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 9.テルミドール九日  

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9.テルミドール九日
  1. 山岳派の内部闘争内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」エベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。
  2. ロベスピエール独裁「寛容派」と「過激派」を倒した後、内部に多くの矛盾を抱えながらロベスピエールの独裁が始まります。「最高存在の祭典」の中でその権力は最高点に達しました。
  3. 公安委員会分裂公安委員会もロベスピエールの独裁に対立しました。そんな中、ロベスピエールは自ら墓穴を掘るようなことをしてしまい、「運命の日」がやってきました。
  4. 運命の日テルミドール九日。ロベスピエール派の最後の説得も空しく、共和国樹立に命を賭けた真の政治家達が文字通り、自由のために非業の死を遂げました。
  5. 凍てついた革命ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。

i. 山岳派の内部闘争

一言で説明すると内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」エベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。

危機の始まり

公安委員会は、「恐怖政治」「国民総動員令」「経済統制」によって、内外の危機をひとまず切り抜けることができました。しかし、皮肉なことに危機の克服こそが、彼ら自身の危機の始まりだったのです。

人々の共通の危機感が薄らでいったとき、ダントンらが恐怖政治を軽減しようとしたのは、彼自身が安楽な生活を求めたからばかりとは言えません。戦勝は人々の緊張をやわらげ、恐怖政治の継続に疑問を持たせました。山岳派内部の分裂が始まりました。

しかし、恐怖政治は強化されていきました。


インド会社事件

1793年8月24日、一切の株式会社が禁止されました。それに伴い、植民地の貿易会社であるインド会社も解散することになり、その清算をめぐってファーブル・デグランティーヌ、シャボーなどの山岳派の幹部が50万リーブルを不正に受け取りました。それをインド会社事件と言います。彼らは「恐怖政治」を転覆させ、ブルジョワジーにもっと都合のいい社会を作ろうとしたのでした。その罪を問われて彼らは1月13日に逮捕されました。

また、この事件にはダントンも深く関わっていると言われています。


派 閥

内部分裂はロベスピエールサン・ジュストクートン「三頭政治」と、次の2派の闘いという形を取りました。

名 称「寛容派」「過激派」(あるいは「急進派」)
左 右右 派/腐敗左 派/暴力
政 策諸外国と妥協する。礼拝の自由を主張。実業界とのつながりを持つ。恐怖政治を終わらせたい。 キリスト教を排除する。もっと革命を進める。食糧暴動を起こす。
支持基盤ブルジョワジー民衆、サン・キュロット
中心人物ダントンエベール
主要人物カミーユ・デムーラン、ファーブル・デグランティーヌ、シャボーモモロ、ロンサン


エベール派の一掃

3月13日、国民公会でサン・ジュストが言いました。

「悪徳に対して戦え!」

それを合図にしてエベール派の指導者は「市民を腐敗させる計画」を持っているという理由で逮捕され、3月24日、処刑されました。


寛容派の没落

ロベスピエールは、革命を共に戦ったダントンを処刑することにずいぶん悩みましたが、とうとう、汚職まみれで革命に情熱を失った彼を断罪することを決意しました。

3月30日、ダントンは、やはりロベスピエールの友人でもあるカミーユ・デムーランその他と共に逮捕されました。

しかし、ダントンは屈強な人間でした。彼は法廷で熱弁をふるいました。彼の雄弁に圧倒された判事は無罪にしようかと思いましたが、結局、4月5日処刑されました。


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iii.公安委員会分裂へ
iv.運命の日へ
v.凍てついた革命へ

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