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狂気と凶器<6>

   

 酷く霞んでいた視界が、ゆっくりと色を取り戻す。

 見飽きた床、それから壁。遠くは暗く陰り、近くは仄かに白い。

 そして、視野の半分を埋める赤色に、俺ははっと意識を取り戻した。

 やべぇ…。また倒れてた!

 バネ仕掛けみたいな勢いでうつ伏せの状態から跳ね起きた俺は、軽い眩暈に低く唸って、頭を抱えその場に座り直した。

 なんだっけ? 俺、何してたんだっけか。

 あの赤色魔人と追いかけっこして。と、このカルパに入ってからの出来事を反芻した俺は、床に座り込んだまま慌てて左右を確認し、周囲になんの異常もなく、あの赤色も見えない事に安堵した。

 それで、改めて自分の身体を見下ろし、全身に這うタトゥーの縁取りが薄い紅色に発光していると気付く。

 やっぱ、血ぃ流れ過ぎたのかな。…まぁ、でも、ちょっと意識失ってただけみたいだし、少しだるい感じはするけどどこも痛くないし、危機的状況には陥らなかったって事で、よしとしよう。

 そういえば、と、これまた思い出して自分で抉った左肩の傷に視線を流す。あ、なんか、表面の血が固まって、傷…塞がってる。

 でも、さすがに貧血気味なのか、とりあえず立ち上がろうとしてみたけど、膝が笑って立てなかった。随分走ったし、いっぱい流血したし、ここまでひとりで来たんだから、そう、もう、「ひとり」で何かに抵抗する時間は終わったよな、と自分を納得させて、俺は深く息を吸った。

 目を閉じる。

 言葉に魔力を与える。

 そして呟くのは、仲魔の名。

「サラスヴァティ」

 瞼を持ち上げるのと同時に正面でぼうと蒼白い炎が燃え上がり、密度の濃い中央からほっそりとした腕が表れて虚空に伸ばされる。その、見覚えある白い指と黄緑色を基調にした衣装、それから羽衣、と、燃え盛る温度のない炎を割ってするりと現れたサラスを見つめ、俺は、今度こそ本当に安堵の吐息を漏らした。

「主様!」

 タン、と完全に炎を振り切り床に降り立った途端、サラスは悲鳴を上げて俺の膝元に滑り込んで来た。まぁ、これだけ見事に血塗れで、ついでに体力限界のサインまで出てるんだから、この反応は当然か。

 嬉しいくらいに、心配かけてる…のかもね。

「ごめん、サラス。説明、後でいいよな? とりあえず、か…」

 回復してくんね? と言うより先に、最早苛立ち全開で眉を吊り上げたサラスが、殆ど怒鳴るような勢いで呪文の詠唱に入った。怖いよ、サラス。回復してくれんのはすっげー嬉しいけど、迫力あり過ぎで微妙に怖い。

 床に座ったまま引き攣った笑顔を漏らす俺の周囲を、さあっと乾いた微風が取り巻いた。呼吸し、それが肺の中に溜まるのと一緒に身体の表面に浮いていた血の塊がぱらぱらと砕け落ちて、あちこちに口を開けていた傷がみるみる塞がっていく。

 やっぱサラスは頼りになるなぁ、なんて暢気な俺を睨むように見つめていたサラスの顔が、不意にくしゃりと歪む。

「…無理し過ぎですわ、主様」

「うん、ごめん、サラス」

 ゆっくりと伸びてきた細い指先が、俺の額にくっついていたらしい血の塊を払い落す。それからあちこち跳ねた癖毛を梳いて、ようやく女神はにこりと微笑んだ。

「ご無事で何よりですけれど」

 言われて、俺はううむと唸った。

 無事っつうか、無事じゃなかったつうか、非常に複雑な気持ち。

「それで? 主様、あの憎ったらしい魔人は?」

「え? ああ…。多分この先の梯子の所に……」

「って! 主様、アイツをボコボコにやっつけたんじゃないんですか?!」

 まぁ! と、なぜか非常に驚いた顔でサラスが悲鳴を上げ、俺は、はぁ? といかにも間抜けな顔で彼女を見返した。

「つか、なんでそうなるよ!」

 というかそんなの無理に決まってんだろ、サラス。俺は二階層分走って逃げ回るのが精一杯だったんですけど? しかも、途中で二回もぶっ倒れたし。

「だって主様、妙にすっきりした顔してらっしゃるものですから、わたくしはてっきり」

 膝を突き合わせて床に正座する俺とサラスって、傍から見たらぜってー変だよな…。と無関係に思いつつ、俺は困って短い髪を掻き毟った。

「すっきりって、まぁ、ある程度すっきりはしたし、アイツにさ、言いたい事もきっちり言ったと思うよ、俺は。でも、アイツバカみてーに強ぇんだから、俺一人でどうにか出来るワケねーだろ」

 それまで当惑したように眉を寄せていたサラスが、微かに口元を綻ばせる。

「こっから先が本番なんだよ、サラス。だから俺は君を呼んだ。もちろん、今からヌシとかオセとかも呼ぶしさ」

「わたくしたちの助けが必要になりましたのね、主様」

「そう。アイツ、多分、次のカルパに向かうゲートの前で俺たちを待ち伏せしてると思うんだよな。だからさ、そこに到着する前に一旦全員で作戦会議して…」

 痺れた、と正座してた足を崩し胡坐を掻いて、顎に手を当ててぶつぶつ言う俺を、サラスはほんのり微笑んで見ていた。それで、俺が「何?」と小首を傾げると、ちょっとだけ笑みを濃くした彼女が小さく首を横に振る。

「思う存分頼ってくださいまし、主様」

「…………」

「わたくしは、嬉しゅうございます」

 女神だけど、悪魔のサラスヴァティはそう言って、きゅ、と胸の前で両手を組み合わせた。

「…主様…が、そうやってわたくしたちを無条件に頼って下さるのが、とても、嬉しゅうございます」

 その、裏も表もない無邪気な笑顔と幼女のように小首を傾げる仕草は、間違いなく、俺が悪魔になって初めてシンジュク衛生病院で出会った、あの小さな妖精のものだった。

「本当に、本当に、主様がわたくしたちを信じて下さるのが」

 嬉しい。とサラスヴァティは、はにかんだように微笑んだ。

         

          

 約束は、ひとつだけだった。

 俺たちは、あの赤色魔人に勝つ事にした。

 そのために俺は仲魔を信じて頼るし、仲魔は俺を信じて頼る。

 召喚しては拘束を解き、全ての仲魔を傍に呼び寄せた。非拘束状態ってのはいわゆる自由行動を許可してるワケだから、魔人と闘うのがイヤならいつ逃げ出してもいい。でも、誰もそんな素振りは見せなかった。

 契約、召喚、拘束、非拘束…。そういうモンも、自然に覚えたんだっけなと、俺は緩やかにカーブした通路を歩きながら、思った。

 俺は、悪魔なんだなぁって、なぜなのか、そう思った。

  

   
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