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狂気と凶器<5> DANTE-SIDE | |||
糸が切れたみたいに、前のめりに、血だらけの細っこい身体が床に沈む。 額が床にキスする寸前でなんとかその身体を抱き留め、俺はついに溜め息を吐いた。 おかしな方向に回避してくれたおかげで体内に弾丸が残ったのは、大誤算だった。ボルテクスとかいう異界とは別の系譜に属する俺の力は、この世界で殆どの悪魔に対して有効過ぎるくらい有効らしく、魔力でコートした弾丸が体内に残ろうものなら流れ出る体液と一緒に体力を吸い出して、すぐに行動不能、またはその存在ごと消滅に追い遣る。 本当なら表皮を掠り、勢い肉を抉る程度だっただろう弾丸が少年の肩に食いついた瞬間、俺は自分の迂闊さに舌打ちした。 でもな、まさかあそこで反転して向かって来るなんて、誰が想像する? ぐったりと手足を投げ出したきりぴくともしない華奢な身体を抱き上げ、薄暗い通路の袋小路へと爪先を向ける。そこらの雑魚悪魔なんぞは入って来られないよう通路の途中に呪式を撒いて置いたものの、この状況では、用心深過ぎるくらいが丁度いい。 額に冷や汗を滲ませ紫色に変色した唇を震わせている少年を目だけで見下ろし、俺は再度短い溜め息を吐いた。 弾丸が体内に残らないよう、細心の注意を払って銃撃していたつもりだ。浅い、深いを問わず表層に傷はつくものの、アレを食らってぶっ倒れるよりはマシだろうと思った。 それなのに。 わざわざ自分で食らいに来やがる、このガキめ。 苛立つというよりも、呆れた。正直、子守は仕事の内じゃねぇ。 そもそもはこのガキ悪魔を狩る事が俺の仕事だったはずだが、今じゃ何が目的なのか、少々自分でも理解に苦しむ展開になって来やがってる。正直、依頼人に隠し事されるのは嫌いだ。それ以上に、依頼人に騙されて踊らされるのは我慢ならねぇ。 大股で目的の場所を目指しながら、所持品を脳内で反芻する。この世界の理(り)に叶うならマガツヒとかいうヤツがあればいいんだろうが、それがどんな代物でどこにあるのか、俺は全く知らない。 だから、悪いがここはひとつ、俺の常識に従って貰うしかねぇだろ。. 二度ほど角を曲がり、通路の袋小路へと滑り込む。動けない少年を抱えた状態で左右から敵に挟まれるより、追い詰められた方がまだマシだ。 ここらの悪魔なんぞは、俺の敵にもなりゃしないからな。 抱きかかえた少年は、哀しいくらいに軽くて少し力を入れたらへし折れてしまいそうだった。ぶらりと垂れ下がった腕も、ハーフパンツから伸びた脚も、肩も胸板も首も、俺の半分にも足りない。 これで、よく生きてここまで来たモンだと感心する。 袋小路のお終い、くすんだ壁に背中を預けて床に座った俺は、少年を膝に載せて一息ついた。これもまた溜め息だったのかもしれない。どうにかしてここから上へ戻らせようとした俺の目論見は、結局、こいつのおかしな意地のせいで見事に外れちまったってワケだ。 俺は、肩に凭れ掛かって来た少年の、痙攣する瞼を見つめた。 最初は、どんな理由があるにせよ、悪魔に成り下がろうなんてロクでもないヤツは潰せばいいと思っていた。過去に出会ったそういうやつらは、大概自己中心的で傍迷惑な連中だったからだ。 しかし、このおかしな世界に巻き込まれて、この…人修羅……とかいう少年に会って、俺の中の何かが軋んだ。 次に考えたのは、なんだっただろう。 俺はコートの隠しを探りながら、苦い笑いを奥歯で噛み殺した。 爺の目的を探った。全部じゃないが、その輪郭が朧に見えた時、俺は、こいつを…停めなくちゃならなくなった。 義務感とか使命感とか、そういう格好の良いモンじゃない。単純に、俺の自分勝手だと思って貰って結構だ。 でも俺は、二度と、判っていながら、誰かが魔界に呑まれるのを見過ごす気にはなれねぇ。 隠しから取り出した緑色の小さな星型の結晶を一旦少年の胸に置き、思い出して、血に塗れた左肩に触れてみる。弾丸が体内に残っているようなら、多少無理してでも抉り出そうとした俺の思惑は、ここでも肩透かしを食らった。 こいつ…、自分で抉ったのか? この傷を? 断裂した筋肉と筋、それから、粉砕されたんだろう骨の欠片が残った傷跡は思いの他大きく、残留した俺の魔力のせいなのか、未だ塞がっていなかった。じくじくと鮮血の滲むそれに指を突っ込んだんだろうこいつの肝の座り具合に、思わず感嘆の呻きが出そうになる。 そこまでしても、先に進みたいのか。俺は、眉間に皺を寄せた。 痛ましくも小刻みに痙攣する手足が徐々に縮み、腕の中で小さな身体がますます小さくなる。浅く速い呼吸を繰り返しながら少年は、玉の汗を滲ませた額を俺の首筋に擦り付けて丸くなった。 胸に置いた緑の星が転がって、落ちる。俺はそれを拾い上げようと、少年の身体に回していた腕を解いた。 「…は………いで…、…ば…に……て…」 刹那漏れた苦しげな呟き。 一瞬外した視線を震える瞼に戻し、無意識に、少年を抱え直し腕に力を込めると、辛そうに歪んでいた顔に薄く安堵の表情が浮かんだ。 はじめてイケブクロで会った時のような感情や、少年を責める言葉は俺の中に微塵もない。全部じゃないが、この下、深淵でこいつを待ち構える爺の魂胆が見えてしまえば、正直、悪役は俺の方だった。 それを、どうこう後悔してやれるほど殊勝じゃねぇ。悪役? 結構な事だ。 だったら、最後まで悪役のままでいようと思った。最後の最後まで少年を追い立てて、爺に近付かせないつもりだった…。 それが、とんだ裏目に出るとも知らず。 暫くそのまま少年を抱きかかえていた俺は、首筋にかかる呼吸が幾分落ち着いたのを確かめてから、ようやく腕を緩めた。今度はうなされる事もなくぐったりと凭れ掛かって来るのを片腕で支え、床に落ちた星型の結晶を拾い上げる。 さて、どうするか、と思案しながら額に浮いた汗を拭ってやろうとして、今拾ったばかりの結晶が邪魔だと気付く。弛緩した身体を床に転がすにも、少年のうなじには妙な具合に角らしいものが突き出していて、仰向けに下ろす事は出来そうもない。 しかたねぇな。 俺は、指で摘んでいた星を唇に挟み、空いた手で少年の額をぐいと撫で上げた。 途端、ぴくりと瞼が痙攣する。急に目を覚まされて悲鳴でも上げられたら厄介だが、この体勢じゃぁどうしようもねぇ。 しかし、少年は目を開けようとも、呻こうともしなかった。ただ、縋るように弱々しく俺のコートを掴み、微かに眉を寄せただけだ。 これも全てじゃないが、今しがた漏れた吐息のような声とコートに絡んだ細い指で、少年の本心も…少し見えた気がする。 どれもこれも、俺も、中途半端だと思った。 こういう状況は、正直、得意じゃねぇ。 きゅっと眉を寄せて俺の胸元に張り付いていた少年の身体が、徐々にがたがた震え出す。他の事に気を取られてる間に、相当参って来やがったらしい。 俺は緑の結晶を唇に挟んだまま、少年の身体を仰向けに抱き直した。 頼むから、途中で目を覚ますなよ。言い訳するのはごめんだからな。 内心苦笑を漏らしつつ少年の首を左腕に載せて引き寄せ、右手で細い顎を軽く持ち上げた。 仰け反った少年の細い首が、無防備に曝される。浅い呼吸を繰り返す薄い胸が、益々苦しそうに起伏する。抱き直したせいで床に投げ出された指先がぴくと震え、閉じた瞼が忙しなく痙攣し、ややあって、少年は苦しげに唇を開いた。 色を無くしはじめた唇から、白い歯列がちらりと覗く。さっき触れて確かめた未発達の犬歯だけが、他の歯よりも若干長めに顔を覗かせていた。 緑の星を唇に挟んだまま舌先で触れる自分の犬歯は、人間だとすれば必要以上に発達していて、殆ど牙のようだ。実際、過去に「何度も」こいつのおかげでおかしな顔をされた事もある。…まぁ、どんな状況で誰に、とは、あえて言わねぇが…。 「…う………」 唇を開いた事で漏れた小さな呻き声に、俺は少年の顔へ視線を戻した。紙のように色褪せた顔と唇、震える瞼と、睫。全身を舐める黒を翡翠で縁取った…今は身体が弱っているからなのか、黒に紅色だが…斑紋さえなかったら、さぞかわいらしかっただろうにと苦笑も漏れる。 別にそうする必要などなかったが、顎に置いていた手を外し、艶のある短い髪に指を差し入れて軽く梳いてみる。薄い皮膚に包まれた耳から顎へ続く柔らかなラインが、妙に扇情的だと思った。 無意識に、髪を梳いていた手を頬まで下ろし、親指の腹でふくよかな唇を掠るように撫でた。まったく何をしてるんだか。そう思いながら俺は。 ごく間近でなければ吐息も温度も感じられない震える唇に、唇で挟んだ結晶を押し付けて、情熱的なキスを与えるように、冷やりとした星を唾液で溶かしながら少年の温い口腔の奥へとゆっくり押し遣った。 侵入する異物を吐き出そうと、力なく動いた少年の舌先が角の取れ始めた五角形の結晶を押し上げて来る。そういやぁ、犬猫に薬を与える時は舌の上に載せて喉の奥まで押し込み、無理矢理飲み下させなくちゃなんねぇとかなんとか知り合いが言ってたっけなと、俺は妙に場違いな事を思い浮かべた。 だからではない…爪と牙を剥いて来るあたりは犬猫を彷彿とさせなくもない…が、抵抗する冷たい肉を抑え付けるように舌を絡めつつ、逃げ回る結晶を先端で喉の奥へ追い込むと、細い眉がきゅと寄せられて息苦しそうな顔をする。それでも弛緩した手足は床に投げ出されたままで、瞼が持ち上がる気配もない。 それなのに、弱々しく抵抗する薄い舌が、ガンとして結晶を押し戻そうとする。 急に、可笑しくなった。 なんて強情なんだ、このガキは。 軽く、別方向にキレた。 一旦合わせていた唇を浮かせて、異物を吐き出し不足した酸素を補おうと肩が浮いた瞬間を狙い、再度濡れたそれに襲いかかる。 常識的に考えてこれは投与でありそれ以外の目的はない、という当初の考えを綺麗さっぱり頭から追い出した俺は、頬に置いていた手を滑らせて少年の後頭部を覆いぐいと引き寄せた。 吐く事の出来ない酸素に満たされた肺が悲鳴を上げ、少年の眉が先より険しく中央へ寄る。力なく垂れ下がっていた腕がふらふらと持ち上がり、半ば覆い被さる格好になった俺のコートを、引き剥がそうというのか、しきりに引っ掻くような仕草をした。 それでも俺は少年を離さなかった。既に溶けかけの小さな星を更に溶かそうと舌先で嬲りながら、絡んだ唾液を喉の奥まで流し込む。 まだ皮膚の出来上がっていない薄い舌の輪郭を確かめるように、ゆっくりと奥から先端へと舐め上げ、震えるそれを軽く吸い上げて、柔らかく噛む。逃げる粘膜を離し、追いかけて再度口腔へと先端を差し入れて戦く冷たい肉を掬い上げると、コートの表面を引っ掻いていた指先に僅か力が篭って、腕の辺りできゅと革が鳴いた。 抵抗するというよりも好き放題上下左右に緩く嬲られている濡れた感触に、少年がびくりと身じろぐ。ここで瞼を上げ、太陽に晒した蜂蜜みたいな金色の目で誘われたら、もしかしたら取り返しの付かない事までしそうだと内心苦笑を漏らしつつも、幼い犬歯の形を確かめ、冷たい舌を情け容赦なく吸い上げて、…既に星型の結晶がどこにもない事など忘れ…、限界まで差し込んだ舌先でぞろりと上顎を撫でながら唾液を流し込む。 ついに、少年の喉がごくりと上下した。一瞬引き攣るように強張った薄い舌が押し出すような動きをやめ、口の中に残った俺の舌にぺたりと触れゆっくりと歯を立てて来る。 ぎり、と舌に柔らかく食い込む未発達の犬歯に、俺は正気を取り戻した。 子供相手だとしたら犯罪的にディープなキスから、触れた舌先を軽く突く事と、離した唇、その表面を艶々と濡らした唾液を舐め取る事で開放してやると、少年はひくと喉を鳴らして酸素を吸い、顰めていた顔に安堵の色を浮かべた。 大方溺れてる夢でも見たんだろうよ。と、悪ふざけついでに晒した細い喉に湿った唇を擦り付けて残った唾液を拭い、声を殺して少し笑う。 ゲームは、まぁ、楽しめたって事になるだろう。一方的に景品も手に入れたしな。 俺は沸いた笑いの最後を短い吐息で締め括り、頬に赤みの差した少年を抱き直して、立ち上がった。 それでもお前が本気で俺を倒し、この先に行くってんなら、俺はお前を本気で停める。それでどちらかが死ぬハメになっても、それは、仕方のない事だろ? なぁ、少年。 助けておいて殺すなんざ、可笑しな話かもしれねぇがな。 抱えた少年の身体は、やはり哀しいくらいに軽かった。元居た場所、少年が倒れた地点まで戻り、すうすうと寝息のように安定した呼吸を確かめてから、その薄い肢体を床に降ろしうつ伏せに寝かせると、また微かに唇が動いて何かを呟く。 先と同じ切なげな呟きは、聞かなかった事にしといてやるよ、少年。その方が、お互いのためだ…。 床に片膝を突いて、倒れた少年の黒髪を一度だけ撫でた俺は、苦笑も失笑も浮かばない唇を引き結び、…、縋るようにコートの裾を握った少年の手を、無情に、手の甲で払い除けた。 立ち上がり、屍のごとく床に伸びた少年に背を向ける。 振り返らずに、俺は階下へ繋がる梯子を目指して、歩き出した。
背後で、ぱさりと、少年の手が床を叩いたらしい軽い音が響いた。
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