ここの背景画像は「QUEEN」さんらお借りしました。
ロベスピエールと共に山岳派の一員として積極的に革命に参加していたが、恐怖政治が始まると、政治への興味をなくし、ロベスピエールとの距離が広がり始めた。
また、汚職事件で疑惑を持たれたり、金銭的な面や女性問題などで数々のトラブルを起こし、清廉潔白なロベスピエールはついに彼を断罪することにする。
牢獄からの馬車に乗せられたダントンは、日暮前、サン・トレノ街のロベスピエールの家の前を通ると、叫んだ。
「ロベスピエールよ。隠れてもだめだ。次はお前だ」
右の絵はダヴィドが荷車に載せられたダントンをスケッチしたものだが、死に及んでも力強さが伝わってくるようである。
また、断頭台で、剛毅な彼は処刑人に言った。
「俺の首を皆に見せてくれ。それだけの値打ちはある」
処刑人は言われた通り、ダントンの首を高々と上げ群集に見せた。その光景は夕闇の中で壮絶だったと言う。
雄弁でエネルギッシュな彼は民衆から慕われたが、快楽に溺れやすく、また日和見主義的なこともあり、「徳」が支配する恐怖政治を無事に生き延びることが出きるとは本人も思っていなかったようである。
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フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のもう一人の生みの親とも言うべき人であるが、革命政府は容赦しなかった。彼はラファイエットと共に立法会議に対抗したなどの嫌疑で逮捕、投獄され、弁護も空しく処刑されれた。 死ぬ間際に書いた息子への手紙(一部)を読むと、家族への愛がひしひしと感じられる。
恐怖政治の元で処刑。
「ラ・マルセイエーズ」の作曲を依頼したストラスブールの市長。
息子よ。最初の馬車で君に曲をいくつか贈ろう。全て私が編曲、作曲したもので牢獄に入れられていた間に作ったものだ。あまりよくないものも、かなりよくないものもある。でも、ちょっといいものもあるよ。残念なことだが、君に私が残せるものはこれだけだ。 子供たち皆で力を合わせなさい。君達がこの手紙を手にするとき、お父さんはもうこの世にいないだろう。 お母さんとまだ幼い弟のためにも身体を大切にしなさい。(中略)祖国をいつまでも愛するように。決して私をこのような目に遭わせた人々に復讐しようなどと思ってはいけない。(中略) 私の大事な友人でもあるお前を抱きしめる。原則と徳を大切にして生きなさい。そうすれば、お前達はどのように困難なことに遭っても勇気を持って耐えていくことができるだろう。お前を抱きしめる。最後にお前にお別れを言う。 |
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36歳で父から長官職を受け継いだ。1789年7月14日、バスティーユめがけてやってきた民衆に、命を助けてもらう条件で降伏したが、占領後、民衆は彼の首を槍に刺し、パリ市内を行進した。 生命を保証してもらうことを条件に降伏したのに、殺害されてしまったのは、もちろん、民衆が興奮状態にあったことが大きな原因だが、他にも次のことが考えられる。 ド・ローネイ長官の死はこのようなことも原因だった。
民衆に惨殺。
バスティーユの長官。
もともとバスティーユは要塞だったので、内乱が起こるたびに何度も降伏していた。しかし、いつも降伏する相手は王侯貴族だったので、命に問題はなかった。ド・ローネイ侯爵自身ももちろん貴族だったし、父親から聞かされていた昔話のことを考えても、まさか命を落とすなんて考えていなかったに違いない。しかし、1789年の相手は興奮した民衆だった。パンに飢えた民衆は、騎士道を重んじる貴族ではなく、降伏さえさせてしまえばこっちのものだった。
1789年の民衆は、国王を敬愛してはいたが、貴族を憎んでいた。当時、外国から輸入した小麦で作ったパンは味が悪かったが、この味の悪さも貴族のしわざだと民衆は信じていた。