ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

人物スケッチ さ行


フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。


<| す|せ|そ>

シエイエス(エマニュエル-ジョゼフ・シエイエス)1748-1836
Emmanuel-Joseph Sieyes  (H11.5.26.UP)

フランス革命を始まらせ、終わらせた男。

プロヴァンス地方の中流家庭に育ち、パリ大学で英・仏哲学と政治制度を学び、のちシャルトルの司教代理となる。18世紀啓蒙思想家の熱烈な読者として政治改革に強い関心を寄せ、1787年にオルレアン県議会議員となり、政治的手腕を認められた。

フランス革命直前に「第三身分とは何か」という有名なパンフレットを書き、大きな反響を引き起こした。(革命を始まらせた。)

1789年には、第三身分の権利を主張しパリの第三身分の代表として三部会に臨み、「テニスコートの誓い」を起草した。また、「機は熟した。錨綱を切れ」の呼びかけで国民議会の成立に大きな役割を果たし、1971年憲法の制定にも寄与するなど、理論的指導者として活躍した。

1792年、国民公会に選出され、立憲王制派としてフイヤン派と結んだが、ルイ16世死刑に賛成した。それ以降は政治の表舞台から身を引き、ロベスピエールからは「革命のもぐら」と呼ばれた。

ある人が、「恐怖政治の間は何をしていたのか」と尋ねたところ、彼はただ一言、「生きていた」と答えた。

テルミドールの反動以後、公安委員として外交問題に携わり、ハーグ平和条約調印に成功。五百人会議議員選出後はプロシア大使として尽力。プレリアルのクーデターの後、総裁政府下で総裁の一人となる。

ついで1799年、ナポレオンブリュメール18日のクーデターにも大きく関与。しかし、彼の準備した憲法草案はナポレオンによって大幅な修正を加えられ、結果的にはナポレオン独裁への道を開くことになった。(革命を終わらせた。)以後は政治から遠ざかり、1803年にはアカデミー・フランセーズ会員、1809年には伯爵に叙任されるが王制復古時には国王処刑者としてオランダに亡命。フランスに再び戻った6年後、パリで死亡。
(このHPでは「シエイエス」で統一していますが、「シーエス」と発音されることも多いようです。)


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シモーヌ・エブラール 1764-1824(H12.11.28.UP)

「人民の友」マラーの献身的な妻であり信頼できる友。

船大工の父を持ち、トゥールニュに生まれ、1776年、22歳の時、パリに出て時計の針を製造する工場で働き始める。 1790年12月、警察に追われるマラーを匿い、愛人になるが、法律上の結びつきなど気にかけず、マラーからの申し出があったにもかかわらず、正式に結婚しなかった

マラーの妹アルベルチーヌによるとシモーヌは、「穴倉から穴倉に逃げまわっているマラーに同情し、ある神のような女性が人民の友を自分の家に引き取り、かくまったのです。彼に財産を捧げ、彼のために安息を犠牲にしたのです。」という女性である。

妹の言う通り、シモーヌは、イギリスから帰国したマラーが再び「人民の友」を発行する時も私財を投じた。また、校正したり、製版したり、発行したり皮膚病で苦しんでいるマラーが少しでも楽に仕事ができるように、献身的に尽くした。

1793年、シャルロット・コルデーに夫が暗殺されてからも、終生夫への愛情を失わず、夫の政治的理念に忠実に生き、妹と共に夫が心血を注いだ新聞「人民の友」の著作集に取り組んだ。(著作集の発行は禁止されたが…)

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シャルロット・コルデー
1768-1793 (H12.11.26.UP)
Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont (マリ・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン)

「人民の友」マラーを殺害した暗殺の天使。

大劇作家コルネイユの血を引く貧しい貴族の娘としてノルマンディに生まれる。13歳の時、母と死別し妹と共にカーン(ノルマンディ半島にある小都市)にある修道院で少女時代を過ごす。修道院で一生を過ごしたいと願っていたような物静かな少女だったらしいが、革命政府によってシャルロットのいた修道院は閉鎖され、叔母の所に身を寄せることになった。

もともと、自分達の階級を脅かすジャコバン派を憎悪していたが、国民公会から追放されてきたジロンド派の議員達が、カーンを巻き返しの拠点としていたこともあり、ジロンド派を支持するようになる。

そこで、マラーをはじめとするジャコバン派の悪口を耳にするに従って、ますます憎悪は深まり、「マラーを殺害しなければ」と思い込む。

単身パリに行き、マラーの家を探し出し、早速「人民の友」に面会を申し込んだが、内縁の妻シモーヌに拒否される。仕方なく「カーンで巧まれている陰謀について耳に入れたい」という手紙を残し、いったんホテルに戻った。ホテルで遺書を書き、夕方再びマラーの家を訪れた。マラーは面会を許可した。シャルロットはマラーの浴槽に近づき、カーンの裏切り者の名前をマラーの耳に入れるためにさらにそばに近づいた。そして、隠していた包丁を取り出し、名前を書こうとしていたマラーの心臓めがけて突き刺した。

マラーは絶命し、シャルロットはその場でとらえられ、革命裁判で処刑の判決を受けた。裁判中にシャルロットの肖像画を描き始めた青年がいた。彼はシャルロットが処刑台に連行される間際に肖像画を完成させた。

その頃のマラーはひどい皮膚病を患っていて余命幾ばくもなく、「生きているマラーにもう用はなかったが、死んでから役に立った」という者までおり、シャルロットの思惑は外れてしまったが、単身でマラーを殺害したことは民衆を驚かせた。また、その美しさから後世の詩人がシャルロットを「暗殺の天使」と呼んだ。

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ジャンボン=サン=タンドレ
1749.2.25-1813
Jeanbon Saint-Andre (H13.2.17.UP)

公安委員会で海軍を担当する。

革命前は商船の船長、プロテスタントの牧師。1792年、国民公会の議員に選ばれ、公安委員会のメンバーとなり海軍を担当。超人的努力で共和国海軍を急造し、力を付ける。

1793年、マラーが暗殺されたとき、国民公会の議長を勤めていた彼は、マラーの死を正式に発表した。

テルミドールの反動後、追及されたものの、恩赦を受ける。執政政府、ナポレオンの支配の元でも公職にあった。チフス防疫に献身し、感染して死亡。


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ジョゼフィーヌ・ボナパルト1763-1814
Josephinne Bonapart (H11.4.30.UP)
「ジョゼフィーヌ」
「ジョゼフィーヌ」

ナポレオンを骨抜きにした退廃的な美女。皇后。

軍人の娘として西インド諸島のマルチニック島に生まれた。1779年に同郷のアレクサンドル・ド・ボーアルネ子爵と結婚し、フランスに渡り宮廷に迎えられた。

アメリカ独立戦争に参加した夫は、革命勃発後ブロワの貴族代表で三部会に選ばれ、立憲議会でも自由主義貴族の一人として活躍した。1791年にはライン軍の参謀長、1793年にはライン軍司令官となったが、反革命容疑者として罷免され、1794年、処刑された。

二児をかかえた未亡人として革命期を生き抜くのに、ジョゼフィーヌは自らの美貌しか頼るものがなかった。33歳とはとても見えない彼女は総裁バラスの愛人になる。

1795年、バラスの紹介で六歳年下のナポレオンと運命的な出会いをする。彼女の美貌と知性に夢中になったナポレオンは、歳の差もバラスの愛人であった過去も気にせず、熱愛する。ジョゼフィーヌ「ヴァンデミエールの将軍」の勢いに打算も働き、1796年3月結婚に同意。しかし、夫の熱愛にもかかわらず、留守の間は浮気に走る。(しょうがないなー)

1804年、皇后となった。しかし、帝国を維持していきたい夫との間に跡継ぎが生まれず1808年に離婚し、金銭の保証と「皇后」の称号を永久に使用する権利を得て、マルメゾン宮に蟄居。

ナポレオンの権力が揺らいだ時、自分の地位の維持のため、皇帝の敵である諸王侯に媚態を示すが、1814年、ほんの短い病気の後、マルメゾン宮で波瀾に富んだ51歳の人生を閉じた。

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