マヂック・オペラ 二・二六殺人事件
[紹介]
昭和十年十一月、乃木坂の置屋で一人の芸者が刺殺された。密室状態の現場には犯人の姿が見当たらないという不可解な状況だったが、なぜか本格的な捜査が行われないまま、事件は忘れ去られようとしていた。詳細が記された「“乃木坂芸者殺人事件”備忘録」と、関係者が獄中で綴った「感想録」だけを残して……。
〈検閲図書館〉黙忌一郎の依頼を受けて、“芸者殺人事件”と奇怪な“ドッペルゲンガー”の調査を始めた特高警察の警部補・志村恭輔は、やがて陸軍青年将校たちが見せる不穏な動きに遭遇し……。
[感想]
本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞を受賞した大作『ミステリ・オペラ』に続く、“昭和史を探偵小説で描く〈オペラ三部作〉”
(帯より)の第二弾です。探偵小説のあらゆるガジェットが詰め込まれた上に、二つの時代がたびたび交錯するという構成が採用されていた前作に対して、本書では題材(昭和史)・手法(探偵小説)ともに明確になったことで幾分かすっきりした印象で、だいぶ読みやすくなっているのではないかと思います。
本書では、副題にも示されているように“二・二六事件”が中心となっており、それが前面に押し出されることで歴史ミステリ色が強くなっています。そして、物語の発端となる“芸者殺人事件”こそすでに起きた事件の真相を掘り起こすという形になっているものの、“二・二六事件”そのものについてはそこに至るまでの過程がリアルタイムで描かれており、謀略小説の様相も呈しています。また、最終的に何が起こるのかが読者には(少なくともある程度は)見えているわけですが、それがどのような形で明るみになるかという倒叙ミステリ的な興味も備えているといえるのではないでしょうか。
一方、第一部で交互に繰り返されている二つのパートがそれぞれ「押絵と旅する男・考」及び「N坂の殺人事件」と題されていることからもわかるように、“江戸川乱歩の探偵小説”がもう一つの重要な要素となっています。江戸川乱歩はあまりきちんと読んでいないのですが、個人的なイメージとしては現代的なミステリよりも怪奇・幻想色が強く、また探偵らを主役とした冒険小説的な側面も備えている、といったところでしょうか。幻想小説や冒険小説はもともと山田正紀の得意とするところでもあり、結果としてその試みはなかなかうまくいっていると思います。
謎解きについては、よくも悪くも山田正紀というべきでしょうか。“芸者殺人事件”の謎や“ドッペルゲンガー”絡みの謎などいくつかの謎が解かれますが、驚天動地の大トリックではなく細かなネタを幾重にも積み重ねていく手法であり(半ば脱力ものの“超トリック”が出てきたりはしますが)、またロジックというには強引な、しかし魅力的な飛躍があり、といった感じです。実際のところ、かなり強引な力技という印象を受けるのですが、“江戸川乱歩の探偵小説”で描かれた作品世界の中にはぴったりとはまっているように感じられます。
前作『ミステリ・オペラ』ほどのインパクトは感じられませんでしたし、また“本格ミステリ”というには謎解き以外の要素の比重が大きい(“本格ミステリ”についての私見はこちら)のは確かです。が、それらは決して瑕疵とはいえないと思いますし、何より“二・二六事件を江戸川乱歩の探偵小説で描く”という狙いは十分に成功しているといっていいでしょう。
【関連】 『ミステリ・オペラ』 『ファイナル・オペラ』
早春賦
[紹介]
八王子郷を治める大久保長安が没し、幕府はその一族郎党に死罪を言い渡す。徹底抗戦を決意する長安の家臣団に対して、千人同心と呼ばれる半士半農の郷士たちにはそれに同調せず、やがて千人同心側の多数の重鎮が惨殺される事件が起きてしまう。かくして郷士たちは、幕府への忠誠を示すためもあって、八王子城に立てこもった家臣団の掃討を余儀なくされるのだが――父を殺された十七歳の風一は、幼なじみの山坊や林牙とともに城攻めに加わるが、その前に立ちはだかったのは、やはり幼なじみの火蔵と火拾の兄弟だった……。
[感想]
山田正紀久々の本格時代小説で、江戸時代の初期、領主の大久保石見守長安が亡くなった直後の八王子郷を舞台とした物語です。
大久保長安は、全国の金山を次々と開発して幕府の財政を支えるとともに自らも巨万の富を築き上げ、徳川家康でさえも御しかねるほど絶大な権勢を誇った人物ですが、それだけに幕府からは目をつけられていたようで、その死後には大久保家は取りつぶしの憂き目にあっています。その取りつぶしの動きをめぐり、長安に対する義理の薄い郷士たちと直轄の家臣団との間に温度差が生じるのはありそうなことですし、それが全面対決へとエスカレートしていく展開も面白いと思います。
とはいえ、本書はそれほど凄惨な物語というわけではなく、むしろすがすがしさのようなものさえ感じられます。それは一つには、家臣団と郷士たちの全面的な戦いが直接描かれることなく、八王子城攻めにおいて主人公の風一ら少年たちが担った特殊な任務に焦点が当てられた、傑作『火神を盗め』を思わせる“ミッション・インポシブル”型の物語となっているためでもあるでしょう。
山田正紀流“ミッション・インポシブル”においては、難攻不落の標的への挑戦こそが至上の命題であり、命をかけるに値するものとして描かれます。そして、幼なじみの少年たち同士が殺し合うという状況でありながら、いや、幼なじみ同士であるからこそ、その勝負は純粋でフェアなものとなるのです。互いに覚悟をもって勝負に臨み、勝者も敗者も死力を尽くした充実感とともに物語から去っていく――現代ではややもするとアナクロニズムと受け取られかねませんが、少なくとも時代小説にはふさわしいテーマといえるでしょう。
そしてまた、年若い少年たちを主役としていることで、ビルドゥングス・ロマンの色合いが強くなっているところも見逃すべきではないでしょう。本書では、当時八王子郷で始まっていた(とされる)養蚕業における、蚕の成育段階を表す用語から採られた章題からも読み取れるように、主人公の風一らは成長していく蚕になぞらえられています。激動の中で急速な成長を遂げる風一らがその戦いを終えた時、読者もまた大きなカタルシスを得ることができるのではないでしょうか。
ある意味山田正紀らしからぬ、それでいてやはり山田正紀らしい、なかなかの傑作です。
翼とざして アリスの国の不思議
[紹介]
1972年8月。わたし――瀬下綾香は、右翼青年グループ〈日本青年魁別働隊〉の一員として、各国が領有権を主張している南洋の無人島・鳥迷島に上陸した。だが到着早々に、メンバーの一人、後輩の紗莉が断崖から突き落とされてしまった。いや、わたしが紗莉を突き落とした/わたしはそれを遠くから見ていた。わたしは人殺しなのだろうか、それとも……? 真相はわからないまま、やがて他のメンバーも次々と命を落としていく……。
[感想]
「後書き」によれば、本書は『サスペンス・ロード アリスの国の鏡』(2006年秋刊行予定)とともにセバスチアン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』・『新車の中の女』へのリスペクトであり、“アイデンティティの揺らぎ”をテーマとした二部作を構成するようです(*)。
“自分”が人を殺す場面を“目撃”した主人公の精神状態はかなり不安定で、唐突に挿入される回想場面の多さも相まって、読んでいて落ち着かない気分にさせられます。そして、主人公の視点で描き出される狂気と幻想はやがて他のメンバーにも広がっていきます。山田正紀のミステリでは、小さな謎を数多く積み重ねて幻想を生み出すという手法がしばしば用いられますが、本書では特殊な状況ゆえの登場人物たちの不安定さが組み合わさって、独特の効果を上げているように思われます。
その狂気と幻想が、最初は少しずつ、そして最後には一気に解体されていく解決場面は、なかなか見ごたえがあります。メインのトリックそのものはやや微妙に感じられますが、それを成立させるための細かい工夫が見逃せないところです。
最後の最後まで謎として残される動機は、巧みな演出もあって強く印象に残ります。特に、物語半ばにある登場人物が語る寓話が、別バージョンとして最後に挿入され、動機の鮮やかなリフレインとなっているのが見事です。
2006.05.21読了
カオスコープ
[紹介]
ある朝ゴミ捨て場から自宅に戻ってきた鳴瀬君雄は、そこで無惨に喉を切り裂かれた死体を発見する。ポケットの中には血のついたナイフ。そして曖昧な記憶の中に浮かび上がる、飛び散る赤い血と女性の悲鳴。自分は殺人者なのだろうか……?
“いつもそこにいない”相棒と携帯電話で話す刑事・鈴木惇一。「万華鏡連続殺人事件」を捜査していた彼は、奇妙な傷害事件に遭遇する。被害者の名は鳴瀬君雄。重傷を負いながら病院から脱走した彼を追って、その自宅へと向かった鈴木は……。
[感想]
二つの視点から描かれた物語が交互に繰り返される、サイコサスペンス風の作品。まず、記憶障害を抱えた元作家・鳴瀬君雄の一人称によるパートにおいては、大筋では、自らの行動に対する疑念と不安を抱きつつ失われた記憶を取り戻そうとする、サイコサスペンスの常道(とまではいかないかもしれませんが)ともいえる物語が展開されています。
しかし、鳴瀬君雄の記憶の混乱や錯綜は著しく、その物語は断片的なエピソードの積み重ねに終始し、しかも時に順序の混乱がみられるなど脈絡もないものになっており、足元の定まらない不安な印象を強めつつ、(例えば『エンジェル・エコー』と同様に)鳴瀬君雄を取り巻く“世界”を点描画のように描き出すことに重点が置かれているように思います。
一方、奇妙な刑事・鈴木惇一を視点人物に据えたパートは、「万華鏡連続殺人事件」という不可解な事件が中心となっているようでいながらそうでもなく、なかなか核心に迫れずにもどかしい思いを余儀なくされます。そしてその動きはなぜか、もう一方のパートの主役である鳴瀬君雄と交錯していくのですが、二つのパートの重なり合いは物語の不安定さを増幅する方向に向かい、結果として全体が混沌{カオス}の様相を呈し、異様な幻惑感を放っています。
いくつかの興味深い謎が解かれた末に待ち受ける(一応の)真相は、個人的にはさほど衝撃的とはいえませんでしたが、そこはかとなく漂う“B級感”も含めて山田正紀らしいといいましょうか。すべてがきちんと割り切れるのではなく解釈の余地が残されている点が好みの分かれるところかもしれませんが、全編を通じて描き出される強烈な幻想は見応えがあります。そして、切なくも美しい結末もまた鮮やか。
雨の恐竜
[紹介]
中学校で映画部の顧問をしていた浅井先生が、恐竜化石の発掘が行われている東谷渓谷で吊り橋から転落死した。現場にはなぜか恐竜の足跡が残されていたらしい――知らせを受けた映画部部長の斎藤ヒトミは、個人的に切実な理由から事件に首を突っ込んでいく。二十年前にも同じ東谷渓谷で、恐竜が犯人とも思える事件が起きていたことを知ったヒトミが、不思議な記憶を共有する二人の幼なじみ、スポーツ万能の美少女アユミと恐竜に詳しいサヤカとともにたどり着いた真実は……?
[感想]
“自由な発想で自分の道を切り開こうとしている若い世代”
に向けた叢書「理論社ミステリーYA!」の第一弾として刊行された、ファンタジーの味つけが施されたミステリ。しかし前面に出ているのは、十四歳の少女を主役とした青春小説の要素です。
物語は、主人公であるヒトミの視点で進んでいきますが、彼女の目を通して描かれる幼なじみのアユミとサヤカも含め、三人の少女たちが周囲を取り巻く“現実”に対してそれぞれに抱いている違和感と閉塞感が、見事に描き出されていると思います。そして特に序盤は、本人たちは大真面目ながら端から見ればどこかとぼけた味が感じられる“現実”との向き合い方や、想像される周囲からの“浮きっぷり”など、川原泉『笑う大天使』の三人組にも通じる魅力が感じられます。
物語の発端となる事件は、事故とも他殺ともつかない微妙なものですが、現場に恐竜の足跡が残されているという不可解な状況がやはり目を引きます。そしてその状況が(特別な記憶を有する)少女の視点からとらえられるゆえか、“恐竜が犯人”という幻想的な構図に支配されているところがユニークです。また、二十年前の奇妙な事件が浮かび上がってくることで、その“幻想”がさらに補強されているのも巧妙です。
とはいえその“幻想”は、物語に突然闖入してきた謎解き役によって、容赦なく解体されてしまいます。あくまで少女の視点から描かれていることもあってか、この謎解き役が強烈な“場違い感”を放っているところも印象的ですが、注目すべきはやはりその真相。ミステリとしてはそれほど強烈なものではないものの、物語半ばから見え隠れしていた大人の世界の裏面があらわになり、事件の“幻想”のみならずもう一つの“幻想”が破壊されるという“通過儀礼”にまでつながっていくところが秀逸です。
物語の終盤、過ぎ去りゆく現在――少女時代――を“思い出”として振り返るかのようなヒトミの視線に込められたノスタルジーは、もはや“少女”ではいられないという無意識の自覚をうかがわせます。恥ずかしながら(読了当時)三十代男性読者としては、このノスタルジーに強い共感を覚える反面、弱冠十四歳にしての“少女時代”の終焉に一抹のもの悲しさを禁じ得ないところもあります。
あくまでも優しく、しかしそれが“別れの挨拶”であることを強く印象づける結末も、実に鮮やか。幅広い年代の方々に読んでいただきたい、青春小説の傑作です。
創造士・俎凄一郎 第一部 ゴースト
[紹介]
奇妙な都市伝説の多い蒼馬市では、異様な事件が相次いで起こっていた。一方通行の道路で消えた霊柩車、ケーキバイキングの最中に毒殺された女、ビルの間に挟まれて宙吊りになった死体、事故で炎上する車に飛び込んだ男……。
……そんな中、十年前に幼い男の子を轢き殺して服役していた男が、不可解な点の残る事故の真相を探っていくうちに、予想もしなかった悪夢に巻き込まれていく。一方、蒼馬市警には法務省から予備役刑事が派遣され……。
[感想]
以前に「メフィスト」に連載された『予備役刑事 トリプル・クロス』を改題の上、大幅に加筆修正した作品で、怪事件が続発する奇妙な街を舞台に繰り広げられる新シリーズ(*1)の第一弾です。シリーズのタイトルになっている“俎凄一郎{まなそういちろう}”という人物は、少なくとも本書の時点では(一応伏せ字)直接登場することなく事件の背景として言及されるのみ(ここまで)なのですが、奇しくも(一応伏せ字)ちょうど二十年前の同じ9月に講談社ノベルスで刊行された某有名作品(に始まるシリーズ)の“あの人物”(ここまで)と同じような役どころになっているのが面白く感じられます(*2)。
さて、“あなたは死んだことがありますか”
という奇妙な問いかけから始まる物語は、刑務所から出所してきた男が過去に起こした事故の真相を探る「鐙橋五叉路交差点」のパートが軸となり、そこに半ば独立した三つのエピソード――「甘い殺意」・「パラダイス・シフト」・「角砂糖、いびつに溶けて」――が絡み合うという構成になっています。序盤は謎が(一応)合理的に解決されるミステリの形をとりながらも、少しずつ割り切れないものが残っていくようになり、読んでいて何とも落ち着かない気分にさせられるあたりは、『サイコトパス』などに通じる山田正紀流幻想ミステリの趣です。
まず、ケーキバイキングの最中の毒殺事件が描かれた「甘い殺意」は、特殊な事情のせいもあって、一堂に会した容疑者たちが安楽椅子探偵風の妙に冷静なディスカッションを行っているのが面白いところです。互いに互いを告発し合うという多重解決的な展開はお約束ともいえますが、途中で話が思わぬ方向に進んでいき、意表を突いた結末を迎えるところが秀逸です。
次いで「パラダイス・シフト」では、二つのビルの間に挟まれて宙吊りになった死体が扱われていますが、ポイントとなる謎が予想外である上に、そこからこれまた変な方向へ進んでいくところが一筋縄ではいきません。さらにこのあたりから、作中で示される“事実”にある種の不確定性が加わり始めることで、オーソドックスなミステリからの逸脱に拍車がかかっていきます。
そして「角砂糖、いびつに溶けて」になると、事件もトリックもあるとはいえ、描かれる“現実”が不安定であるためにもはや謎そのものがはっきりしない――文字通り“すべて”が謎に包まれたような状態。読み進めていっても、何かが明らかになったようでいてそうではない、混沌の中をあてもなく手探りで進んでいくような感覚がつきまといます。
本筋である「鐙橋五叉路交差点」も、これらのエピソードと歩調を合わせるように次第に混迷を深めていきます。単純な交通事故だったはずが、やがて次から次へと新しい顔を見せ始め、ついには底知れない悪夢が姿を現します。随所に不条理なものを残しながら、とにもかくにもそれなりの決着を迎えるかと思われた「エピローグ」でも、最後の最後になって(どちらかといえば)ミステリ的な意味での“悪夢”が用意されているあたりは思わず苦笑。
次巻以降への伏線もばらまかれていると思われるので、正直なところ本書だけでは何ともいえない部分があるのですが、全編を覆う暗く虚ろな雰囲気は好みですし、それとバランスを取るかのように要所で登場する狂言回し的人物も独特の魅力を放っています。個人的には、次巻以降に大きな期待を抱かせてくれる一作です。
*2: もちろん単なるこじつけにすぎませんが。
2007.09.08読了
白の協奏曲
[紹介]
スポンサーの倒産で資金難に陥ったM交響楽団。指揮者・中条茂を中心とする団員たちはやがて、悪党相手に詐欺を繰り返すことで、少しでも楽団の再建資金を得ようとしていた。ところが、その詐欺行為の証拠をつかんだ人物に脅迫された挙げ句、東京を乗っ取るという途方もない計画――“東京ジャック”に挑むことになってしまう。そして決行当日、団員たちの不安をよそに、計画は順調に滑り出したかにみえた。だが、その裏には恐るべき謀略が隠されていたのだ……。
[感想]
1978年に「小説推理」に掲載されたものの、なぜかその後三十年近くも単行本化されなかった幻の作品です。特に加筆修正などはされていないようで、“JR”ではなく“国鉄”だったり、東京都知事が革新系の人物だったりするところに時代がうかがえますが、全体としてはまったく古さは感じられません。ただ、二十代の頃に書かれた作品だけあって、全編に“若さ”が漂っている印象を受けます。
物語の中心となるのは、“東京ジャック”という大胆なアイデア。後に書かれた『三人の『馬』』(『虚栄の都市』)でもこの“東京ジャック”が扱われており、そちらにアイデアが流用された(あるいは再構成された)ために刊行されなかったのかと思っていたのですが、実際に読んでみると、手段や目的はおろか“東京を乗っ取る”という状況さえもまったくの別物だったのに驚かされました。
面白いと思ったのは、序盤から二つの視点で物語が進んでいく点で、一方では“東京ジャック”という途方もない計画に巻き込まれたオーケストラ団員の様子が描かれ、他方では“東京ジャック”の裏に潜む謀略と権力争いに焦点が当てられています。山田正紀ファンにわかりやすい表現をすれば『火神を盗め』と『謀殺のチェス・ゲーム』のハイブリッドといった感じで、素人集団が“ミッション・インポシブル”に挑む痛快さと、闇の中で繰り広げられる謀略の非情さとが同居しているのがユニークです。
計画のいわば“表”と“裏”の描写が何度も切り替わることで、それぞれがぶつ切りにされてやや読みづらくなっている感もないではないですが、それでもやはり“東京ジャック”が決行されてしまえば十分スリリングなものになりますし、“裏”が見えているとはいえ肝心なところは伏せられているので、興味が損なわれることもありません。また、やがて必然的に“表”と“裏”が交錯していくにつれて、“東京ジャック”の成否をめぐるものとは別の緊張感が高まっていくところが秀逸です。
普段とはまったく違った“顔”を見せる東京の真ん中で、ついに主役たちが一堂に会する“最後の対決”は、呆れるほどあっけなく、苦く、それでいて微妙にしゃれたところのある、これぞ山田正紀といった感じの独特の味わい。飛びぬけたところは見当たらないものの、逆にいえば“山田流冒険小説”
(日下三蔵氏の解説より)の様々な要素を少しずつ詰め込んだ(いい意味での)アベレージといえるのかもしれません。
オフェーリアの物語
[紹介]
ひとりぼっちの少女・リアと、ビスク・ドールのオフェーリア。オフェーリアと一体になって、照座御世{かみおますみよ}からもう一つの世界――影歩異界{かげあゆむいかい}へと行き来し、魂を持つ人形を見抜くことができるリアは、幼いながらも人形使{にんぎょうし}の力を備えていた。美しい旅芸人・影華{エイカ}に拾われて旅を続けながら、リアとオフェーリアは人形たちが引き起こす奇怪な事件に遭遇していく……。
- 「第一話 顔なし人形の謎」
- 人形に祟られているという造り酒屋。因果の始まりは五十年ほど前、幽閉された一人娘と若き人形師の悲恋の末に起きた惨事だった。それは、一人娘の不審死、顔をズタズタに切り裂かれて死んだ男女、“人形にやられた”という言葉、そして顔を刃物で切り裂かれた御所人形……。
- 「第二話 落ちた人形の謎」
- 仮の物見台として見張りの兵が登っていたはずの祭りの山車から、悲鳴を上げながら転落した人の姿。だが、それが地面に落ちた時には、山車に飾られていたからくり人形に変わっていたのだ。そして、その時山車の上にいた、リアと顔見知りのミシェル少年の父親が逮捕されて……。
- 「第三話 消えた人形の謎」
- リアとオフェーリア、影華、そしてミシェルは、海辺の村を訪れた。村の護り神とされていた人形から消えてしまった魂を、人形使の力で呼び戻してほしいというのだ。だが、村の中には人影がまったく見当たらず、戸惑いおびえる一行の前に現れたのは、浄瑠璃人形を抱えた黒子たち……。
[感想]
『雨の恐竜』に続いて「理論社ミステリーYA!」から刊行された本書は、各エピソードの題名が「~の謎」で統一されているようにミステリ(謎解き)の要素もあるにはあるものの、実態はかなりファンタジー寄りの作品となっています。主役となるのは八歳の少女・リアとビスク・ドールのオフェーリア――人形使と人形というコンビで、“二人”が一体となることで別の人形の“魂”に接触することができ、それを通じて――いわば人形を介して過去へ遡る能力を有しているようです。
その設定がミステリとしてうまく生かされているのが「第一話 顔なし人形の謎」で、不可解な結末だけが伝わる五十年ほど前の事件が、御所人形の“魂”を媒介にして断片的に再現されることで、細かな謎が次から次へと提示されているのが面白いところです。解決が決してフェアなものとはいえないのが残念なところですが、本書の中で最もミステリ部分に力の入ったエピソードといえるでしょう。
続く「第二話 落ちた人形の謎」でも不可解な謎が中心に据えられてはいるものの、第一話に比べるとやや小粒になっている感があり、次の第三話への“助走”という性格が強いように思われます。そしてその「第三話 消えた人形の謎」になるとミステリの要素はさらに後退し、代わってファンタジー色が一気に強まっていきます。
本書の舞台となっているのは明治期の日本のようにも思われますが、“照座御世{かみおますみよ}”と呼ばれる現世(?)に対して、人形使だけが見ることのできるもう一つの世界――“影歩異界{かげあゆむいかい}”が序盤から少しずつ描かれており、第三話ではその“影歩異界”が大きくクローズアップされることになります。“現実”と重なり合う“もう一つの現実”は山田正紀が好む題材であり、その扱いはさすがに堂に入ったものです。
しかも、“影歩異界”の風景として描かれているのは、“向夜葵{よまわり}”・“移動蝣蜉蝣{うつろうかげろう}”・“睡蓮{ねむりばな}”など、想像力を刺激する様々な造語による生態系で、かつての傑作『宝石泥棒』を髣髴とさせる手法によって構築された魅力的な異世界(*1)が、本書の大きな見どころの一つとなっていることは間違いないでしょう。
「理論社ミステリーYA! ラインナップ・刊行予定」に『オフェーリアのつづきの物語』という続編(*2)の予定が発表されている(*3)ことからもわかるように、本書の結末は山田正紀ファンにはおなじみの(以下略)ですが、それでもリアとオフェーリアの物語が一つの節目を迎えていることは確かで、シリーズ第一作としてはまずまずといえるのではないでしょうか。
2008.05.27読了
神獣聖戦 Perfect Edtion(上下)
[紹介と感想]
生理的な超光速航法である“非対称航行{アシンメトリー・フライト}”を実現するために、人類は自らを背面世界に住む“鏡人=狂人{M・M}”へと変えていく。一方、それに対抗するかのように表舞台に現れてきた“悪魔憑き{デモノマニア}”。両者の“千年戦争”の余波に翻弄された人類は、“非対称航行”の影響を受けて誕生した“幻想生命体”がはびこる地球で、滅びの時を迎えた……。
“非対称航行”の鍵を握る人物・牧村孝二と出会って恋に落ちた関口真理は、牧村孝二をめぐる米ソの諜報戦に、さらには人類全体の存亡に関わる争いに巻き込まれていく。“ネコ”のツァラトゥストラとともに……。
本書は、1984年から1986年にかけて発表された幻想的な未来史〈神獣聖戦シリーズ〉を、大幅に加筆修正・再構成して“完結”させた“完全版”です。オリジナルの〈神獣聖戦〉が『神獣聖戦I 幻想の誕生』・『神獣聖戦II 時間牢に繋がれて』・『神獣聖戦III 鯨夢! 鯨夢!』の三冊に収録された十三篇からなる連作短編+番外編的な長編『魔術師』という構成だったのに対して、本書は「プロローグ」/「エピローグ」(及び間章のような「○」(下巻))と“本編”とからなる一つの長編に近い体裁で、そこに一部加筆修正された十一篇の中短編(*1)が組み込まれた形になっています(*2)。
“本編”は、旧版「交差点の恋人」の冒頭部分(*3)に大幅な加筆が施された「ネコと蜘蛛のゲーム」に始まり、関口真理(と“ネコ”のツァラトゥストラ(*4))と牧村孝二の“新たな物語”――北海道最東端の永劫市・聖ニーチェ病院における心理検査士・関口真理と原子物理学者・牧村孝二の出会いを中心とした物語――が「聖ニーチェ病院」・「心理検査士」・「チェルノブイリ解釈」・「神獣聖崩壊病」と四つの“章”にわたって展開され、新たな結末として書き足された“二十年後の神獣聖戦”である「ディープ・サウンド・チャンネル」で幕を閉じます。
一方、“本編”の“章”の間に挿入されている旧版の中短編は、今回新たに作中で引き合いに出されているニーチェの“永劫回帰”(→「永劫回帰 - Wikipedia」)と、量子力学の“多世界解釈”(→「エヴェレットの多世界解釈 - Wikipedia」)とをごちゃ混ぜにしたような世界観に取り込まれることで、(当初構想されていた)一連の“未来史”の一部というよりも複数の異なる“現実”の断片という印象に変わっています。それを強調するように、“本編”では(前述のように)関口真理と牧村孝二の設定が旧版とはまったく違ったものになっており、さらに“新たな物語”の大半で語り手をつとめる関口真理の――ほとんど旧版とは別人のような――内面がクローズアップされているあたり、特に旧版の読者にとってはまず違和感が先に立つかと思われますが、それもおそらく読者に複数の“現実”を意識させるための意図的なものでしょう。
“新たな物語”の中では、旧版の発表後に起きたチェルノブイリ原発事故が重要な要素として導入されている(*5)のも目を引きますが、新たな軸の一つとなっている“遺伝子型空間”という魅力的なアイデアがやはり非常に秀逸ですし、それに絡んで“ネコ”のツァラトゥストラが主役に近い役どころとなっているのも印象的。そして何より、(直接言及されている箇所は少ないとはいえ)物語全体を包含する形になっている“舞踏会の夜”というキーワードには、旧来のファンとして実に感慨深いものがあります。
連作短編を強引に取り込んだ長編という構成ゆえに決してバランスがいいとはいえないのですが、異なる“現実”の存在を――つまりは各エピソード間の不整合をも許容する設定が功を奏してか、大胆な加筆訂正によって意外に統一感(あるいは連結感)が出ている部分も見受けられます。いずれにしても、二十年以上前に発表したシリーズを新たな形に仕立て直してしまった作者の豪腕には脱帽せざるを得ないところで、やはり傑作といっていいのではないでしょうか。
- 「ネコと蜘蛛のゲーム」 (上巻)
- 1986年4月26日午後7時、“わたし”は渋谷駅前のスクランブル交差点で出会った“ネコ”のツァラトゥストラに導かれるように、エッシャーの展覧会場にたどり着き、エッシャーの「空と水」を目にしていた……。
“鏡人=狂人{M・M}”を統べる“大いなる疲労の告知者”たちは、非対称航行の中核となる“脳{レイン}”に生じた異常を調べるため、“脳{ブレイン}”の恋人だったかもしれない女性を探して過去へ……。 - “大いなる疲労の告知者”の側と関口真理(*6)の側からそれぞれの“発端”が描かれた(全体の「プロローグ」とは別の)“本編”の中のプロローグ的なエピソードであるとともに、20年以上前に書かれた(ものをもとにした)パートと新たに書き下ろされたパートとが対等に組み合わされているという点で、本書全体を象徴するエピソードといえます。
新たに盛り込まれた“遺伝子型空間”の光景も含めて想像力を刺激する超現実的な描写に終始するパートと、現実の中に(あるいは脳の中に)生じた幻想が現実を揺るがしていくパート――二つのパートの関係は、作中にも登場するM.C.エッシャー「空と水」のようなものでしょうか。そしてその双方に登場する“ネコ”こそが本書の主役だといえるのかもしれません。
- 「聖ニーチェ病院」・「心理検査士」・「チェルノブイリ解釈」 (上巻)
「神獣聖崩壊病{モルブス・サークル}」 (下巻) - “わたし”――関口真理は心理検査士として、北海道最東端の永劫市、S-企業傘下の聖ニーチェ病院に赴任した。牧村孝二――チェルノブイリで実験を行っていた原子(幻視?)物理学者――という重要な患者が移送されてくるのに備えるためらしいが、その牧村孝二は会ったこともないわたしを愛しているのだという。後に神獣聖崩壊病と診断されることになるわたしは、“ネコ”のツァラトゥストラと暮らしながら、病院では様々な患者に対応するという日常を送っていたが……。
- 新たに書かれた“本編”は、随所に“幻想”が登場するとはいえ基本的に“現実”ベースで進んでいくために、(特に序盤は)一見するとあまりSFらしくないようにも思えます。しかしその“現実”自体が、本書にも取り込まれた旧版の中短編の“現実”とは大きく異なるものとされていることで、現実的であるはずの描写にも絶えず奇妙な“非現実感”がつきまとうことになるのが面白いところです。
それでいて、レフ・アルバキンや勢子規子といった旧版の“準レギュラー”がほぼそのままの形で登場してくるあたりが、異なる“現実”のちぐはぐさを強調しているところも見逃せません。
ただ、比較的単純なプロットの割にディテールが過剰という印象も拭えないところではありますが……。
-
- 「怪物の消えた海」 (上巻)
- 非対称航行の際に発生する重力の影響で自転速度が極端に遅くなった地球。人類の大部分は“鏡人=狂人{M・M}”となる処置を受けて宇宙に旅立ち、残された者たちは衰えた世界で虚無感を抱えていた。そんな中、長い旅の果てにエーゲ海にたどり着いた“ぼく”は、巨大な牡牛に立ち向かうことに……。
- 自転速度が遅くなった地球と歩調を合わせるかのように人類が活気を失った世界にあって、原始の野性味あふれる幻想と、それによって引き起こされた“ぼく”の激しい渇望とが異彩を放っています。そして、新たに幻想の背景として追加されている、ニーチェの“永劫回帰”と収斂進化とを強引に重ね合わせた奇想が秀逸です。
旧版と比べると、前述のように“永劫回帰”と収斂進化に関する記述が大幅に追加されているほか、一部の登場人物に名前が与えられるなど細かい変更(*7)が加えられ、さらに結末にも多少書き足された部分があります(*8)。
- 「幻想の誕生」 (上巻)
- 根室半島沖合いの無人島・荒涼島。その海辺の水たまりでは、長い時間をかけて誕生の準備が進められていた。そこにとらえられた魚の残留思念、そして非対称航行によって発生する重力を糧として、ついに誕生した“幻想”だったが、それが外界へ流れ出していくためには、一つの物語が必要だった……。
- 海辺の水たまりから幻想生命体が誕生する過程が克明に描かれたエピソード。静かに発生が進んでいく前半もさることながら、“最後の引き金”となる後半の出来事も語り手のフィルターを通した“物語”という形をとることで、全体が淡々とした雰囲気でまとめられているのが見事です。
旧版では瀬戸内海の〈小能子島〉だった舞台が“本編”に合わせて〈荒涼島〉に変更された上に、後半の(一応伏せ字)若者と少女に“牧村孝二”と“関口真理”という名前が与えられて(ここまで)おり、それによって“異なる現実”であることがはっきり示されているといえるでしょう。
- 「円空大奔走」 (上巻)
- 寛文年間、蝦夷地。放浪しながら木仏を彫り続けてきた僧・円空は、迷いを抱えていた。そんな時、空中にマンダラを描き出すことができるという、“まりも”という名の不思議な女性の存在を聞かされた円空は、彼女に会いに行くという商人に同行する。自らの迷いを振り払うきっかけを得るために……。
- 歴史上の人物である円空を主役に据えて“千年戦争”の時空を超えた影響を描き出したエピソードで、放浪する“千年戦争”の“観察者”の孤独と哀しみが印象に残ります。また、物語終盤に配されている(シリーズを通して思いのほか描かれていない)最前線での戦闘場面も見ごたえがあります。
旧版でも蝦夷地での物語ではありましたが、“まりも”の住む場所は内陸部(*9)だったのが、本書では「幻想の誕生」と同様に〈荒涼島〉に変更されています。それによって、(一応伏せ字)「幻想の誕生」とのつながり(上巻237頁~241頁と322頁~323頁参照)が設定されている(ここまで)のが非常に面白いと思います。また、結末付近の加筆部分(上巻341頁上段21行~342頁上段21行)に(一応伏せ字)「落日の恋人」からの“フィードバック”(ここまで)が含まれているのもよくできています。
- 「交差点の恋人」 (下巻)
- “大いなる疲労の告知者”により、電気信号に変換されて“脳”に送り込まれたマリとネコは、“脳”の異常の原因を求めて神経細胞を駆け抜け、大脳髄質から視床下部へ、そして大脳辺縁系へ向かう“道路”と大脳新皮質へ向かう“道路”が交差する、崩壊寸前の“交差点”にたどり着いた。そして……。
- 脳内の神経細胞や物質などが擬人化・具現化された描写は魅力的ですし、大脳新皮質と辺縁系とのつながりを交差点になぞらえて、電気信号のマリとネコを“現実”の真理とネコに重ね合わせているところが巧妙です。
旧版「交差点の恋人」の冒頭を削ったもので、「ネコと蜘蛛のゲーム」の“大いなる疲労の告知者”のパートから続いているようにも読めますが、(一応伏せ字)“ネコ”の扱いを考えれば(ここまで)これもまた“異なる現実”の一つとみるべきでしょう。
- 「ころがせ、樽」 (下巻)
- 月都市では悪魔憑き病質者が増加し続けていた。その一人であるDは、蛙男{フロッギー}や風船男{バルーン}らとともに“悪魔審問会”の管理を離れ、調査のために“樽{バレル}”へと向かう。すでに見捨てられて久しい非対称航行の発着基地であるそこに、何らかの異変が起きているらしいのだ……。
- 未来の月都市を舞台とした比較的ストレートに感じられるSF設定に、寄せ集め/呉越同舟のチームが標的の攻略に挑んで……という山田正紀の王道ともいえるプロットと、本書の中でもかなりわかりやすい部類に入るように思われます。その中で、“鏡人=狂人{M・M}”と対立することになる“悪魔憑き”に焦点が当てられているのは興味深いところですし、そこに盛り込まれたアイデアはなかなか面白いものになっています。
なお、冒頭部分(下巻71頁~75頁上段)には、他のエピソードと微妙につながる一場面が新たに追加されています。
- 「渚の恋人」 (下巻)
- 弟の透とともに鎌倉を訪れた関口真理は、寺の庭で出会った牧村孝二と恋に落ちる。だが孝二は、その特殊な能力を見抜いたS-企業により囚われの身となっていた。真理は再び鎌倉を訪れ、孝二のいる由比ヶ浜の屋敷に潜入する。そこには、庭師である孝二が作り上げた赤い荒野が広がっていた……。
- 関口真理と牧村孝二の“もう一つの出会い”が描かれるとともに、“現実”レベルの“準レギュラー”が登場してくるエピソード。牧村孝二が作り上げた“赤い荒野”の存在感もさることながら、語り手をつとめる関口透の複雑な心情が印象に残ります。
なお、この「渚の恋人」から「落日の恋人」までは、大きな加筆訂正はないように思われます。
- 「時間牢に繋がれて」 (下巻)
- 幻想に覆いつくされて時間の流れさえも異なる“永遠の三角形{エターナル・トライアングル}”。“千年戦争”の中立地帯であるここで、“悪魔憑き”の大使ローズマリーが殺害される大事件が発生した。中立機関から派遣された時間剥製者の“おれ”は、殺されたローズマリーに事件の真相を尋ねるが……。
- 年代的にはシリーズ中でもかなり後に位置すると思しきエピソードで、現実とはかけ離れた幻想に満ちあふれた“異世界”の中で、幻想ミステリ風の物語が展開されています。“鏡人=狂人{M・M}”・“悪魔憑き”双方の大使が駐留する中立地帯という設定や、“現想者”・“時間剥製者”・“観淫者{ヴォワユール}”という人類の適応放散(?)なども魅力的ですが、アンチミステリともいえる結末も含めた全編を彩っている美しい幻想こそが、このエピソードの最大の魅力といえるでしょう。
- 「鶫{つぐみ}」 (下巻)
- 模擬テストの出来に意気消沈しつつ、いつもの私鉄に乗り込んだ“ぼく”は、いつの間にか森の中にある見知らぬ駅に降り立っていた。〈鶫〉という名のその駅で、何気なく鶫の写真を撮ったぼくだったが、その写真を見たという男の話に乗せられて、思わぬ騒動に巻き込まれることになったのだった……。
- 旧版の中ではSF要素の少なさと雰囲気の軽さで浮いている感のあったエピソードですが、本書に取り込まれて連作という“縛り”(あるいは一つの時系列という“縛り”)がなくなったせいか、そのあたりがさほど気にならなくなっています。
- 「硫黄の底」 (下巻)
- “翼”というあだ名の若者は、自殺しようと火山の噴火口に飛び込んだ……はずだった。なぜか自分が戦場にいることに気づいた“翼”は、そこで“女子大生”や“作家”と出会う。彼らはみな、“悪魔憑き”のDによって呼び集められたのだ。“地獄巡り”をして“大いなる疲労の告知者”を斃すために……。
- ある意味では「ころがせ、樽」と同工異曲という見方もできるかもしれませんが、この上なく強大な存在であるはずの“大いなる疲労の告知者”に挑む“チーム”の前途には、より壮絶な結末の予感が漂います。しかし、用意された結末の凄まじさは(おそらく)読者の予想を軽々と跳び越え、さらに短くも圧倒的な“最後の一行”(*10)がとどめを刺します。
- 「鯨夢{GAME}! 鯨夢{GAME}!」 (下巻)
- 〈鶫〉研究所の突然の消滅後、付近一帯に広がった“湘南症候群{ショウナン・シンドローム}”――“反人間”・“反世界”の存在を感じ取るという謎の病気を調査するために、人体生理学者らが現地へと向かうが、彼らを乗せた特別列車が問題の地域へと近づくにつれて、世界そのものが変貌していき……。
- “鏡人=狂人{M・M}”や“悪魔憑き”をすっ飛ばして人類と“大いなる疲労の告知者”が(曲がりなりにも)対峙するという、シリーズの構想の変化が端的に表れたエピソード。局所的にとはいえ変貌した世界の中に放り込まれた人間の無力さが、“大いなる疲労の告知者”という圧倒的な存在の出現によって一層際立っています。そしてすべてが混沌に包まれた結末が、滅びゆく人類の運命を暗示しているように感じられます。
- 「落日の恋人」 (下巻)
- 牧村孝二をめぐる米ソの“冷戦”が終了した結果、体よくお払い箱にされてしまったレフ・アルバキンは、関口真理らと協力して牧村孝二を奪還するために丹沢の基地に潜入する。一方、自身を封じ込める“牢獄”として背面世界にまたがる庭園を築き上げた牧村孝二の前に、一匹の“ネコ”が現れて……。
- 「鯨夢! 鯨夢!」の後に配置されているのにはやや違和感を覚えますが、〈神獣聖戦〉があくまでも“関口真理と牧村孝二の物語”であることを強調する意図でしょうか。目を引くのは何といっても“ネコ”のツァラトゥストラの大活躍ですが、それぞれの登場人物にとっての(一応の)“幕引き”はやはり印象深いものがあります。
結末の一部が旧版ではとってつけたようなものに感じられたのですが、本書では(一応伏せ字)「ころがせ、樽」冒頭の(ここまで)“伏線”が追加されたことで、唐突な印象がやや減じています。
- 「ディープ・サウンド・チャンネル」 (下巻)
- 関口真理と牧村孝二が聖ニーチェ病院を去ってから二十年――ロシアのスパイであるユーリー・ダニロフは、S-企業の総帥・東田太平、正体不明の人物・関口透、そして関口の姪である牧村由理らとともに、日本とロシアが共同で封鎖してきた荒涼島に足を踏み入れた。荒涼島にある“M-H境界”が、由理の患う病を好転させる可能性があるのだという。ロシアン・マフィア“悪魔憑き”が行く手を遮る中、“M-H境界”にたどり着いた一行の前に姿を現したのは……。
- 「SF Japan」2005 WINTER・2006 SPRINGに掲載の「ディープタイム」に大幅に加筆されたもので、“本編”の最終章としての“二十年後の神獣聖戦”となっています。これに続く「エピローグ」も含めて、もはや“何でもあり”といっても過言ではない(←決して悪い意味ではありません)並列的/重層的な結末は、旧版の“結末”である「神獣聖戦13」とは似て非なるものであり、何ともいえない余韻と感慨が残ります。
*2: 「小松左京マガジン」第10号と第11号に掲載された「神獣聖戦13」(注:上の「神獣聖戦13」とはまったくの別物)は――掲載誌が発掘できないので未確認ですが、“聖ニーチェ病院”や“神獣聖崩壊病”といったキーワードがあったように記憶しているので――本書の“本編”の原型になったと考えてよさそうです。ただ、『篠婆 骨の街の殺人』との関連という、個人的に興味のあった部分がなかったことになっているのが残念です。
*3: 宇宙船〈前頭葉号〉の消滅とそれに続く“大いなる疲労の告知者”の決断あたりまで。
*4: 旧版の“ニーチェ”から名前(だけではありませんが)が変更されています。
*5: 『未来獣ヴァイブ』との微妙な関係も気になるところです。
*6: 実際にはこのエピソードには“関口真理”という名前は登場しませんが。
*7: 例えば、収斂進化を引き合いに出すのに合わせて旧版の
“こうもり”が
“ヴォラティコテリウム・アンティクウス”(上巻60頁など)に、
“ボス・L・タウルス・アフリカヌス”が
“アータイダクティラ・アフリカヌス”(上巻78頁など)に、それぞれ変更されています。また、
“窃視症者”に
“ヴォワユール”というルビが振られています(→「時間牢に繋がれて」を参照)。
*8: 本書の〈自由{エレフセリーア}〉及び〈抵抗者{アンダルテ}〉というパートは、旧版の〈真実の瞬間〉の(徳間文庫版で)最後の数頁を膨らませた形になっています。
*9: 本書の上巻316頁上段16行~22行の台詞が、旧版では
“はい、根崎からさらに海沿いにのぼっていき、東へ折れますと、森の中に一すじの川が流れているそうでござります。その川を溯っていきますと(後略)”(徳間文庫版『神獣聖戦II 時間牢に繋がれて』71頁)といった具合になっています。
*10: 実は2文字目が旧版から変更されている(関連する他の箇所も同様)のですが、やはりこちらの方がより適切なものに感じられます。
2008.10.21 / 10.25読了
【関連】 〈神獣聖戦シリーズ〉: 『神獣聖戦I 幻想の誕生』 『神獣聖戦II 時間牢に繋がれて』 『神獣聖戦III 鯨夢! 鯨夢!』
神君幻法帖
[紹介]
元和三年、前年に死去した大御所徳川家康を祀る日光東照社が完成し、駿河国久能山から家康の霊柩が遷されることとなった。その行列が擁する「未他焼能」と「先自身焦」という二輿の輿車を、幻法者の山王一族と摩多羅一族とがそれぞれ担い、どちらが先に日光東照社に到着するかを競うべし、という命が下される。かくして、山王主殿介が率いる山王一族、摩多羅木通{あけび}を女棟梁とする摩多羅一族、双方七名ずつの手練れによる壮絶な幻法勝負が始まった……。
[感想]
かつて“時代伝奇ものは山田風太郎の呪縛から逃れられない”
と語っていた(*1)山田正紀が、一転開き直って風太郎忍法帖へのオマージュに挑んだ、“風太郎忍法帖”ならぬ“正紀幻法帖”。内容のみならず、カバーイラストには角川文庫版の風太郎忍法帖などで知られる佐伯俊男氏(*2)を起用するという凝りようです。
本書のベースとなっているのは“風太郎忍法帖”の原点である『甲賀忍法帖』で、将軍家の命を受けて対立する一族が“幻法”勝負を繰り広げるという骨格はもとより、棟梁同士の“ロミオとジュリエット”的な恋愛(*3)が盛り込まれ、さらに幻法者たちが使う“幻法”の中に“本家”『甲賀忍法帖』の忍法と似通ったものが組み込まれている(*4)など、大筋から細部まで“本家”『甲賀忍法帖』を徹底的に踏襲した部分がまず目につくのは、オマージュとしては当然といえるかもしれません。
その中にあって興味深いのが、“風太郎忍法帖”の荒唐無稽な忍法解説をアップデートしたという“幻法”解説です。医学的知識を駆使して無理矢理こじつけた“本家”も相当なものですが、時代伝奇小説の中でいきなり“ニューロン”
や“ノンコーディングRNA”
といった語句が飛び出す本書のそれは、その強烈なミスマッチによって“本家”よりもうさんくささが増している感があり、ナンセンスなツッコミどころとしてより愉快なものに仕上がっているようにも思います。
本書の『甲賀忍法帖』との最大の違いは、幻法勝負の目的が(一応の理由が用意されているとはいえ)ぼかされているところでしょう。『甲賀忍法帖』の倒叙ミステリのような独特の面白さ(*5)に欠けているのは残念なところではありますし、伏せられた目的そのものが見えやすいのも難といえば難ですが、それがクローズアップされる物語終盤が、ある意味“風太郎忍法帖”から離れた、いかにも山田正紀らしい展開になっているのが見どころです。
それでいて、最終的に思わぬ形で史実につながるオチが用意されているあたりは、“風太郎忍法帖”らしい味わいを十二分に意識した見事な結末というべきでしょう。全体的にみると、(比べるのが間違いかもしれませんが)“風太郎忍法帖”ほど幻法者たちのキャラが立っておらず、またエロティシズムに関して歴然とした差があるなどの不満も残りますが、“風太郎忍法帖”へのオマージュとしては非常によくできているといっていいのではないでしょうか。
なお、巻末の「著者インタビュー」によれば『くノ一忍法帖』をベースとした『をんな幻法帖』なる次作の構想もあるようで、山田風太郎・山田正紀双方のファンとして大いに楽しみです。
*2: 一例として、『風来忍法帖』カバーイラストを。
*3: ただし、本書では『甲賀忍法帖』とは違って、当初からの恋人同士という設定ではありません。
*4: 巻頭の「主な登場人物」の中で、それぞれの幻法者が使う幻法がある程度明かされてしまっているのがいただけないところです。
*5: 『甲賀忍法帖』では、忍法勝負が将軍家の後継者争いの代理戦争となっており、史実に基づいて読者が忍法勝負の勝者を予測可能な状態で物語が進んでいきます。
2009.02.21読了