ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。
1792年4月20日、パリではオーストリアに向けて宣戦布告された。東フランスのストラスブールではその四日後の4月24日、市長ディートリッシュは軍将校を招いていた。彼はライン方面軍には独自の行進曲がないのを残念に思っており、かたわらにいた工兵部隊の大尉、ルジェ・ド・リールに兵士の心を奮い立たせるような行進曲を作ってくれ、と依頼した。ルジェは突然の依頼にびっくりしたものの、さっそくとりかかった。まず歌詞ができた。政治パンフレット、ポスターなどの影響によるものだったが、彼の言葉としてよみがえっていた。(画像をクリックすると曲が流れます)/(ここをクリックすると原文歌詞が見られます)
ラ・マルセイエーズの楽譜 曲が流れます(mid) |
次に曲をつけてみる。曲は詩に合わせて自然と出てきた。彼は12時間かけて一気に作曲し翌4月25日には完成。それが「ライン方面軍の進軍の歌」であり、のちの「ラ・マルセイエーズ」である。
この曲にまだ自信の持てなかった彼は4月26日に依頼主である市長宅で、数人のお客を前に披露したところ、居合わせた人々は一様に感動した。市長は早速、楽譜の印刷を手配し、連盟兵と市民に配布した。
4月29日には、ストラスブールの広場で初めてオーケストラ演奏された。これがマルセイユに広まったのは南フランスの学生(のちに将軍となってエジプトで戦死するミルール)のおかげだった。
7月、マルセイユの義勇軍が勇壮な歌を歌いながら行進してくると、パリの人達はそれを「マルセイユ節」と呼んだ。その後もこの曲はフランスの共和国軍を勇気付けた。ある将軍は、「我々に1000人の援軍と1枚のマルセイエーズの楽譜を送れ。そうすれば私は勝利を約束する」と言い、また1795年のパリ祭でこの曲は初めて国歌として採用された。
しかしながら、作曲者のルジェ・ド・リールは不遇な晩年を迎え、依頼主のディートリッシュ市長に至っては、恐怖政治下で断頭台と露と消えている。
立憲王政(1)憲法に基づき憲法の制約の下に行われる君主政治。制限君主制とも言われ、絶対君主制に対立する。
絶対君主制が打倒された後も新たな国家の政治的不安定さゆえに、君主制に復帰する傾向が見られた。ただその場合でもかつての絶対君主制に復帰するのではなく、君主の権力は憲法によって制限されるのが普通。ラファイエットらが中心となった。
立憲議会(1)1789年から始まり、1791年7月に解散するまで、憲法制定について審議した議会。
立法議会1791年の憲法に基づいて、憲法制定国民議会(立憲議会)が解散した翌日成立した。任期は2年で、議員は国民の選挙により選ばれる745人から成る一院制の議会。
常設で不可侵のこの議会は法律の立案権、閣僚の行政を監視する権利を持ち、外交委員会によって対外政策を監督し、財政に関する至上権も持つ。また、議会は国王の召集によるものではなく、自ら五月の第一月曜日に集まり、会議の場所と会期を決定する。国王から独立し、国王は議会を解散させることができない。
初め、フイヤン派が多かったが、のちジロンド派が優勢となり、山岳派も進出してきた。
この議会の行ったことは、
しかしながら、1792年8月10日以降は、事実上機能を失った。
ルイ15世様式サロン文化の発達によって、大規模な宮殿よりも親しみやすい館、大広間よりも快適な個室が好まれ、優美で軽快な装飾が施された。すなわち、フランス=コロロ様式に相当する。ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人がこの様式リーダーとなった。
ルイ16世様式ロココ趣味に対する反動として、典麗ではあるがローマ時代の感覚を取り入れた、より率直な形態が尊ばれた。後代の新古典主義に向かう過渡的な様式。もちろん、この様式のリーダーはマリー・アントワネット。
ル・シャプリエ法1791年6月14日、ル・シャプリエの提案した法令で、正式には「同一身分同一職業の労働者及び職人の集合に関する法」と言う。特定の職業の者がその共同利益のため団結すると、経済の自由競争を妨げることになり、個人的利益も一般利益も害されるとし、労働契約は事業主の一存に委ねられた。違反者には罰金や禁固が科せられた。
自由主義経済の基礎をなす重要な法令だが、公的な制度としての同業組合の結成は禁止されたものの、私的な独占や談合は禁止されなかったと言う、大きな欠陥があった。そのため、穀物を出荷する農民や穀物商人達が売り惜しみをしたり、談合で価格を吊り上げたりし、これがパンの価格を高騰させ民衆を苦しめた。しかも、賃上げのための労働者の団結は厳しく禁止されていた。
1864年まで存続。
ロココ18世紀前半フランス宮廷文化の爛熟の中に生まれ育つ。バロックに続く造形芸術で広くヨーロッパ各国の宮廷に迎え入れられた。
ロココの語源は小石と言う意味を持つロカイユ(Rocaille)。ロカイユは17世紀頃からルネッサンス式庭園の装飾によく用いられる造り岩や貝殻細工を指すようになり、さらに18世紀の前半、造り岩や貝殻の不規則な形態、流動的な曲線をモチーフに生かした装飾や工芸に対してもこの呼び方が使われた。しかしながら、コロロという呼び名は古典主義者達が正統な古典式様式を逸脱したものとして、ゴシックやバロックの語と共にいわば侮蔑的に用い始めたものである。
ロココ美術の持つ明るく瀟洒で、趣きを凝らした快適で粋な美しさは、古典主義の超俗的な理想美とも異質の世界を形成しており、建築や室内装飾にとどまらず、絵画、彫刻、工芸も含めて共通の精神で貫かれた独自の総合的様式をなす。
陰影を好まず、人生の暗黒部を締め出そうとしたロココの理想は、老いや死を知らない永遠の青春の園であり、人生の楽しさは思想や悲しみに曇らされてはならないというものだった。