このページの背景画像は 「ステンシル絵本」さんからお借りしました。

 きょうは何の日 8月 

私にとってフランス革命を語る上で、8月は大事な月です。
なぜかと言えば、サン・ジュストが生まれた月だからです。
「恐怖の大天使」と呼ばれた彼は、8月に晩夏に生まれ、7月の盛夏に死んでいきました。

また、革命の原動力となる民衆の行動も7月8月に多いようです。これは夏から秋にかけての端境期と重なります。食糧問題がいかに民衆にとって(全人類にとってですよね)重大であるかが分かります。

最終更新日 平成12年10月1日


8月1日
1793年 度量衡の統一
1798年 ナイルの戦い。ネルソンのイギリス海軍がフランス艦隊をほとんど全滅させる。
1799年 アレキサンドリア市占領。「アブキールの海戦」で敗北。
1799年 出版の自由の宣言を解除。


8月2日
1802年 ナポレオンが終身の第一統領となる。


8月3日
1790年 農民紛争厳罰の法令。
1792年 ペチヨン、パリ四十七区を代表して国王の配意を議会に要求。


8月4日
1789年 封建的特権の廃止。お調子者の自由主義貴族が自分達の諸特権を自主的に廃棄することを議会に発表。それに続き、他の特権階級の者達も賛成した。しかし、その時の熱狂が冷めると、さすがに貴族達はその軽挙を後悔し、結局、廃止される特権はかなり制限されたものとなった。


8月8日
1788年 三部会召集決定、第二回名士会。
1792年 革命委員会の結成。
1793年 ジャック・ルー、銀行家の逮捕を要求。


8月9日
1792年 パリの蜂起コミューンが合法的コミューンにとってかわる。
1793年 公設穀物貯蔵庫設置。

このページのトップに戻る/ きょうは何の日の目次に戻る


8月10日
1792年 王の権利停止。国王一家の住むテュイルリー宮殿で革命軍とスイス人傭兵(国王側)が交戦し、その間国王一家は議会に逃れた。その後、革命軍が勝利を収めると、議会は国王の権利停止を決定し、国王家族をタンプル塔に移した。これは8月10日の革命とも呼ばれ、第二次フランス革命とされている。


8月11日
1790年 十分の一税無償廃止。
1792年 ダントンを法務大臣に加えたジロンド派内閣復活。反革命容疑者に対する最初の措置。


8月13日
1792年 国王一家、タンプル塔に幽閉。

8月14日
1792年 ラ・ファイエット、パリ進軍を企図。

8月15日
1769年 ナポレオン・ボナパルト、コルシカ島で生まれる。
1792年 コミューン代表としてロベスピエールが「8月10日」の人民殺傷に関わった者の迅速な処罰を措置。

8月16日
1788年 ブリエンヌ、国庫の破産を宣告。まもなく辞職。ネッケル再任。
1792年 北部軍の退却、敵軍フランス国内に侵攻。

8月17日
1792年 「8月10日」の「陰謀人」の特別重罪裁判所を設置。連盟兵、国王の廃位を要求。

8月18日
1792年 バルナーヴ、逮捕。

8月19日
1792年 ラ・ファイエット、軍を捨てて亡命。
1796年 スペインと和約。


8月20日
1793年 国民公会、アカデミーを廃止する。

このページのトップに戻る/ きょうは何の日の目次に戻る

8月21日
1792年 ギロチンの使用始まる。


8月22日
1793年 ジャック・ルー、逮捕。
1795年 「共和国三年の憲法」可決。

8月23日
1792年 ロンウイの敗北。
1793年 国民総動員法可決。
1799年 ナポレオンがアレクサンドリアを出港、帰途につく。

8月24日
1792年 シャティヨン・シュル・セーヴルで王党派の蜂起。
1794年 革命政府の改組。十六の委員会など創設。


8月25日
1767年 ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト生まれる。父は最下位の貴族「騎士」の称号を持つ軽騎兵大尉で、母は村の裕福な公証人の娘。このサン・ジュストこそ、生きていればナポレオンの最大のライバルになったと言われる。
1788年 ネッケルが再び財務総監となる。
1792年 ロベスピエール、宮廷とジロンド派を非難。
1793年 マルセイユの反革命軍を鎮圧。


8月26日
1789年 人権宣言。人権宣言とは言いながら、この「人権」には女性や黒人は含まれていない。


8月27日
1791年 プロシア皇帝と神聖ローマ皇帝が反革命のピルニッツ宣言。選挙法改正。

8月28日
1793年 イギリス軍、ツーロン侵攻。
1799年 ナポレオン、エジプトを放棄。

8月30日
1795年 三分の二法令施行。

このページのトップに戻る/ きょうは何の日の目次に戻る

「7月」に戻ります ホームに戻ります 「9月」に進みます