ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
恐怖政治に熱心だった保安委員。
弁護士、国民公会議員、山岳派。ヴァディエと共に保安委員会の最高権力者。ダントンの逮捕にも積極的に賛成したが、ロベスピエール率いる公安委員会の権限があまりにも増大すると、反ロベスピエールの立場を明確にし「最高存在の祭典」や商業の自由等には反対し、ひたすら恐怖政治の強化を望んだ。
アルトワ伯爵 1757-1836 (H12.12.26.UP)ルイ16世の弟。後のシャルル10世
ルイ15世の息子、王太子の五男。軽薄で享楽的な彼はマリー・アントワネットの悪しき遊び相手としても有名で、民衆にひどく憎まれていた。名士会のメンバーでもあり、兄プロヴァンス公やオルレアン公等の王族や貴族がカロンヌのやり方に反抗する中、一人だけ政府の政策を全面的に支したが、公の場で発言するのが苦手なのであまり国王の役には立たなかった。
革命が勃発するとすぐ、王妃と共に兄ルイ16世の亡命を勧めたものの、護衛の面などを考えて断念。逆に兄に勧められて7月16日の夜、亡命。亡命してからも、軍隊を率いるなど反革命の最先端で活動した。
1791年8月には、神聖ローマ皇帝レオポルト二世とプロシア国王フリードリヒの会見に、招かれてもいないのに現れ、二人の君主はピルニッツ宣言を発することになった。兄ルイ18世の死後、王位に就き、シャルル10世を名乗る。その政策は、革命が勃発する前、彼と同じくらい国民に憎まれていたポリニャックを大臣に登用するなど、非常に反動的で専横的だった。そのため、七月革命が起こり追放された。
彼の子、アングレーム公はルイ16世とマリー・アントワネットの長女マリー・テレーズと結婚する。
後に国王一家が幽閉されたタンプル塔はアルトワ伯の所有だった。
アンリオ 1761-1794 (H11.5.20.UP)国民衛兵司令官。
セーヌ県ナンテール生まれ。下男や税関書記として貧しい暮らしを送った。革命になって、パリのセクションの指導者としてロベスピエールの配下で活躍。八月十日の革命、九月虐殺には地区の部隊を指揮し、積極的に活動した。宣誓拒否僧侶の処刑にも自ら指揮を取った。
1793年、コミューンによってパリ国民軍の臨時総司令官に任命され、五月三十一日の革命では8万の革命軍を指揮。ジロンド派の追放と山岳派の勝利を導き、「6月2日の勇士」と呼ばれたが、飲酒癖があった。のち、サン・キュロットの地区大隊長、パリ市国民軍の常任指揮官となる。エベール派、ダントン派打倒においても、ロベスピエールに献身的に従った。
テルミドールでロベスピエールらの逮捕の知らせを受け、コミューンを動員して救出しようとしたが、泥酔状態で、彼自身が逮捕され、ロベスピエール派として処刑された。
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アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン伯爵 1772-1794ヴァンデの反乱で総司令官を務めた「大天使」
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1772年、ラ・ロシュジャクラン侯爵の長男として生まれ、伯爵の称号を持つ。柔らかい色の金髪の巻毛、色白の顔は繊細で優しかったと言われている。身長は181センチ。その女性のような美貌から「大天使」と言われた。
アンリは由緒ある帯剣貴族の跡取として軍人の道を選び、1785年、13歳の時、幼年学校を終えると、父親の指揮下にある王立ポーランド騎兵連隊に少尉として配属される。
1791年のヴァレンヌ逃亡の後、父や兄弟は亡命したが、立憲衛兵隊として彼は主君ルイ16世を守る決意を持ってフランスにとどまった。
1793年、「30万人募兵」を契機にヴァンデの反乱が始まる。アンリも参加し、彼の指揮する反乱軍は共和国軍の脅威となった。十月、「カトリック王党軍」総司令官となり、3ヶ月後戦死。享年21才。苦手な動物はリス。
この項はたまさんの「1793」を参考にさせていただきました。
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イスナール (マクシマン・イスナール) 1751-1825国民公会の議長まで務めたジロンド派議員
南仏海岸に住む香料商人。監視委員会の中心メンバーとして、亡命貴族や宣誓拒否僧侶を非難した。立法議会に入りジロンド派の一員として、ブリッソーやヴェルニヨと共に対外戦争の必要性を強調。国民公会議員に選出され、ルイ16世の処刑に賛成。やがて、ジャコバン左派が優勢になると右よりになった。
山岳派、パリのコミューンと対立し、1793年5月、公安委員会がジロンド派中傷の記事を書いたエベールを逮捕した際に、パリ・コミューンのエベール釈放要求に対し、国民公会議長として、
「もし、公会が卑しめられるのなら、パリは廃墟になるだろう」と述べ、この言葉は民衆と公会の反発を買った。まもなく、ジロンド派は指導的立場から追いやられ、ジロンド派追放の5月31日の革命では検挙をかろうじて免れた。
その後、パリに潜伏して、革命裁判所による告発、公権喪失宣告などにもかかわらず、テルミドールまで生き延び、国民公会に復帰した。
のちに五百人会議員。帝政時代にはナポレオンに加担、王制復古期には熱烈な王党派となり、国王処刑賛成者追放令を免れた。
毎年1月21日のルイ16世の命日には、処刑の地コンコルド広場を訪れてその地に接吻したと言う。
ヴァルレ (ジャン・ヴァルレ) 1765-? (H11.3.12.UP)過激派の代表的な一員
良い家庭の生まれだが、早くして父を失い、革命前は郵便局に勤めた。
熱心に革命を支持し、ルイ16世のヴァレンヌ逃亡後の共和政請願のを呼びかけ、議会に提出。立法議会では国王とラファイエットを攻撃した。
8月10日の革命により、選挙人となり、以後急速に極左化し、国民公会と山岳派をも否認した。 街頭演説家として、貧困の絶滅、財産の平等化、買占人の処刑などを要求。するなど、ジャック・ルーとともに「過激派」の一員として戦った。
ジロンド派追放には蜂起委員会のメンバーとして活動。以後、山岳派攻撃と食糧難の打開のために民衆の実力行動の組織に専念。やがて逮捕されるが、釈放。行動を共にしたジャック・ルーが自殺するなどして、過激派の活動は終止符を打った。その後の消息は不明。
ヴェルニョ(ピエール・ヴィクトリアン・ヴェルナール) 1753.5.31.-1793ジロンド派の指導者の一人で雄弁家
ヴェルニョ |
ジロンド県リモージュのブルジョワ出身。テュルゴの援助でパリに遊学。ボルドーで弁護士として名声を得、革命期にはジャコバン・クラブのボルドー支部の書記として活躍。
立法議会の議員となり、ブリッソーと共にジロンド派の雄弁な指導者となる。元来は王政に反対だったが、入閣が目の前に迫ると反王政派の議員を抑えるようになってきた。
1792年8月10日の暴動の際、議長だったヴェルニョは、テュイルリー宮殿から議会の保護を求めてに逃げてきた国王一家を、
「陛下、議会は最も忠実な義務として、あらゆる既存の権威を維持することを考えております。我々全てはそれを果たすために、部署を守って死ぬことを心得ております。」
と言って迎え入れた。しかしながら、議事進行を務めた国王裁判では、死刑に一票を投じた。
1793年になってロベスピエールと激しく論戦し、敗れてからも攻撃を止めなかったため自宅に監禁され、11月に他のジロンド派の仲間たちと一緒に処刑された。
ヴォルテール人間性と理性を掲げた啓蒙思想家
パリの公証人の息子。キリスト教の独断性(「神は全能であり絶対に善である」)と、人間否定論(「人間は神に劣る」)に反対して、キリスト教を仏教やイスラム教と同列の宗教と考え、そのことによって「あるがままの人間」を肯定する人間主義の倫理を導いた。
絶対的な善がないということを、「スパルタでは姦通を許したが、アテネでは姦通したら死刑になった」例で示している。
彼はこのような考え方において、独断と社会的不正に対して70歳を過ぎても戦った。自分の思想を身をもって実践した有言実行の人。