ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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一言で説明すると…革命の最後で決定的なきっかけは貴族の反乱でした。公平な税金を払うのがいやだ、などというつまらないわがままのために、彼らは自分達の存在に一番必要な王政を破壊するきっかけを作ってしまったのです。 |
書斎のカロンヌ |
1783年、ネッケルの後を継いだカロンヌ(画像をクリックするともっと大きな肖像画が見られます)は、ネッケルの政策を3年間継承しましたが、1786年には政府の信用はまるでなくなっていました。財政を根本的に変革させなければ、国家は破産してしまうという状態まで追い詰められ、彼はルイ16世に次のように訴えました。
「建物の崩壊を防ぐには、全体を土台からやり直す必要があります。これ以上課税することはできませんし、いつも借金ばかりしていては危険です。残された唯一の方法は、国家機構の中にある一切の不正なものを改革して、国家全体に活気を与えることです。」
「不正なもの」とは即ち、身分制に基づく不公平な課税制度のことです。もう第三身分からは増税することはできませんでした。カロンヌは次のように計画しました。
これら特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現するためには、高等法院の妨害を防ぐことが必要でした。
カロンヌは、前任者達が貴族に妨害されたことを知っていたので、「名士会」を召集して承認を得ようと思ったのです。上の提案は国王の内々の承諾を得ていましたから、国王が選ぶ名士からなる「名士会」が、国王の意思に反することをするはずがないと、判断したのです。
しかし、「名士会」のメンバーは特権階級の者が主でした。いかにカロンヌが財政危機を訴えても、免税の特権を簡単に放棄するはずはありませんでした。
「名士会」は1787年2月22日に開催され、カロンヌの提案を却下し、カロンヌはたちまち罷免されました。
1787年4月、カロンヌの敵手、「名士会」のリーダーであるブリエンヌが引き継ぎました。ところが、ブリエンヌの打ち出した政策はカロンヌと全く同じでした。破局を免れるためには、特権身分への課税以外方法がなかったのです。
「名士会」は当然、反発します。そして、「名士会」で、ラ・ファイエットが、「公共の税金を決定する権利は、国民の代表にのみ属する」と言い、1614年以来開かれていなかった三部会の召集を要求しました。
ブリエンヌは「名士会」に頼ることを諦め、これを解散しました。「名士会」解散の二ヵ月後の1787年7月16日、パリ高等法院は地税に関する勅令の登記を拒否し、新税制を承認しうる権利を持つ唯一の機関である全国三部会を召集することを要求しました。ラ・ファイエットの言葉が世論となったのです。
もちろん、反動的な(特権身分への課税を拒否する)パリ高等法院が、特権廃止の改革を推進しようとしたのではありません。彼らは、改革を進めようとするブリエンヌ達官僚に抵抗したかっただけなのです。革命につながる三部会の開催を、反動の拠点であるパリ高等法院が促したということはまさに歴史の皮肉でしょう。パリ高等法院は、正反対の要求を持つ民衆の熱い支持を受けました。
国王達は三部会開催の要求を呑むことはできません。ルイ16世は8月6日、パリ高等法院に赴いて親臨法廷を開きました。
この親臨法廷では、ブリエンヌの法案を強制的に登記させましたが、翌日パリ高等法院はその無効を主張し、せっかく王の了承を得たのに、ブリエンヌは苦杯をなめさせられました。宮廷は怒って、高等法院をパリからトロワに追放しました。
すると、世論はパリ高等法院をパリに呼び戻すようにと叫びます。ブリエンヌがまた折れました。パリ高等法院をパリに戻し、税制改革に関する勅令を撤回し、その代わりに二十分の一税の復活を登記させました。しかし、これだけではどうしようもありません。緊急措置として4億2千万リーヴルの公債発行が決定されました。
しかし、公債の発行にも高等法院の承認が必要です。ブリエンヌは公債の期限の切れる1792年までに全国三部会を招集することを条件に認可してもらおうとしましたが、高等法院は三部会が招集されるまでは譲歩しない、といっさいの妥協を退けました。
公債発行の強制登記を命じた1787年11月19日の親臨法廷でオルレアン公(彼はなかなか曲者ですのでご注意を!! 肖像画の顔も悪そうでしょう。)がその登記を不法であると抗弁したため、王は公と二人の議員に領地への追放を命じました。
ブルボン家の分家であるオルレアン公は、第三身分の味方をして人気を集めながら、常に王位を狙っていました。彼は邸宅パレ・ロワイヤルを一般に開放し、そこは進歩主義者の溜まり場になりました。
パリ高等法院はオルレアン公の追放に抗議し、1788年5月、 王政は世襲である、税制の決定権は三部会にある などを強く主張しました。すると、ルイ16世はパリ高等法院に激しい攻撃をかけました。すなわち、ラモワニヨンの立案による司法改革です。高等法院の一番過激な二人の高等法院評定官を逮捕することから始まったこの改革は、高等法院の抵抗を打ち破る目的で行われたました。
1788年5月8日、ルイ16世は国璽尚書ラモワニョンが準備した勅令の登記を強制し、司法官達の抵抗を打ち破って、司法改革を行いました。内容を見てみましょう。
1788年5月10日、グルノーブルの高等法院も国王に反発すると、王はパリ高等法院を閉鎖させ、軍隊を出動させました。
6月8日、市民はこれに反発して城門を閉め、家の屋根から手当たり次第石や瓦を軍隊に投げつけました。この勢いに軍隊は撤去しました。これを「屋根瓦の日」と呼びます。
この「屋根瓦の日」に参加した市民には、後の革命を引っ張っていくムーニエやバルナーヴもいました。彼らはこの日、パリ高等法院、ひいては貴族を支持しました。なぜならば、パリ高等法院は三部会の召集を要求しているからです。とにかく今は三部会を開催することが市民達にとって先決でした。
税金を納めることも、身分的特権を失うことも嫌だった貴族ですが、彼らが国王に反抗したのには、もうひとつの理由があります。
つまり、ルイ14世で最大化した国王の権力の増大は、貴族の弱体化を意味することに他なりません。だから、ここで王権を抑え、自分達が国家の管理者になり、力を増大させようとしたのです。大きな誤算はここにありました。フランスの現状は内輪もめをしているような生半可なものではなかったのです。彼らは民衆が飢饉や戦争で飢えていることなどすっかり忘れてました。
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