(架空)山田正紀選集 第4巻

第四の敵



序文

 山田正紀は数々の国際謀略小説を書いているが、その中から、今回は迷うことなくこの作品を採用した。作品自体が優れていることはもちろんであるが、復刊される可能性が低いと考えられるのがその大きな理由である。

 この作品では、山田正紀にしては珍しいというべきか、執筆当時の世相が、単なる背景ではなくプロットの重要な要素として取り入れられている。しかも、ある事情によりそれがやや詳しく描かれていないため、当時の出来事が人々の記憶から追いやられてしまいつつある現在、この作品が本来読者に与えるべき衝撃がやや弱いものになってしまうのは否めない。したがって、出版社側としても現時点で復刊に踏み切ることは困難だと思われる。

 しかしながら、『化石の城』『宿命の女』といった初期作品でそれぞれ扱われた、“カフカ”と“ヒトラー”という題材が再登場していることから、山田正紀にとって重要な意味を持つ作品であることは間違いない(雑誌連載時の題名が『宿命の城』だったというのもそれを暗示している)。しかも、この作品の主要なテーマは時代を越えて通用する普遍的なものである。というよりむしろ、今だからこそ重要だというべきかもしれない。

 したがって、この作品を今回のような全集の中の一巻として復刊することには、非常に大きな意義があるといえるだろう。


作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『第四の敵』

解説
―― 山田正紀と昭和 ――

 山田正紀は“時代”を強く意識した作家である。

 もちろん、作家が作品に時代を反映させるのは珍しいことではないが、山田正紀の場合はやや特殊なものに感じられる。それは、作品に反映される“時代”が(執筆時点の)“現代”ではなく、過去、それもまだ“歴史”と呼ぶには至っていない、比較的近い過去であることが多いからだ。これは『僧正の積木唄』に付された千街晶之氏による解説でも「急速に忘れ去られつつある近過去を、現代の読者の意識に蘇らせんとする試み」と表現されているが、ここではさらに具体的に検証してみたい。

 山田正紀の長編及び連作短編の中で、作中の年代がある程度特定できるもの、しかもそれが執筆時点よりも過去(時代伝奇小説を除くため、ここでは20世紀に限ってみる)に設定されているものをその時代順に並べてみると、次のようになる。

 時代小説作家は別として、例えばミステリに限っても、京極夏彦や二階堂黎人などのようにその作品の大半で過去に舞台を設定している作家も存在するのは確かである。しかし、彼らの作品が基本的には共通のキャラクターが登場する、一つのシリーズに属しているのに対して、山田正紀は(一部にシリーズも含まれてはいるものの)独立した多くの作品で過去を舞台としている。しかも、前述の京極夏彦や二階堂黎人らは過去という設定を(作品を成立させるための)“手段”として使用しているように見受けられるが、山田正紀の場合は過去を描くことが明らかに“目的”の一つとなっているところも特徴的である(注)。つまり、これこそが千街晶之氏による「急速に忘れ去られつつある近過去を、現代の読者の意識に蘇らせんとする試み」の表れといえるだろう。
(注:正確には、前記のリストのうち『ツングース特命隊』『崑崙遊撃隊』については、“秘境冒険小説”として成立させるための手段という意味合いが強い。また、『機神兵団』にも若干似たようなニュアンスが感じられる。)

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 ところで、前記のリストの大部分は、“昭和”という時代を描いた作品である。年号が平成に変わってから14年目の現在においても、“平成”を近過去として描いた作品は『SAKURA 六方面喪失課』のみ。しかも近年、『ミステリ・オペラ』『僧正の積木唄』など、“昭和”を描いた作品は着実に増えているようにも見受けられる。ここには、山田正紀の“昭和”という時代に対する強いこだわりが感じられる。そして前記のリストを細かく見てみると、そのこだわりが“昭和”の中でも特定の年代に集中していることに気づかされる。すなわち、昭和10年代(1930年代後半)、昭和25年(1950年)前後、そして昭和40年代(1960年代後半〜1970年代前半)である。

 まず昭和25年というのは、山田正紀の生年に他ならない。第二次世界大戦後、ようやく日本に復興の兆しが見えてきたこの年、朝鮮戦争が勃発している。山田正紀はほぼデビュー直後という時期にあえて、自身が直接体験していない出来事であるこの朝鮮戦争を題材とした『弥勒戦争』を発表している。ここに、「想像できないものを想像する」という宣言(いうまでもなく、商業誌デビュー作『神狩り』に付された作者の言葉である)にも通じる、山田正紀の挑戦を読み取ることは可能であろう。
 そしてもう一作、『影の艦隊』でもこの朝鮮戦争が扱われているが、こちらは『弥勒戦争』とはまた違った意味で興味深い。この『影の艦隊』は、朝鮮戦争をきっかけに日本が史実と異なる歴史を歩んでいくという物語であり、いわゆる架空戦記に属するようにも思える。ところが、山田正紀の立場に立ってみると、自分が生まれた以後の歴史を自身の手で書き換えるという構図が見えてくる。これは実に壮大な野望の表れといえるのではないだろうか。

 次に昭和40年代は、山田正紀が多感な青春時代を過ごしたであろう時期である。この時期に起きたベトナム戦争、沖縄返還、オイルショックなどといった出来事が、山田正紀本人に大きな影響を与えたことは想像に難くない。これらはそれぞれ、『装甲戦士』『裏切りの果実』『顔のない神々』といった作品として結実しているが、同時期に設定されている『化石の城』『破壊軍団』なども含めて、主人公が当時の山田正紀自身とほぼ同世代であることは見逃せない。また、『顔のない神々』は前述の『影の艦隊』と同趣向の(もちろん、発表されたのはこちらが先なのだが)興味深い作品である。

 これらの、いわば個人的に重要であろう年代とはやや違った意味で、山田正紀は昭和10年代を重視しているようである。昭和10年代とはいうまでもなく、日本が太平洋戦争へと突入しつつある時代であり、山田正紀はこれを『人喰いの時代』と表現している。『幻象機械』『天保からくり船』『女囮捜査官5 味覚』などでそれぞれにユニークな日本人論を展開していることからみて、山田正紀は“日本人とは何か?”という問いを常に抱いているのではないかと考えられるのだが、その問いに正面から向き合うにあたって、日本人に大きな影響を与えたこの激動の時代を避けて通ることはできないだろう。そしてまた山田正紀は、この時代を決して忘れ去られるべきではない、日本人が背負っていくべき十字架のようなものととらえているのかもしれない。

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 なお、昭和10年代を描いた作品の中で、『人喰いの時代』『ミステリ・オペラ』はともに、昭和の末期〜平成元年からほぼ50年前の事件を振り返るという構成になっている。50年というきりのよさもあるのかもしれないが、あえてこの時期に設定されていることには別の意味があるように感じられる。つまり、過去の事件が50年後に完結するのと同時に、それが“昭和”の終わりと重ね合わされ、一つの時代の終焉が強調されているのだ。登場人物たち、そして読者は、過去の事件を振り返ることで“昭和”という時代そのものを総括することになるのではないだろうか。

 末期とはいえ依然として“昭和”が続いている中で(昭和63年)発表された『人喰いの時代』では、過去をしっかりと見すえつつ、最終的にはその呪縛からの解放がテーマとなっているのに対して、“昭和”が幕を閉じて十数年後に発表された『ミステリ・オペラ』では、“検閲図書館”という魅力的なアイデアにみられるように、過去を風化させることなく残しておくという行為そのものが中心となっている。これは、すでに現在、“昭和”が忘れ去られつつあるという山田正紀の危機感の表れであろう。いずれにせよ、過去を振り返る時期としてほぼ同年代が選ばれているのは、まったく偶然とは思えない。

 そして、本書『第四の敵』もまた、“昭和”の終わりを描いた作品である。本書は小説推理1988年(昭和63年)10月号〜1989年(平成元年)4月号に連載された作品であるが、作中の時間も昭和63年から平成元年に設定されている。つまり、本書はこれまで挙げてきた作品と違って、過去を振り返る形ではなく“昭和”の終焉をほぼリアルタイムで描いた、ある意味で異色の作品といえるだろう。

 序盤から終盤まで、物語はカフカの残した未発表作品「処刑工場」を中心に進んでいく。当初は「処刑工場」の探索に始まり、やがて複数の勢力による争奪戦が開始される。そしてその過程で、「処刑工場」に隠された恐るべき秘密が次第に明らかになっていくという展開は、国際謀略小説として非常によくできている。しかし、第二次大戦中の亡霊のような存在こそ登場するものの、一見“昭和”とは何の関係もないように思えるかもしれない。

 ところが、最終章の冒頭で突然、年が明けて昭和64年になったことに言及されている。しかもそれが“昭和”の最後の年になるであろうことまでも。これはかなり唐突で、やや引っかかりをおぼえる読者もいるかもしれない。ここでは詳しく書かないが、最終的にはその時代――“昭和”の末期――が物語の重要な要素となってくるのだ。

 “昭和”を強く意識しているであろう山田正紀にとって、その終焉が特別な意味を持っていたと考えるのは、決してうがちすぎではないだろう。本書は、ある意味で“昭和”の終幕を契機として生み出された作品であり、一つの時代の終わりに捧げるレクイエムのようなものなのかもしれない。



 前述のように、本書『第四の敵』では、カフカの未発表原稿「処刑工場」を中心に物語が進んでいく。そこにまず絡んでくるのは、主人公・佐伯の友人である石黒に代表される広告代理店、そしてマスメディアである。

 山田正紀は『神々の埋葬』『電脳少女』などでも、マスメディアによるキャンペーンをシニカルに描いている。『神々の埋葬』では“神”に、そして『電脳少女』では“アイドル”に、その本質とはかけ離れているともいえる、新たな、だがどこか空虚な“価値”を加えて、一般大衆に売りつけようとするマスメディア。利潤追求という目的に向かって突進するその姿は、冷静な視点から見れば壮大な空騒ぎと表現する以外にないかもしれない。

 本書においても、主人公の佐伯はマスメディアのキャンペーンの主役を演じるはずの立場でありながら、その空虚さを横目に、一人「処刑工場」そのものの文学的な価値を求めている。もちろんそれ以外にも、かつて恩師が「処刑工場」にかかわり、そのために破滅を余儀なくされたという理由もあるのだが、少なくとも精神的にはマスメディアによるキャンペーンから一歩離れた位置にいる。

 このようなマスメディアに対する姿勢には、多分に山田正紀自身の主義が反映されていると考えられる。例えば、本書の最終章で佐伯は「現代に“神”がいるとすれば、マスコミこそがその“神”といえるのではないか」と独白しているが、本選集の第1巻『最後の敵』の解説に記したように、山田正紀にとっての“神”(=強大な支配者)とは全力を挙げて抵抗すべき存在なのだ。つまり、マスコミを“神”と表現したこの文章は、強大な力を持つマスコミを“敵”と認識しているという宣言に他ならないのである。

 そしてその力は、情報のコントロール、恣意的な取捨選択という形でふるわれる。ところが、『ミステリ・オペラ』の“検閲図書館”という設定からもわかるように、あるいは『エンジェル・エコー』の「忘れていいことなど、この世にひとつもない」という文章にも表れているように、(可能な限り)すべての情報を残すべきだというのが山田正紀の信念であると考えられる。これは明らかに、マスメディアによる情報の取捨選択とは相容れない。したがって、強大なマスメディアは山田正紀にとって二重の意味で“敵”であるといえるのではないだろうか。

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 (以下、『第四の敵』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 本書では、次第に「処刑工場」に隠された秘密が明らかになっていくと同時に、マスメディアの背後に政治的な意図が浮かび上がってくる。主人公の佐伯にとって、「処刑工場」そのものの価値など求めていなかったはずのマスメディア、そしてその背後の勢力こそが、「処刑工場」の本質的な――世界を動かすマニュアルとしての――価値を求めていたというのは、大いなる皮肉である。より強大な支配力を求めるマスメディアに対して、支配されることを嫌う山田正紀作品の登場人物たちが抵抗するのは当然といえるだろう。

 作中でも言及されている、昭和天皇の病状に関する過剰な報道が、本書の執筆のきっかけになったことは間違いない。今となってはかなり印象も薄れているが、当時の騒動(という表現は適切でないかもしれないが)は大変なものであった。題材が題材だけに差し障りがあったのかもしれないが、その様子が作中で詳しく描かれていないために、インパクトが弱くなってしまっているのが残念である。

 本書が発表されてから十数年が経過した今、残念ながら“第四の敵”はすでに堅固な帝国を築き上げてしまったように感じられる。多くのサッカーファンを愕然とさせた、本年6月のサッカーのワールドカップ(FIFAワールドカップ2002)に関する報道(一部の情報のみを取り上げ、都合の悪い情報は一般に流さないという姿勢)などは、その強大な力が露呈した一例であろう。果たして、“第四の敵”がその力を失う日は訪れるのだろうか。
 (ここまで)

 最後になるが、本書では<流通新報>の面々をはじめとして、鈴木老人や終盤に登場する台湾人・呂志忠など、味わい深い人物たちが多く登場しているのも見逃せないところである。それぞれの出番が限られていることがもったいなくも感じられるが、本書の魅力を高める一因となっているのは間違いない。


2002.11.22 SAKATAM

付記:
 ふと思いついたが、マスメディアのコントロールが及びにくく、またほぼすべての情報が膨大なログとして残されることでネット上の巨大なアーカイブとしても機能している「2ちゃんねる掲示板」などは、山田正紀が好みそうなメディアではないだろうか。「2ちゃんねる」に出入りする山田正紀というのも想像しにくいものではあるが……。


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