ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。

出来事・用語 た行 (た・ち・つ・て・と)

<た・ ・ つ・ >

徴税請負人
Fermier General (H11.4.5.UP)

旧体制で一部の税金を集めた人。

この徴税請負人は民衆から嫌われていた。そのせいで、徴税請負人だった「近代科学の父」と呼ばれたラボアジエ処刑された

旧体制下では関税や、タバコ税、塩税、一部のアルコール飲料の税などを集める仕事を「収税人組合」とよばれる富裕な金融家の団体がうけおっていた。彼ら仕事は、国に毎年ある額の金を支払うかわりに、集めた税金を全部自分たちで分け合ったうことだった。 (ラボアジエもこの収税人組合の一員となり、すぐに経営上で卓越した地位をしめるようになった。彼はすぐに莫大な財産をたくわえた。)

徴税請負人は、巨大な利益をあげるために、取締を極度にきびしくし、脱税や密輸、とくに高い税をかけられている塩の密輸に、きびしい刑罰が課せられるようにした。しかも、彼らの財務管理をめぐって多くのスキャンダルがあり、とくに収税人組合員が高位の人や有力者に不法な支払いをしたことや、国王や国王の愛人たちが毎年彼らから多額の金を受けとっていたことが知られている。

1791年、国民公会が収税人組合の廃止を布告し、以後2年の余裕をあたえて組合財政を清算し報告するよう命じたとき、おどろくフランス人はほとんどいなかった。しかし収税人たちの作業は異常に遅く、2年間がすぎても清算ができなかった。この不必要な遅れと、ほかにも理由があって、彼らの評判はますます悪くなり、1793年11月に一議員が「これら吸血鬼」の逮捕を要求した。国民議会は慣習に従って、ラボアジエを含むすべての収税人の逮捕を命じた。

収税人組合員は、@あらゆる種類の搾取と横領を行なってフランス人民に損害を与えたかどで、共同責任者として、また個人としても告発された。また、A担保から過大な利益を得た、B国庫に支払うべき金をピンハネした、Cタバコに水や他の混ぜ物を加えて市民の健康に害を与えた、などの点について告発された。Cの訴因はでっちあげだった。というのは、告発者自身、タバコの製造工程の途中で葉にいくらか水を加えなければならないことを知っていたからだ。告発者は水が必要な量を超えていた、または有害な成分が加えられたという証拠を一つもあげることができなかった。

ラボアジエと、収税人の大部分は死刑を宣告された。

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テニスコートの誓い(1)
Serment du Jeu de Paume

1789年、三部会で第三身分の勢力が強くなっていくのを懸念した国王が、「室内改造のため」という理由で議場を閉鎖した。締め出された第三身分の代表者達は室内のテニスコートに集まり議会を開いた。そこで、新しい憲法を作るまで国民議会は解散しないことを満場一致で誓った。これをテニスコートの誓いという。

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テュイルリー宮殿
Tuileries (H11.8.15.UP)

ルイ16世夫妻がヴェルサイユ行進後住居とした宮殿

パリの旧宮殿で、1871年のパリ・コミューンの市街戦で焼失、庭園のみ残存している。ルーブル宮に隣接し、西端はコンコルド広場に達する。

15世紀、庭園のあたり一帯はパリの公共ごみ捨て場だった。1563年に、カトリーヌ・ド・メディシスが王宮の建造を開始したが、完成には100年の歳月がかかり、ルイ14世(在位1643-1715)の時代に完成を見た。当時の財務総監コルベールに命じられて、ル・リートルに庭園中央に展望のきく散歩道を作り、大きな泉水を掘り、有名な彫刻家の手による群像を各地に配した。

1683年、宮廷はヴェルサイユに移されたが、およそ100年後の1789年10月6日、パリの女達による「ヴェルサイユ行進」の後、ルイ16世夫妻はヴェルサイユを離れ、テュイルリー宮殿に戻った。

1792年8月10日の革命で廃位された後、夫妻はタンプル塔に戻り、テュイルリーは国民の手に渡る。

19世紀にはナポレオンが宮殿として復活させ、ルイ・フィリップもナポレオン三世も増営したが、1871年、パリ・コミューンの市街戦で焼失された。

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デュムーリエの裏切り(1)
The Defection of Dumouriez (H11.4.7.UP)

フランス革命において、人の名前が堂々とある出来事を表すことは滅多にないが、このさほどメジャーでない人が行った裏切り行為は、数少ない例外である。

事の始まりは1793年の2月、オランダに対する攻撃の失敗である。フランス軍の明白な劣勢条件にもかかわらず、デュムーリエが主張した攻撃計画が採用された。2月16日、彼は二万の兵を率いてオランダに入った。しかし、3月1日にオーストリアの総司令官コーブルクの軍隊がベルギー軍(デュムーリエによって既に共和国に占領されていた)に襲いかかった。敗北は恐ろしいものだった。パリではこれらの敗北のショックで、愛国熱が高まり、3月9日には革命の敵を裁くため革命裁判所が設立されたほどだった。

やがてベルギーが失われた。デュムーリエは退去したが、続いて3月18日、ネールヴィンデンで敗北した。そこでデュムーリエはオーストリアのコーブルクと取引をして、武力で国民公会を解散し、王制を再建しようと考えた。彼は勝手にベルギーの明け渡しを約束し、即刻実行された。彼は、自分を罷免するために派遣された公会の委員を逮捕するとオーストリア軍に引渡し、軍隊を引き連れてパリに向かおうとしたが、4月4日、部下の兵隊達の銃撃を浴びながら大急ぎで敵の戦列中に逃げ込んだ

こ一連の出来事を「デュムーリエの裏切り」と言う。

ベルギー喪失の結果、ブラウンシュヴァイク公によってライン左岸も喪失され、戦火はフランス国内に移っていくことを余儀なくされた。そして、戦争での敗北は国内での政治闘争を激化させ、ジロンド派はベルギーに派遣されたダントンをデュムーリエと共犯の廉で告発した。ダントンは反対にこの告発をうまく利用して、持ち前の弁舌で非難をジロンド派に逆転させ、ひいては、ジロンド派の没落を早める結果となった。

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テルミドールの反動
Metre et Gramme (H13.8.19.UP)

ロベスピエール派が没落した事件

ロベスピエール撃たれる
テルミドールの反動
1793年から1794年にかけて、ロベスピエールを領袖とするいわゆるロベスピエール派は、高い理想を掲げ、恐怖と徳を二本柱に内外の反革命勢力から革命を防衛した。1794年春にはダントン派、エベール派、過激派など国民公会での「敵」切り捨て、各地での戦争に勝利し、フランスを事実上支配していた。

しかし、内外の危機が緩和されると、国民公会の多数派は恐怖政治の継続を望まず、1794年7月27日、タリアンバラスを中心に、国民公会でロベスピエール派を弾劾し、その夜パリ市庁で一派を逮捕して翌日処刑した。この後、革命は退潮に向かうこととなった。

この事件を起こして権力を握った一派をテルミドール派と言う。

これら一連の事件は「テルミドール九日事件」とも言われる。

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度量衡
Metre et Gramme (H11.9.11.UP)

メートル法やグラムの単位
度量衡のポスター
度量衡のポスター

空間を合理的かつ自然に則して組織化しようとした革命政府によって新しく採用された。(画像を クリックすると画像が大きくなります。注意:重いです!!60KBくらい)

1790年5月に立憲議会は科学アカデミーの会員で構成されている度量衡委員会を設け、その実施を緊急課題とした。

1791年3月、委員会は、自然に則するためには、子午線の測定が新システムの基礎とならなければならないとし、翌1792年、ダンケルクとバルセロナの二点間で地球の子午線を測定した。そして、「北極と赤道を結ぶ子午線の弧の一千万分の一に相当する長さの単位」を1メートルと定めた。

その間、ラヴォアジェとアユイが真空中で量られた一定量の摂氏零度の蒸留水の重量を測定。

1792年7月11日、委員会は、全てが十進法に還元されるメートルとグラムという度量衡の用語を決定した。

1793年8月1日に国民公会は、「地球の子午線の測定と十進分割を基礎とする度量衡の新しいシステムが統一的に全共和国において使用される」という法令を出した。

もちろん、一般市民はこんな定義など理解できないので、メートル法もグラムもなかなか受け入れようとはしなかった。しかし、この新しい度量衡によって商業が便利になった。

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