ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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一言で説明すると… 三部会を開催しようと手を結んでいた高等法院と民衆は、三部会の召集が決定されると、とたんに対立が始まります。巷では「第三身分とはなにか」等のパンフレットが溢れ、三部会への期待が高まります。 |
1788年、ブリエンヌも貴族と第三身分との連合戦線の前に屈服せざるをえませんでした。7月には、翌1789年5月1日に全国三部会を召集する約束したのです。
しかし、このような決定も破産に瀕した国家財政を救済することはできません。ブリエンヌは病院用の基金に手をつけたり、いろいろ努力しましたがついに、国庫の支払いを停止しなければならなくなりました。
1788年8月24日、ブリエンヌは国王に辞任を申し出ました。翌日、代わりにネッケルが呼び戻されました。
ブルジョワを中心に民衆から人気のあるネッケルは就任の条件として次の3つを要求しました。
宮廷はこの条件を飲みました。高等法院を廃止し、ラモワニヨンの司法改革で自分なりの改革を行おうとした宮廷は、高等法院を中心とした「貴族の反乱」により完全に頓挫してしまいました。
三部会開催をめぐって、高等法院と民衆は手を握りましたが、ひとたび三部会の開催が決定されると、両者の利害の対立が表面化してきました。
高等法院を中心とした貴族勢力は、王権の強化に反対して、封建的特権を維持したいという幻想を抱いています。一方の民衆は、封建制そのものの廃止を望んでいます。もとよりこの両者が共存できるはずがありません。
1788年9月25日、パリ高等法院は翌年に召集される三部会を「1614年に守られた形式に則り、法規どおりに召集され構成される」こととしました。
1614年の形式とはつまり、各身分の構成員を同数とし、採決を身分別に行う、と言うものです。これが決定されれば、票決は必ず一体二になり、第三身分の敗北は目に見えています。民衆が承知するはずはありません。
第三身分は声を高くして、高等法院を非難しました。これにはひるんだ高等法院は、第三身分の代表者が他身分の倍とすることを承知し、政府も同調しました。しかし、採決は各身分が一票ずつ持つ、という従来の方式は踏襲されたままでした。
1789年1月24日、三部会の召集状と選挙規則が公表され、選挙戦が始まりました。フランス全土の教会の説教壇から政府の布告が読み上げられました。
「国王陛下は、王国のすみずみから名もない民が、それぞれの願いや要求を陛下の御許で上申することを願い給う」
この言葉に素朴な人民は感動しました。また、近い将来革命の指導者となる人々が先を争って政治パンフレットを書き、いたるところで自分の政治思想を読み上げました。
また、自然発生的に意見の合う仲間が集まり、情報交換や請願書の作成、三部会に提出する陳情書(カイエ)の見本を回覧したりました。中でもミラボーを中心にした「三十人会」と言う組織が有名です。
「第三身分とは何か」 |
そして、彼は来るべき三部会においては、第三身分の代表は特権身分の代表とは協力せず、一挙に一院制、多数決主義の「国民議会」を作ることを提案します。このような考えを持ったということは、今考えてもすごいことです。
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