政治クラブこの頃、いくつかの政治クラブのようなものができました。流動的で複雑ですが、少し整理してみましょう。
  2. アッシニアと教会財政危機を乗り越えるために教会財産を没収し、その対策として後々までフランスを苦しめるアッシニアを発行します。また「僧侶基本法」を制定して僧侶を二つに分けてしまいました。
  3. 1791年の憲法待望の憲法が可決されました。旧制度を破壊した国民議会は、人権宣言の理想にのっとった新制体(立憲君主政体)を作り出すために活動しました。
  4. 国王の逃亡1791年6月、思いもかけない事件が起きました。国王が逃亡したのです。フランス国民を見捨てようとした国王の逃亡は、革命に大きな展開をもたらしました。国王がいなくても太陽が昇ることを知った国民から、「国王不要論」が出てきました。

iv. 国王の逃亡

一言で説明すると…1791年6月、思いもかけない事件が起きました。国王が逃亡したのです。フランス国民を見捨てようとした国王の逃亡は、革命に大きな展開をもたらしました。国王がいなくても太陽が昇ることを知った国民から、「国王不要論」が出てきました。
外国の情勢

フランス王室と最も関係の深かったのは、オーストリア王室です。マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世が皇帝でした。しかし、ヨーゼフ二世は妹を心配しながらも積極的な行動を取りませんでした。なぜなら、フランスの混乱は、オーストリアの西方国境の安全を保障するので、むしろ歓迎すべきものでした。

ヨーゼフ二世は1790年2月に亡くなり、弟のレオポルト二世が跡を継ぎました。しかし、レオポルト二世もまた妹夫婦を援助しようとはしませんでした。

逃亡の噂

国王逃亡の噂はありました。レオポルト二世が動いてくれない以上、ルイ16世が動かなくてはなりません。1791年4月18日、国王はサン・クルーの離宮に趣き、復活祭に列席することを口実にパリを離れようとしましたが、パリ市民に阻止されました。その時も、国王のバリ脱出の噂があり、市民が警戒していたのです。

1791年6月20日 夜 Evenement de Varennes

マリー・アントワネットの愛人フェルセンを中心に綿密な計画が立てられました。国王一家は変装してテュイルリー宮殿を抜け出し、今度こそパリ脱出に成功しました。しかし、これは取り返しのつかない、死を招く成功だったのです。

夜8時15分頃、速度の遅い大型四輪馬車がテュイルリー宮殿を出しました。馬車には、召使に変装した国王、養育係に返送した王妃、乳母に変装した王妹、少女に変装した皇太子、その母親に変装した養育係の女性、それと王女が乗っていました。フェルセンも御者に変装して途中まで同行しました。

1791年6月21日

計画では、国境近くのモントメディまで行き、そこでルイ16世は革命への反対と権力を奪回したことを宣言するはずでした。

しかし、馬車が大きいため思っていたよりも速度がのろい、車輪の破損などさまざま小さなことが重なって、予定時刻に予定の場所に着くことができませんでした。

国王一家を乗せた馬車は、パリ東方200キロ、オーストリア国境まであと50キロというヴァレンヌの町で、警戒態勢を取っていた国民衛兵と農民によって捕らえられました。

1791年6月22日

議会から派遣されたバルナーヴ他2名の代表と共に国王一家はパリに向きを変えました。ある貴族が挨拶のために馬車に近づくと、農民はたちまちその貴族を血祭にあげました。

恐ろしい沈黙の中の帰還

1791年6月25日

死んだような沈黙の中、三日半かかって馬車はパリに着きました。

パリの民衆は、王の逃亡を初めて聞かされたとき、王がいなくても朝の太陽が昇ったといって驚いたくらい素朴でした。しかし、この素朴な信頼はすぐに激しい怒りに変わっていったのです。

この一連の逃亡を「ヴァレンヌの逃亡」と言います。

議会の反応

ロベスピエールなどの少数派は王の責任を追及しましたが、パルナーヴを中心にした多数派(ブルジョワ)は、王を議会側に付かせ、議会と王権を妥協させて革命を終わらせようとしました。

彼らはこれ以上の革命を望んでいる民衆の勢いを恐れ、国王は逃亡したのではなく、誘拐されたのだと苦しい作り話まででっちあげました。


フイヤン・クラブ  Club des Feuillants
ラファイエット
ラファイエット

また、バルナーヴを中心にした右派の人々は、革命を終わらせるためにジャコバン・クラブを脱退し、ラファイエット一派と共にフイヤン派 Feuillantsを結成し、そこを足がかりに立憲王制を打ちたてようとしました。
フイヤン派が抜けた後、ジャコバン派は共和主義者の集まりになりました。


ピルニッツ宣言 Declaration de Pillnitz

ヴァレンヌ逃亡の顛末はヨーロッパ諸国の君主に驚愕を与えました。

特にマリー・アントワネットの兄レオポルト二世は、ルイ16世の弟アルトワ伯に懇願されて、プロシア国王とピルニッツで会見しました。

二人の君主は、「必要があれば他の国々と共に武力を使う用意がある」というピルニッツ宣言を発し、フランス国民を威嚇しました。

これは威嚇することが目的で、実際に武力を使うことなど考えていませんでしたが、フランス国民は、この宣言を聞いて、国王一家の後ろに武力を持った諸国が控えているのだということを改めて認識しました。これは脅威でした。


民衆の反応--「シャン・ド・マルスの虐殺」

国王の逃亡と同時に、王制廃止共和制樹立の呼びかけが公然と始まりました。コルドリエ・クラブを中心とするパリの民衆は、シャン・ド・マルス(練兵場)に国民の祭壇を作り、共和制を要求する陳情書を持ちこんで市民の署名を求めました。パリ市長バイイは議会の命令を受けて解散を命じました。しかし、多数の民衆が参加し騒動は大きくなりました。議会はしかたなく国民衛兵司令官ラファイエットに出動を要請しました。

国民衛兵が非武装の民衆に発砲し、約50人の死者が出ました。

これを「シャン・ド・マルスの虐殺」と呼びます。

この結果、民主派の新聞は発行停止になり、コルドリエ・クラブは閉鎖を命じられ、ダントンマラーらは身の安全を図り、パリから脱出しました。

一方、フイヤン派は地盤を固め、ブルジョワ支配の体制を作り上げました。彼らは、前述の1791年の憲法を内外の情勢をうまく利用しながら強引に推進して成立させました。

←←概略の目次へ i.1791年の憲法へ
ii.アッシニアと教会
iii.政治クラブ
iv.国王の逃亡

ひとつ前の「概要」に戻ります ホームに戻ります 次の「概要」に進みます