(架空)山田正紀選集 第2巻

ふしぎの国の犯罪者たち



序文

 山田正紀を語る上で、“神”と並んで重要なキーワードが“ゲーム”である。ここでいう“ゲーム”とは、様々な困難や制限を乗り越えてある標的を攻略するという、戦略・戦術シミュレーションにも似たもので、山田正紀はこの“ゲーム”を扱った作品を数多く書いている。自分でも特に好んでいるようであるし、またその持ち味の一つが十分に発揮されたジャンルだといえるだろう。

 その中から、今回は『ふしぎの国の犯罪者たち』を選んだ。『ふしぎの国のアリス』をモチーフにすることで、“ゲーム”によって生まれる“非日常性”を強調したこの作品は、あまりにも山田正紀らしい結末という点でも、外すことはできないだろう。

 退屈な日常生活から、<アリス>のように“ふしぎの国”へとたどり着いた主人公たち。彼らが繰り広げる犯罪という名のゲームの魅力を、ともに味わっていただきたい。


作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『ふしぎの国の犯罪者たち』

解説
―― 山田正紀とゲーム ――

 山田正紀作品の登場人物たちはしばしば、飢えたように何かを求めている。彼らがその飢えを解消しようとする手段の一つが、“ゲーム”なのだ。

 登場人物たちは、様々な困難を乗り越えて標的を攻略しようとするが、その標的は多岐にわたっている。例えば、自衛隊の次世代哨戒機(『謀殺のチェス・ゲーム』)、10億円の現金(『裏切りの果実』)、1000億円相当の企業秘密(『24時間の男』)、あるいは列車で輸送中の名画(「贋作ゲーム」)など、死力を尽くして狙うに値する貴重なものが多いのはもちろんである。

 だが、登場人物たちが本当に求めているのは、実は標的そのものに限らない。ゲームを通じて得られるもの、それは退屈な日常から連れ出してくれる刺激であり、死力を尽くすことによる充実感であり、さらには達成感とともに取り戻される自らのアイデンティティではないだろうか。

 『火神を盗め』のように、主人公たちが意に反して困難な課題に立ち向かうことを余儀なくされる場合であっても、彼らはやがて挑戦するという行為そのものに自分たちなりの意義を見出していく。そして最後に、標的以外の何かを手に入れて物語から退場していくのだ。

 もちろん、『殺人契約』『24時間の男』、そして『七面鳥危機一発』などのように主人公が職業的犯罪者である場合にはやや違うし、『裏切りの果実』のように主人公が標的と引き換えに何かを失っていく場合もある。だが、基本的には、登場人物たちが標的以外の何かを求めていくことが、物語に熱さを、そしてある種の爽やかさをもたらしているといえるだろう。

 彼らはさほど抵抗なく犯罪(ないしはそれに準ずる行為)に手を染めていくわけだが、これをもって彼らの倫理感が希薄だとするのは一面的すぎる見方だろう。彼らにとっては正々堂々とした勝負であり、いわば決闘のようなものなのだ。十分にリスクを承知した上で勝負に挑む彼らは、決して手段を選ばないというわけではない。それによって、単なる犯罪ではない、スマートなゲームが成立しているのだから。このあたりは、J.フィニイ『五人対賭博場』や岡嶋二人『99%の誘拐』といった同系統の作品にも通じるところがあるだろう。

***

 それぞれの作品で描かれた、標的を攻略するための具体的な手段は、いずれもトリッキーなものである。正攻法で挑むことが困難な標的なのだから、それも当然といえるだろう。登場人物たちはいずれも圧倒的に不利な状況に置かれており、何らかのトリックを仕掛けることによってようやく、標的を攻略するチャンスが生まれるのだ。

 そしてこのトリックは、狭義のミステリにも通じるところがあるように思われる。つまり、ミステリでいうところの“ハウダニット”(どうやったのか?)に近いものがあるのではないだろうか。ミステリが基本的にトリックを仕掛けられる側(=謎解き役)の視点で描かれるのに対し、ゲーム小説ではトリックを仕掛ける側が主役となっているという違いはあるものの、どちらの場合も、不可能を可能にするためにトリックが必要とされるのだ。

 他の作品についてはここで触れるわけにはいかないので、本書を例にとってみよう。

 (以下、『ふしぎの国の犯罪者たち』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 現金輸送車襲撃を描いた「襲撃」は、視点を入れ換えればかなりストレートなハウダニットに近い。“困難は分割せよ”というのは奇術の分野で生み出された発想だが、古くからミステリにも導入されているのはご存じの通りである。この作品では、現金輸送車の襲撃と現金の回収を完全に二段階に分けてしまうという発想が光っているが、“あると思ったところにはなく、ないと思ったところにある”という、奇術の典型的なミスディレクションと組み合わされることで、見事な効果が生み出されている。ややご都合主義に感じられる部分もあるが、それでも警官たちが現金の存在に気づかなかったという点にも説得力が感じられるトリックである。

 「誘拐」は異色の作品といえる。通常の誘拐事件であれば、犯人が人質の家族や警察を向こうに回して身代金奪取に知恵を絞ることになるのだが、この作品では登場人物たちが主犯グループ(“凶悪ファミリー”)に身代金受け取りを強要され、“凶悪ファミリー”と警察という二組の敵を相手にすることを余儀なくされるのだ。だが、ここで登場人物たちは、警察を相手にするというリスクを犯さず、“凶悪ファミリー”との対決のみに集中することを選ぶ。これによって、この作品における真の“標的”が、身代金ではなく、人質の奪還と窮地からの脱出にすり替わっていることを見落としてはならないだろう。つまり、この標的のすり替え自体がトリックとして機能しているのである。しかも、さりげなく使われている叙述トリックによって、読者までもが騙されることになってしまう。この構造は、かなりミステリに近いといえるのではないだろうか。

 「博打」でも似たような標的のすり替えが行われている。カジノから金をせしめることが目的だと思わせて、実はそうではない、というのが登場人物たちの仕掛けたメインのトリックである。そして、“帽子屋さん”の奇妙な行動が結末への見事な伏線となっているところも見逃せないだろう。もちろん、“どうやってイカサマを仕掛けるか”にも力が注がれているが、標的を攻略するためのトリックは、あくまでも標的自体のミスディレクションであり、前作「誘拐」に通じる構造となっている。

 「逆転」では、盗み出されたダイヤを、厳重に警備された博物館に戻すという困難なゲームが描かれている。ここで計画立案担当の“兎さん”は、まさしく“逆転”の発想によって、博物館に侵入せずにダイヤを元に戻すことを思いつく。実際には内部に入らなかったにもかかわらず、入ったように見せかけるというこのトリックは、実はミステリにおけるある種の密室トリックそのままなのだ。
 (ここまで)

 こうしてみると、ゲーム小説とミステリの親和性が高いことがよくわかるだろう(もちろん、意図的にミステリの要素を取り込んでいる節もあるが)。早い時期からゲーム小説を好んで書いていた山田正紀が、やがてミステリへと進出していったのも当然といえるかもしれない。

 なお、山田正紀ミステリの中で最もゲーム小説に近い作品として、『SAKURA 六方面喪失課』を挙げておこう。この作品では、主役である刑事たちが、次々と起こる不可解な事件を追いかけていくうちに、その奥に隠された陰謀に少しずつ迫っていくというミステリである。しかし、これを首謀者の側から見てみると、まさに困難な標的を狙ったトリッキーな計画であり、ゲーム小説の様相を呈してくる。つまりこの作品は、プロットからしてゲーム小説を裏返した形のミステリといえるだろう。興味のある方は、ぜひ一度お読みになっていただきたい。



 最後に、本書『ふしぎの国の犯罪者たち』についてもう少し触れておく。

 題名からもわかる通り、本書では『ふしぎの国のアリス』がモチーフとされている。“兎さん”、“帽子屋さん”、“眠りくん”の三人は、バー<チェシャ・キャット>を拠点にして、犯罪という名のゲームに挑んでいく。彼らにとって<チェシャ・キャット>とは、日常の生活からかけ離れたゲームの世界、“ふしぎの国”への入口に他ならないのである。

 そして彼らは、<チェシャ・キャット>から何度も“ふしぎの国”へと旅立っていく。本書は連作短編となっているのだが、山田正紀のこの種の作品においては、職業的犯罪者を主人公とした『殺人契約』及び『七面鳥危機一発』以外に例を見ない。職業的犯罪者が主人公となる作品では、読者にとっての非日常である“ゲーム”こそが主人公にとっての日常であり、ほぼ“ゲーム”の場面のみが繰り返し描かれているのも当然といえるだろう。しかし本書では、“ゲーム”が一段落するごとに登場人物たちは日常の生活へと戻っていく。序文でも書いたように、本書では『ふしぎの国のアリス』というモチーフによって“ゲーム”の非日常性が強調されているが、さらに連作短編という形式によって日常への帰還が何度も繰り返されることで、日常と非日常が対照的に描かれているのだ。

 “ゲーム”が何度も繰り返されることで、登場人物たちがその魅力にはまり込んでいくのはもちろんだが、同時にその危うさも次第にクローズアップされていく。登場人物たちがいかに“ゲーム”と割り切ろうとしても、犯罪行為であることには間違いないのだから。通常であれば、ごく普通の人々が何度も“ゲーム”の世界に入り込むことはあり得ないだろうが、本書ではそのあたりに巧妙なきっかけが用意されており、さらにそれによって登場人物たちの不安感が煽られているところも見逃せない。

 そして、不安感が最高潮に達する最後の作品「逆転」では、ついに“ゲーム”に終止符が打たれることになる。心のどこかでそれを予感していた“兎さん”は、「どんなに楽しい遊びにもいつかはかならず終わりが来るものなんだ……」という台詞を口にするが、やはりいつまでも“ゲーム”で遊び続けていたいという思いもあったのは間違いないだろう。しかし、その思いはむなしくついえてしまう。一つの“ゲーム”が一段落するのではなく、“ゲーム”そのものの終焉がしっかりと描かれているのも、本書の特徴といえるだろう。

 (以下、『ふしぎの国の犯罪者たち』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 しかし、その結末の何と苦いことか。疑うことを知らず、犯罪をただ“ゲーム”ととらえていた登場人物たちは、信頼していたママに利用されていたにすぎなかったのだ。例えば、犯罪行為が露見してしまうといったストレートな結末ではなく、このようなあまりにも皮肉な結末が用意されていることによって、“ゲーム”の終わりの寂寥感だけでなく、何ともいえない無常感が付け加わっているといえるだろう。

 ゲームを続けてきた“ふしぎの国の犯罪者たち”は、結果として誰一人そこから戻ってくることができなかった。好みが分かれるところかもしれないが、いかにも山田正紀らしい、何とも味わい深い結末といえるだろう。
 (ここまで)


2002.06.16 SAKATAM


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