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 2.革命のきっかけ  

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2.革命のきっかけ
  1. 貴族の反乱革命の最後で決定的なきっかけは貴族の反乱でした。公平な税金を払うのがいやだ、などというつまらないわがままのために、彼らは自分達の存在に一番必要な王政を破壊するきっかけを作ってしまったのです。
  2. 三部会召集三部会を開催しようと手を結んでいた高等法院民衆は、三部会の召集が決定されると、とたんに対立が始まります。巷では「第三身分とはなにか」等のパンフレットが溢れ、三部会への期待が高まります。
  3. 三部会開催今では国王を除く全ての身分の人々が、自分達の身分のために三部会の召集を望んでいました。それに屈服する形で国王は三部会を召集しました。そして、三部会は国民議会に発展していったのです。
  4. 国民議会成立議会は国王と対立しながら、国民議会を成立させます。そして、「テニスコートの誓い」憲法の制定を強く誓います。国王は議会に対抗するため、軍隊をパリとヴェルサイユに集結させていました。

iv. 国民議会成立

一言で説明すると議会は国王と対立しながら、国民議会を成立させます。そして、「テニスコートの誓い」憲法の制定を強く誓います。国王は議会に対抗するため、軍隊をパリとヴェルサイユに集結させていました。 (H12.10.20.UP)

第三身分の反乱

第三身分の代表者は、聖職者や貴族にも合流を求めました。一ヶ月たっても何も動きはいりませんでしたが、六月になるとさまざまなことが劇的に進みます。

これまで選挙を推進してきたパリの民衆も連日、ヴェルサイユに来て第三身分の討議に参加し、傍聴人と議員は激論をたたかわせました。議員達も、出身地ごと、あるいは考え方が同じ人達が集まりを持つようになりました。ブルターニュ出身議員による「ブルトン・クラブ」が作られ、これが後に革命の大きな推進力となる「ジャコバン・クラブ」の原型です。

それでは流れを日を追って見てみましょう。
6月10日
シエイエスは特権階級に対して、「直ちに共同の資格審査を始める。欠席者は棄権とみなす」ことを通告しました。第三身分の代表者はこの言葉で自信をつけ、フランス革命の幕が開いたのです。

6月12日
全員点呼が始まりました。
6月13日
三人の司祭が点呼に応じました。その後、十六人の司祭が加わりました。彼らは下級僧侶であり、民衆と同じ生活感覚を持っており、上級僧侶に反発していたからです。
6月15日
第三身分の代表全員と後から参加した聖職者代表の資格審査終了し、シエイエスは審査終了者のみで議会を構成することを提案し可決されました。
6月17日
第三身分に加わった議員達は、圧倒的多数で自らの集まりを「国民議会"Assemble National"」と誇り高く呼び、三部会の名を捨てました。
6月19日
聖職者は149票対137票で第三身分に合流することを決定しました。 国王は、聖職者と第三身分の合流を阻止するため、修繕という名目で第三身分の会議場を閉鎖し、同時に国王の親臨する三部会を召集しました。
テニスコートの誓い

テニスコートの誓い
テニスコートの誓い

6月20日
入場できなかった第三身分の代表者は、廷臣たちの娯楽室であった球戯場(テニスコート/ジュ・ド・ボーム)に集まり、有名な「球戯場の誓い」を行いました。

主な内容は、「国民議会は、憲法が制定され、強固な基礎の上に確立するまでは決して解散しない」というもので、この誓いをする者は、全て署名をして決意を不動のものとしました。この時の署名者は577人で、その後さらに増えました。

国民議会初代議長はパリで票を一番多く獲得したバイイがなりました。科学アカデミー会員のバイイは国民議会に重みを与えました。
(絵をクリックするともっと大きな画像と説明が見られます)

6月22日
大多数の聖職者(150人以上)と二人の貴族が合流した会議がサン・ルイ寺院で行われました。
国王の敗北

6月23日
国王は親臨会議を開催しました。そこで次のように説得しました。

  1. 身分別の会議を改めて開催すること。
  2. 租税負担の平等を認めるが、特権身分の持つ財産はすべて維持されること。

そして、こう言いました。
「かくも見事な企てにおいて、諸君が私を見捨てるのならば、私はひとりで人民の幸福を図ろう。」

解散を命じましたが、第三身分は退場しません。王の使者が来てもう一度命令を伝えると、議長バイイはこう言いました。

「国民議会は指示を受けることはできない」

ミラボーはこう言いました。 「われわれは銃剣の力によるのでなければ、この場を離れない」 (この辺の状況をもっと詳しく知りたい方はこちらまで)

6月24日
第三身分の断固とした態度に影響されて、オルレアン公を筆頭に47人の貴族が合流しました。
6月27日
国王は、全員が国民議会に合流することを「死んだ気になって」認めました。

国王の対策

国王には、軍隊の力に頼る以外道はありませんでした。彼は地方の軍隊をパリやヴェルサイユに集めてパリを制圧し、議会の抵抗を取り除こうとしました。

6月26日、東部に配置されていた軍隊がパリを目指して移動し始めました。パリにはすでに3万の軍隊が集結しており、国王軍は7月13日7月14日の前日!!)には完全に集結されている予定でした。

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