日 記

(2011年7月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 7月も最終日になりました。今日の、石巻での葬儀に出席のため、塩竃の孫宅に二女も合流して、私の家族全員のお泊り。興奮する孫とのすったもんだの賑やかさ。孫3人3様で、さすが疲れます。1時の地震、4時前の大地震(福島では震度5強)に目を覚まして、若干睡眠不足。
 8時半ごろ、全員(大人5人、チビ3人)で塩竃を出発、まずは女川へ。流された実家(兄宅)、跡形もありません。以前より瓦礫も整理されていましたが、こんなに狭い敷地だったかと意外。女川病院に上がり、改めて女川の状況を見る。瓦礫が整理されているが、再建の胎動は微弱。危険地域のため、建築制限がかかり、自主的な動きが作りにくい。具体的な今後の線引きが決まらないと、仮設以外は難しい。
 女川総合体育館の避難所に寄って、学生時代からの知り合いで女川で活躍している知人に逢いました。津波当日の避難状況、何度聞いても、心が痛みます。女川出身ではありませんが、40年もの女川での地道な努力に頭が下がります。
 照源寺の今野家の墓にお参りし、仮設店舗で買い物・昼食。一路、石巻の葬儀会場(白壽殿)へ。
 葬儀は、実姉の嫁ぎ先(石巻家)を主体に、6人の合同葬(4人は津波で犠牲)。実姉、義兄、姪、姪の子が、私の親族。葬儀は、淡々と進みましたが、インターネットでしか「面識」のなかった姪の知人・友人たち、また一緒に葬儀をした親戚の娘さん達、姪の残した娘の元校長先生と担任の先生。多くの方々が参列していただき、励ましていただきました。行方不明のままの者もいますが、一つのケジメでしょう。生きていく者が、踏み台にすべきセレモニーなのでしょう。
 中心になっている姪たちと別れて、塩竃の孫宅に寄り、福島へ。自動車道は、何箇所かの渋滞。午後8時、帰宅しました。ホッとしながら、やはり現実を確認しなければならない日でした。(7/31)<6218>


◇ 昨夜は、睡魔が強く早く就寝。しかし、12時前に地震。毎晩、こんな睡眠途絶。まだ余震なんでしょうね。
 昨日の朝のテレビにさだまさしが出ていました。3枚目の陰に、繊細な感覚を感じます。妻が、私が学長時代に女子職員からいただいたという、さだまさしのCDをもってきました。2枚綴りの『人生の贈り物〜他に望むものはない〜』。きっとコンサートに出て、感動して買ってきたのでしょう。私にも、どうぞといただいていました。車で、また聴いてみました。いいですね。
 誰からいただいたか気になって思い出そうとするのですが、出てきません。失礼なことだと思い、一生懸命思い出そうとしますが、物忘れには勝てません。素晴らしい歌を聴いて、思い出せないが、人の善意を感ずることにしましょう。ごめんなさい。大切に聴くことにしましょう。
 女川の復興計画案についてのメールを出し、女川高校にメールを出していますが、兵庫の方が、女川の図書館作りに協力したいとの嬉しいメール、そして鉛筆プロジェクトの600万円の教育委員会への義援金、そのうち半額は図書を購入するとのメールが寄付者から来ました。「女川に元気を送る会」のページを更新しました。
 孫たちは、昨夜、仮設住宅で縁日。盆踊りのように楽しかったとのこと。孫たちも、いい経験したね。今日・明日は、孫たちと合流します。楽しみです。福島(会津)・新潟の大雨・洪水が心配です。(7/30)<6191>


◇ 31日の親戚の告別式に出かけるので、その準備。各家ごとに行うので、一回では済まないが、実姉の婚家の合同葬。行方不明者も多いが5人の合同葬。遺族の心のケジメをつけて、生活再建に向かわなければならないだろう。
 午前中、ショートサービスに送り、暫く入所をしていただくことにした。偶然、元同僚の先生と逢う。ショートサービスに入所中。元気な人なので、いろいろ不自由になって気の毒だ。明るく話し合いが出来た。
 大学で、来週月曜日の定期試験の作業を完了させ、午後の県の委員会へ。会議は6時頃までかかったが、その後、近くの寿司屋で新委員の先生の歓迎会。屈託ない話し合いで、興味が尽きない。妻も会議の後の懇親会。大雨なので、待ち合わせて帰宅できたが、携帯は気がつかなかった。終了時間に1時間の差があったので、不可能ではあったが。
 草津町の図書館職員である中沢さん(女川に支援に来てくれた職員)、図書館づくりの詳しいアドバイスを送ってくれたので、ホームページに掲載しました。後は、実践のみかな?(7/28)<6167>


◇ 今日は一日在宅。最後の講義の質問票をタイプしていました。どうして問題になった事例を話すことが多いので、行政や公務員が悪いと感想を持ってしまうようです。公務員志望が多い聴講生には、戸惑いが見られます。
 何枚かへの回答に、多くの公務員が、財政厳しい中、尽力して国民の生活を守るために頑張っていること、しかし、財政配分の政策の中で、板挟みになっていることが多い旨を補足しました。何か私も、世の公務員批判に影響されたのでしょうか。彼らが、公務員志望かどうかに関わらず、全面的に伝える点で、講義を反省しました。公務員がいなければ社会が成り立たないということをもっと、納得してもらうこと、身分安定だけで公務員志望する安易な傾向を払拭する必要があるのでしょう。
 空は、雷でゴロゴロ。女川へ図書館を作る夢に対して、ツイッターを通じて、次々にアイデアが寄せられました。夢でなく、具体的な行動が必要のようです。今日は、家族の送迎以外は、ダラダラと疲れをとっていました。(7/27)<6153>


◇ 前期・最後の授業の日。専門演習です。就職活動や親戚の不幸、体調不良などで参加者は、少ない。報告者+αである。
 朝のテレビニュースは、地元の詩人の和合さんの詩を、吉永小百合が朗読する集会のニュース。感動的で涙が滲む。生協で、和合さんの詩集2冊を購入し、その感動をツイッターで呟いていたら、女川・尾浦出身の方との対話。私が掲載した尾浦の皆さんとの写真の中に、父親がおられるとのこと。びっくりすると同時に、いろいろの繋がりを感じています。
 石巻に入った建築家集団の活動の報道も、感動。地域の調査を踏まえ、地域住民の意向を反映して、復興計画を作り上げている姿。牡鹿半島の小さな浜ですが、これが本来のあり方なのだろう。どこまで修正できるか問題ですが、時間的猶予をつくり、町民の目線に徹底して立つことの必要性を痛感しています。
 ロンドンに語学留学で出かけたゼミ生から、無事到着、元気に勉強・生活が始まった旨のメールが来ました。折角の機会、頑張って欲しいと思います。石巻在住の親友・平塚君が、三陸河北新報社『大津波襲来 石巻地方の記録』を送ってくれました。河北新報の写真集は買ったのですが、石巻・東松島・女川だけの特集。今更ながら、大惨事を改めて確認しています。ありがとう。
 夕方、法学専攻の歓迎会。いくつかのチャンネルがありますが、被歓迎者は同じでも、集う人間の集団の性格によって雰囲気は異なります。屈託ない懇談で、心が温まります。(7/26)<6125>


◇ 月曜日、朝一の講義。最終日です。
 かなり駆け足の講義になり、レジメも教科書の項目だけでした。恒例の最終回の授業アンケート調査(匿名)では、案の定、後半のレジメは項目だけで意味がないとの指摘がありました。気がついていたのですが、途中で止める訳にもいかなかったので、教科書を購入していない者も多いので、どの辺を話しているのか鳥瞰してもらえるかなとも思ったのですが、安易でした。感想文をプリントアウトして配布したのは、評価が良かったようです。1000人分近い感想文になったようです。異常な時期だったので、不十分さは勘弁していただくしかないなと思っています。とにかく終わりました。魔の月曜日も最後。来週は筆記試験です。頑張ってください。
 朝、4時前の激震で起こされました。宮城南部は震度5弱。余震に慣れてはいたのですが、さすがに飛び起きました。久し振り(?)。そのお陰で、講義の終わった午後は、昼行灯。今晩は早く休むことにしましょう。
 卒業生の紹介で、女川出身で活躍している若い実業家たちとFacebookのお友だちになりました。各地、企業などで活躍している女川出身が多く、愛郷の念の強さが伝わってきます。きっと、再興の力になるでしょう。頼もしい。
 ツイッターで、こんな呟きをしました。「今になって3月11日以降の避難状況(女川)を聞いて、心を痛めています。『3日間水だけで生き延びました』等、想像を絶する体験です。宮城県が女川の状況を把握したのはいつの時点か?、救援が届いたのいつの時点か、連絡方法を失った市町村・集落への情報把握の時点と対応を知りたいと思いました。」。3月11日の夜に焦点を当てていましたが、翌日も、翌々日も、食料にありつけない人がいたのです。空白が埋められていません。女川からの連絡は途絶。そのとき県はどういう対応したのか。連絡が無いから被災していないと考えていたのか。連絡が無い町・集落ほど、甚大な被害が起きているはず。何か、「見捨てられた」ような気分になってしまいます。行政のあり方として、何か曖昧にできないような気がしています。犠牲になった者の悔しさも、また生き延びた者への救援の遅れに対する悔しさも。彼らはほぼ72時間、何を考えていただろうか。そんな思いを「震災手記」で集めようと呼びかけていますが、なかなか反応はありません。時間がかかるかもしれませんが、じっと、待つことにしたいと思います。(7/25)<6107>


◇ 日曜日、また暑くなりました。
 今日は、長女の配偶者が、伊達市の除染ボランティアのために、塩竃から一家を引き連れてきました。震災後2週間目に生まれた第三子(長男)は、初めての福島です。3人とも暫くぶりの福島。放射線が強いので、お出でとはいえませんでした。震災直後の放射線の強さと比較すると20分の1ほどになっていると思いますが、今でも避難のために福島を離れる家族も多いので、予断は許しません。郡山在住のゼミ卒業生から、子どもたちは奈良に避難させているとのメール。身近な家族が避難しているとの情報は、現在の異常さを再確認させます。
 孫たちは、父親が除染活動で不在の間、いつものように庭には出ませんでしたが、家中、駆け回っていました。途中、新生児が寝ている間、農協の売店に出かけ果物・野菜を購入し、パン屋に寄って帰ってきました。段々、大きくなっていると感じます。やはり集団生活で鍛えられているのでしょうか。可愛さも増したようです。午後4時頃、一家は帰りました。
 忘れていた訳ではありませんが、夕方に、研究室に出かけ明日の講義の準備。最後の講義だから、気持ちとしては張り切っていたのですが、後回しになってしまいました。一人だけの日曜日夜の研究棟。少し不気味です。夜10時頃帰宅。ウィークデイなら仲間が多いのですが、さすが日曜日、閑散としています。大変だった前期の講義も今週で終わり、補講期間・定期試験の期間に入ります。暑さもぶり返しそうです。(7/24)<6089>


◇ 土曜日、病院の定期診察。病院で同僚に逢う。放射能問題で、かなり参っているようです。みんな、精神的ストレスがたまっているようで、心配。神経質にならない環境はなく、物理的な除染活動だけでなく、市民一般に対する精神的ケアをどうするか、早急に検討する必要があると思います。私の方は、少し値は後退したが(6.1)、健康に留意して夏を過ごすことにしましょう。今日も肌寒かった。
 昼から仙台の研究会。先輩友人から、45年ほど前の大学院時代の写真をいただく。髪の毛以外は全く変わらず、懐かしく当時の雰囲気が思い出される。研究会では、安全配慮義務違反の責任を会社のみならず、取締役にまで認めた注目の判例と、障害者雇用及び原発事故に関わる問題の報告・レクチャー。6時過ぎまで、途中、大きな揺れを感じながら、熱心な討論。帰宅は午後8時。
 女川町に図書館をという夢をつぶやいたら、いろいろ反応があり、備忘録的に、「女川町に図書館を!(夢)」のページを立ち上げた。そう簡単なことではないが、支援を期待できるうちに夢を実現したいものである。(7/23)<6074>


7/23

◇ 3日ぶりに福島に帰って来ました。女川町での復興計画策定委員会の公聴会。台風の影響か、風が肌寒く、半袖Yシャツで、少し寒さに震えていました。しかし、充実した3日間でした。

 20日の朝、鈴木さんを自家用車に乗せて、福島を出発。途中、石巻で早めの昼食。女川役場へ。風雨が強くなってきましたが、まずは、高白浜の海泉閣での公聴会。五部浦(塚浜・横浦・大石原浜、野々浜、飯子浜)、小屋取、高白浜の集落から多数の参加。高台への住宅地の集団移転ですが、3箇所に集約する案。各浜に住宅地をという意見が多く、計画案については批判が多かった。若い方から、高台住宅地が出来ても、ここに住むかどうか分らないという本音。現実生活への厳しさと被災が絡んで、いろいろと難しい。集落維持の希望が強い。

 夜の第二小学校を会場にした公聴会。雨のせいで出足は悪かったが、熱心な質疑が繰り返される。若い人が働く場所を出来るだけ早く確保することの必要性も強調された。もっと、若い人々の意見が反映するようにすべきとの意見もある。

 2日目の21日。時間があったので、我が本家、沢田の本家を訪問。従兄弟夫婦と話しあう。予定していた避難所のお母さん達と懇談。独自に賄いもしている避難所で、息子さんを失った方もおり、悲しみながら、避難所での様々な工夫を聞く。一日も早い仮設への移住の要望が強い。ピーク時の3分の1ほどの避難者になったが、一日も早い復旧が望まれます。終了後、仮設の店舗に寄って、昼食の弁当を買う。買い物客はまだまだだが、何か、一歩が始まったとの感。

 教育長さんと、復興計画での教育文化スポーツの項目の設定、及び図書館(絵本館)の問題について懇談。殆んどの町民の支持を得られるもの。学校図書室、大人の図書館、絵本(ちゃっこい絵本館)をあわせて、総合的な町民図書館の構想。夢をもてます。大きな支援を送りたい。2日目の公聴会は、女川高校と女川復興連絡協議会中心の公聴会。嵩上げ、高台移転の問題、原発の問題、仮設住宅の問題など切実な要望が出されました。また、水産を基盤にどのように生業を成り立たせるか、具体的な問題提起が多かった。いよいよ現実的スタートが求められてきている。

 合い間、旭丘団地に出来た、焼き鳥屋さんに立ち寄りました。なんと同級生の岡くんの親戚の店。岡くんを含め、焼き鳥をおごられて楽しい懇談。厳しい環境だが、無事逢えて嬉しい。すぐに半世紀を遡る。

 最後の今日22日の公聴会は、北浦地区・尾浦の避難所での公聴会。漁業を行う浜毎に高台をという意見が強いが、集落によっては、独自に復興委員会をつくり自ら将来を考え始めている集落もありました。こうした動きが広がることに期待しています。

 女川で講演の際に被災した石巻の弁護士・吉田さん、保福寺の住職・八巻さんもとお逢いすることもでき、本当に密度の濃い3日間でした。立派な住宅地が出来たが、人は誰もいなくなるということはないよう、生業、街づくりを固めながら、みんなで進んで欲しいと思いました。明日からも頑張りましょう。(7/22)<6047>


◇ 出勤途上、(スピード)散髪と銀行に寄って、遅めの出勤。少し間を置いたせいか、満杯の駐車場にポッカリ空きスペース。これが一周遅れのトップランナーか(?)
 午後の演習ですが、開始してすぐ、印刷室辺りに財布の入ったバックをおいてきたことに気がつき、報告をストップしてもらって、探しに。ありました。印刷の途中に、介護認定は行政処分、などと問われてしまって、気が散ってしまいました。学生は、高齢化社会では我慢すべきものと思ってか、平常心。若い人に高齢者の行動を慣れさせる必要もあるかもしれません。一度に複数のことをしない、これが高齢者の行動のあり方かな?
 明日から女川町の復興計画案の公聴会に参加します。だんだん、町民の生の声が聞こえてくるような気がします。愛する女川町を、やむなく離れた町民が、一日も早く戻って生活出来る日が来ることを、強く願っています。(7/19)<5992>


◇ 三連休も、今日が最終日。土日と自宅にいたので、体が鈍ってしまうので大学研究室へ。暑い暑い日です。
 研究室で、女川町の復興計画についての私なりの意見(感想)を書いて、送信しました。あまり、抜本的なものではありませんが、もっと「教育・文化・スポーツ」を重視してもいいのではないかとということです。津波の復旧だと、どうしてもハードのものが前面に出ますが、肝腎なのはソフトの面ではないのかと思った次第です。復興の担い手は、子どもたちですから。
 朝、4時過ぎに起きて、女子サッカーの決勝戦を見ました。辛抱に辛抱を重ねて、勝利を手にしました。「なでしこ」という言葉には、少し違和感はありますが、とにかく優勝ですから、大したもんです。今日の眠いのは、暑いだけでなく、睡眠不足。早めに休むことにします。(7/18)<5969>


◇ 三連休の中日です。明日は月曜日ですが、休日で講義がないので大学には参りません。久し振りのダラダラ日曜日。居眠りしているうちに昼になってしまったということで、大学に行かなかったのは後悔。エアコンを使わず、かつ扇風機が壊れていたので、わが家の気温は高い。福島市も36度を超えたようだから、無理も無い。(4時過ぎからエアコンをつけたが)
 娘一家5人は、なんと、塩竃から気仙沼・大島まで支援で行ったようだ。先ほど、帰宅したようだが、孫たちは爆睡とのこと。可哀相だが、子どもにとっては家族ドライブかな。なかなか国見峠を超えて来るには、ハードルが高いのかも。仕方が無い。子どもの多くは、県外に避難しているから。まあ、連休を利用して支援に行くとはたいしたもんだ。4ヶ月の子どもも連れて。
 テレビは、朝から明日早朝の女子サッカー決勝の話題。午前3時頃からの中継らしいが、この前と同様、早めに起きて後半戦を見ることにしよう。この前のゲンを担ぐのではないが。せめて同点で後半戦を見れればいいが。(7/17)<5954>


◇ 三連休の初日です。猛暑は続いています。昼前後、福島西口の施設までの送迎のために車を出したら、車が示す外気温は、なんと42度。気象庁の発表は、35度前後でしょうが、我が家の玄関前(車庫内)は、42度なんでしょう。本当に暑いです。自宅のエアコンを28度くらいで入れると、もう外に出れません。

 夕方、「星野共二先生の退職を祝う会」に参加。3月から4月にかけての企画だったようですが、震災で延期になりました。大学・研究室等の主催ではなく、「祝う会」の主要な構成団体は、NPO法人「ふくしまNPOネットワークセンター」。星野先生とは、経済学部長時代(私は行政社会学部長)に同席し、私の学長時代に研究担当副学長を担っていただきました。理工系学部の出身ですが、文化人で、外国からも招待を受けています。また、学外でのNPO活動の中心と大きな活躍中。極めて、静かな中にも信念を貫いて、多くの人からの信頼も厚い。

 会場に入る前に、一言お願いするとは言われましたが、来賓祝辞なので慌てました。前学長の肩書きですが、準備もなかったので、失礼なことにならなかったかなと反省。ともかく、学長時代にお世話になった感謝を述べました。

 福島から出荷している肉牛から、セシウムが検出されているという。餌の藁が汚染していたようだが、また、福島に暗雲。福島で頑張っている方々が失望しないように、なんとか支援したいが、いい考えが出てこない。県内外をの人を結集して、福島県民とともに歩む方法を模索したいものである。なんとか、元気になって福島県民。(7/16)<5943>


◇ 猛暑は、なかなか収まる気配はありません。研究室は8階。窓を開けると風が入るので、南北開けっ放しで扇風機を回しています。
 社会保障法の月曜日の講義は、来週休日で休み。残すところ後1回のみ。試験直前でもあるし、どうするか?いつもの作業をしていますが、日曜出勤の講義準備は終わりそうです。いつも、日曜日はボヤキの日記で、不評。多分、今後は、新たな日曜日の日記となるでしょう。

 それにしても、復興の展望がなかなか見えません。女川町の復興計画策定委員会に関わって、宮城県の方針の理解が必要です。福島県は、脱原発問題を中心に復興ビジョンが提示されています。岩手県は、余りかかわりは無いのですが、外から見る限り、堅実な復興の展望をしているようです。被災三県の置かれた状況の違い、県政の違い、県民・地元大学の違いなど、整理が必要です。

 いろいろ勉強せざるを得ないのですが、インターネットで国・県・市町村の資料が取れるので、ありがたい。国に関しては、東日本大震災復興構想会議の「復興への提言〜悲惨のなかの希望〜」(平成23年年6月25日)、岩手県「東日本大震災津波復興計画 復興基本計画(案)〜いのちを守り 海と大地とともに生きる ふるさと岩手・三陸の創造に向けて〜」(平成23年6月)、宮城県「震災復興計画 〜宮城・東北・日本の絆・再生からさらなる発展へ〜(第2次案)」(平成23年7月)、福島県「復興ビジョン(素案)」(平成23年7月)というところか。

 その他、水産庁「水産復興マスタープラン」(平成23年6月)、連合総研の「国民視点からの生活復興への提言」や日弁連の緊急提言など、また、「世界」8月号はじめ諸雑誌の特集号など、山のように資料を集積。これらを基礎に、女川や福島で住民主体の復旧復興計画が出来るか、いま住んでいる人の生活を成り立たせ、避難者も戻ってこれる計画、そして長期的な展望、震災対応とはいえ、総力的な街づくりをしていかない限り、展望を開くのは難しそう。非力を悩む。(7/15)<5928>


◇ 今日は午後から、県の委員会の会議。任期満了の委員がいるので、長年の労に感謝して送別会。12年間の長さなので、歴代の委員、及び事務局関係の付き合いの長い職員も多い。本当に、お疲れ様でした。
 コープふくしまが、放射線除染のボランティアの登録を呼びかけています。具体的な計画は、メーリングリストで配信されますが、土日に用事が入っていることが多いので、行けるかどうか難しいのですが、まずは登録をしておこうと登録しました。足でまといになりそうですが、短時間でも出来ないかなと思っています。知っている仲間がいるといいのですが・・・。(7/14)<5908>


◇ 猛暑が続きます。昼前、地震の避難訓練。その後、1000人の笑顔の撮影があるというので、見てみようと思って広場に行ったら、もう既に終わっていました。直前、避難場所が別のところを指定されたので、遅れてしまいました。何か、ポスターになるでしょう。
 午後、猛暑に耐えかねて、映画館へ。藤沢周平原作の『小川の辺(ほとり)』。東山紀之主演。涼しいし、別世界に入り込めて、精神的にすっきり。「人生にまっすぐ対峙する姿」が売り物。嘆かず、捨て鉢にならず、自信喪失せず、怒らず、一歩一歩歩くことにしましょう。(7/13)<5890>

 


◇ 猛暑、地震、雷・大雨、自然の強烈な影響を受けながらの一日です。
 午後の、専門ゼミ。それぞれ卒研テーマに関わる論文・判例の紹介をしてもらいました。卒研提出には早すぎるし、なかなか迫力が出ません。卒研テーマに閉じ込めるのはいいのか、もっと広範囲な知識をも入れるべきときかなと、少し反省しています。3年次生がおらず、4年次生だけの変則的なゼミで、異学年集団のゼミの良さが発揮できません。夏休み前の予定しているものは、済ませながら、後期の方法は少し検討することにしましょう。
 早めの帰り、山手の駐車場には人はいません。昼ですが、福島市内で熊が発見されていることを思い出して、口笛を吹きながら(熊除けをしながら)、奥に留めた車まで。あまりそんなことを考えなかったのですが、なぜか胸騒ぎがして。
 デイサービスからの帰りのお迎えをしてから、再度、3年次生のみの長谷川ゼミ(新任教員)と我が4年生のみのゼミ合同コンパに出かけました。強烈な雷で、今にも大雨が降りそうな空模様。南福島駅周辺の居酒屋です。初めての店。多くの学生が南福島周辺に住んでいるので、彼らにとっては、土地勘のある場所。お客さんも、学生というよりも若い人が多く、新たな発見です。
 就職の内定を受けた者、公務員試験が終了し、合格発表を待つ者、全てのゼミ生の進路が開けることを祈っています。
 女川での「特別町民制度」を考えていて、以前、導入していた福島県三島町に問い合わせたところ、丁寧な返事をいただきました。「特別町民制度は当町の『ふるさと運動』の一環として昭和49年から行ってきました。その趣旨は『地域づくりは自分たちの手で』という信念のもと、地域の大切なものは何かを追及する中で、ありのままの山村を守り、故郷を持たない都市と人々に三島町を故郷と思っていただき、ともにふるさとを作っていこうというものです。当初のメイン事業は全国に先駆けた『ふるさとの家』、今でいう農家民泊です。昭和48年、日本初の試みが日経新聞に掲載され、役場の黒電話が1日中鳴り響いたそうです。昭和50年のピーク時には800世帯を超える会員、普通の民家に親戚のように泊まるふるさとの家の利用者は延べ6千人近くありました。しかし、今のように農家民泊の制度が整備されていませんので、旅館業法などの規制もあり、課題がある中での事業であったと思います。現在では、農家民泊の受け入れは行われていません。それでも、129世帯の会員さんが三島町を応援する意味を込めて会費を払ってくださっています。会員規約は添付の通りです。何か参考になりましたら幸いです。支援ボランティアをこの要領で募集することも考えられると思います。」と。
 過去のことかなと思っていたら、今でも継続しているということ、大いに励まされます。山村と漁村の違いはありますが、大いに参考になります。<家は流されたが、女川は流されていない>という小学生の言葉に勇気を得て、進むことにしましょう。(7/12)<5876>


◇ 今日は7月11日。あの大震災から4ヶ月目。各地で祈りの集いがあり、テレビも報道しています。
 東北も例年より早く、梅雨が空け、連日の猛暑です。睡眠不足と疲れか、睡魔に襲われます。
 昨日の日曜日は、例によって、月曜日の講義準備のための研究室出勤。今年は、授業開始時期がずれてしまったので、なかなか追いつきません。今日・月曜日の朝イチ・2コマ連続社会保障法の講義、労災保険と雇用保険という労働保険の話をしました。震災で、雇用保険の失業手当が焦眉の課題になっていることもあり、現代的課題ではあり、学生にも生きたい材料として理解してほしいと思っていました。なかなか、思いと説得的講義は別物ですが、頭の片隅にでも残って欲しいと思います。
 午後、先週木曜日からショートステイに滞在していた義母を迎えに行ってきました。エアコン完備なので、自宅に居るよりは環境が良かったかも。久し振り(?)の家族全員集合です。夕涼みなのか、外は子どもたちの声が聞こえます。隣の田圃は、今年宅地化され、いままで蛙の大合唱でしたが、今年は子どもを含め家族の声が聞こえます。放射線もどこか忘れたような雰囲気ですが、なんとか原発事故も収束し、除染が飛躍的に進むことを祈っています。(7/11)<5853>


◇ 昨夜は寝苦しかったので、今日の長距離運転が心配。第4回の女川町の復興計画策定委員会です。
 片道150キロですので、3時間をみましたが、2時間余で到着。途中、石巻・稲井で、女川の避難された方々の仮設住宅の外観を見学。女川に立地するところが不足し、隣町に建設。女川から遠いという意見はあるらしいのですが、改善を要望しつつ、次のステップへ繋げてほしい。
 午前中は、委員会の会長・副会長とともに、女川町議会の全員と懇談。16名の定数ですが、4名の議員さんが津波で犠牲になり、12名全員の参加。たたき台としての復興計画案に対する、具体的な質疑と意見が出されました。地区の懇談会などを経てきているので、具体的です。イニシアチブと住民の要望を踏まえることの必要性と困難さを示しています。議員さんは年配の方も多く、私の父親等との付き合いのあった方々もおり、また友人Yさんのお兄様ともお逢いし、そのつながりを感じました。
 昼休み、教育長さんに会い、ボランティアなどの受け入れ施設の課題、小中生の夜間・合同塾のヒアリングと成人教育の提案。女川町外の協力者を「特別町民」に出来ないか、等など個別懇談を行いました。長女から頼まれた、「ちっちゃな絵本館」への絵本寄贈の話なども、前向きな方向について話されていました。
 午後からの委員会、前回より詳しい具体的な提案の審議をおこないました。具体的になればなるほど、難しい問題が出てきますが、何とか大きな合意と細かな話し合いの積み重ねで進められたらと思います。
 帰りの車は、鈴木さんを乗せて快調に走ってきました。帰宅は9時です。休んで、明日は大学研究室へ。(7/9)<5821>


◇ 蒸し暑い一日です。33度の気温ですが。
 午後、コープふくしまの理事会。非常勤理事ですが、ここ1ヵ月の取組み等の報告を聞き、審議・協議をおこないます。震災のダメージはありますが、各部門、挽回に必死で、経理上も善戦しています。放射線の除染問題でも、ボランティアの窓口など、独自の役割を果たしています。
 自治体住民が離散する中、生協が復帰を可能にする自治体支援のなかで、独自の役割を果たすべきと思います。消費が中心ですが、生活全体の防衛での大きな役割を感じています。災害時ほど、その復興には、協同組合の役割が重要でしょう。また、農協・漁協・森林組合などと生活協同組合とのネットワークも不可欠です。
 明日は、女川の第4回の委員会。その前に議員さんとの懇談会。公聴会も経て、かなりに詰まっては来ましたが、町民がそれに託して、一緒に歩めるかどうかが決定的。女川の町民のための復興計画でなければと思いつつ。(7/8)<5807>


◇ 七夕の日です。NHK午後9時のニュースでは、震災以来、結婚ブーム(?)になっているといいます。一人でいることの恐怖のなかで、だれか信頼できる人と一緒にいたいという願望が強くなったということです。原発事故ひとつとっても、従来の生活スタイルへの反省を求められていますが、「仕事」のためには「家族」は邪魔という、猛烈社員的な志向への反省でしょうか。特に、女性は、仕事か家庭かを迫られてきた世の中、二者択一が迫られてきました。本来は、家庭と職場が両立できることが重要なのでしょう。結婚願望の強まりは、仕事を諦めて家庭に入るのではなく、両立できるような職場環境に向かうべきでしょう。女性の職場という視点だけでなく、男女とも家庭が重視されている職場環境の確立が必要なのでしょう。
 午前中は、義母の眼科診察に付き合い、今日からのショートスティへの送りで終わりました。小論の締め切りが、準備の無いまま、到達してしまいました。また、お詫びをしなければなりませんが、目の前のことで精一杯、疲れてしまいました。授業が終わる今月末までは、こんな調子かなと、すこし弱気になっています。
 明日は、コープの理事会、明後日は女川、また日曜日は講義準備になるのでしょうか。(7/7)<5789>


◇ 暑い日が続きます。午前の研究室に、私が関わっている福島県の委員会の事務担当者が見えられました。次回の委員会にむけての準備の一環です。話は打ち合わせの話を超えて、人事行政一般の話、評価の話、仕事のプライドの話、いろいろと懇談ができました。何処の組織でも、その主体である担い手が、遣り甲斐のある仕事、能力を展開できることが、必要と思います。
 午後、今期から導入される成績のWebでの入力方法の説明を聞いてきました。紙媒体をなくし、業務の合理化のためですが、何か、答案用紙に、悩みながらつけ、紙媒体で出していた成績、そのうち手書きのマークシート、そしてWeb上での入力。段々便利になりますが、その手法の合理化に、悩みながらの点数付けの実践が、何か乖離して来ているような気がしますが、年のせいか、古いやり方に固執して、それを変える柔軟性がなくなってきたのかなとも思います。大学最後の年度、淡々と新しい技術に対応することにしましょう。
 テレビBS1は、楽天⇔オリックス。昨夜の9回裏の逆転サヨナラ負けにつづくかなと弱気でしたが、9回表に逆転で5対3の勝利。強いのか弱いのか分らない楽天ですが、一進一退らしく、連敗も連勝も無い、交流戦以降5割らしい。まあ、なんとか頑張っているような気もします。世の中、そんなに甘くはないから。(7/6)<5775>


◇ 午後の専門演習。外は晴れていますが、学生から郡山周辺の大雨で、福島駅まで電車が来なくて、遅れますとの連絡。結局1時間ばかり遅れて到着しましたが、演習は、予定通り開始。安全第一ですが、鉄道の不通が普通になってきたような気もします。
 鳴り物入りで登場した復興相。岩手・宮城県知事を前にした発言で辞任。辞任して、何か変わるものではないが、会社の社長が部下を叱責するような言い草。何かしてあげるとか、あげないとか、聞いていて不快になりました。地方自治も、ここまで軽んじられているのでしょうか。ああいう言い方をする官僚もいますが、地位に胡座をかいているだけ。がっかりしました。
 今日のNHKクローズドアップ現代は、女川のさいがいFM。若者たちの生活情報を伝える活動から、女川復興への力になろうとする中での若者の成長の姿を追っている。ボコボコと出ている女川復興の芽。このネットワークで、本物にしたい。時間との争い。
 お世話になった静岡の佐藤先生に、ようやく昨夜メール。心のこもった返信メールをいただいた。原発事故に触れて、「かのプロメテウスが太陽の火を盗み、これを人間に与えたのがそもそもの間違いであったのかと思います。科学技術の発達と経済的な繁栄に最大の価値を置いて突き進んできた人類が、自然界にはない人工の火をつくり、それが結局、人類だけでなく地球上の生物の生存を脅かしているのが今の現実だということかと思います。先日、そんな思いから、火をぬすむ ものの末なるわれらいま さらなる末に何を伝えんなどという拙い一首を詠んでしまいました。」
 娘は、福岡の学会に行っていますが、福岡は雨模様です。(7/5)<5755>


◇ 朝の一コマ目・2コマ目の講義は、いつもながら大変。先週、途中で終わった「介護保険」の続きと「労災保険」の講義でした。いずれも、講義するために勉強していると、新しいことを学びます。関心のあるところだけ読んでいると偏ってしましますが、講義は、基本的にオールラウンド。避けていたところも講義をせざるを得ません。月曜日が休日の日がありますので、あと残すところ実質2回(4コマ)。少し、ピッチを上げて、全体をカバーしたいと思います。
 妻の仕事の関係から、早めの帰宅・昼食。睡魔が襲います。自動車事故など起こさないように、睡眠はしっかりとりましょう。テレビのニュースで、支援者の心のケアの問題をやっていましたが、災害から一定期間経って、疲労と、無力感にさいなまれるのだそうですが、すこしそうかなと自覚。
 夕食後、お見舞いのメールをいただきながら、ご返事を延ばしていた静岡の佐藤先生に、この間の状況を返信しました。すこし、心に安定がもてたのでしょうか?まだ心は強張ったままですが、すこしずつ氷解させていかなければならないでしょう。皆さんに心配だけかけて、すまないなあと感じています。
 ツイッターで、女川の公共交通機関の不便さを書きました。自動車だと気が付かないのですが、ボランティアで女川まで行きたい、その方法を聞かれて困ってしまいました。調べると、仙台10時前後にJRに乗って、途中から代行バス。3時間半〜4時間の行程です。これでは、行きがたい。ある東京の医師が、女川に入ることになっていたのが、不便さ、そして宿泊先が無いことで、中止したようです。女川は、外からの支援を受けなければやっていけない。とにかく、1〜2日でも、女川にいけるようにしないと。
 会津の温泉に避難した人々のために、買い物、通学のためにバスを運行してくれているとのこと。何故、こうした事情の中で、地域のバス会社は、臨時でもこうした措置をとれないのか。採算度外視の行動が、車も失った地元民に大きな歓迎と感動を呼び起こすだろうが。
 女川で、夜間学校を起こすという記事に遭遇。福島の夜間中学校にお手伝いできないかと思っていたが、何か、女川にも協力できないだろうかと思っています。技術者でもないので、本当に、私が役に立てることは少ないなあと実感。子どもたち(私の後輩?)が健やかに育つことが、何よりも女川の復興の力。いい夢を見たい。(7/4)<5731>


◇ 7月最初の日曜日。明日の講義の準備を全く手をつけていなかったので、研究室に出社(?)。
 昼食にと思って、生協にパンを買いに出かけたら、講演会終了の人の列に遭遇。放射能の講演会で、市民団体が中心です。大教室一杯の参加者らしく、関心の高さを示しています。学外の知り合いとも遭遇。子どもから、是非、聞いて来いと言われたらしいですが、確かかなり放射線の高い「特定避難勧奨地点」に近かったかな。
 7時には帰宅しましたが、講義は不十分のまま、走り続けきたようです。月イチの講義、明日を含めてあと3回。進展は芳しくありませんが、トンネルの出口が見えてきたようです。日曜日に準備をする月曜日の講義は、シンドイね。
 孫は、100日目のお祝いをやっているかな?段々、自己防衛を強化しているようです。(7/3)<5708>


◇ 今日は土曜日。「女川に元気を送る会」が募集した支援金を携えて(目録ですが)、東京からの4人の方々(同級生の和田さんを含む)とともに女川町長を訪ねるために、女川に向かいました。
 いい機会なので、途中の東松島市に在住の中学校の恩師(社会科の阿部俊先生)のお宅を訪問しました。82歳ですが、お元気で、津波が1階まで寄せて、つい最近まで2階だけの生活でしたが、1階を修理されて戻ったばかりです。奥様も含め、長時間歓談しましたが、やはり、友人達のことが中心でした。年齢から推測するに、先生は、まだ30歳前の若い先生でしたが、情熱的な教育者でした。連絡は、甥の壮之さんとのツイッターでの交流がきっかけ。俊先生のお兄さん(壮之さんの父上)は、日弁連の会長であった阿部三郎弁護士。女川の名誉町民です。
 俊先生からは、阿部三郎先生の『そのときどきに「私の」思いをこめて』という自叙伝をいただきました。その本をみると、松川事件とのかかわりもあり、三郎先生にお会いできなかったのは残念です。福島大学の松川資料室の存続形態を巡って、立場上、女川の大先輩弁護士である三郎先生にお逢いして相談する計画を組みましたが、果たせずじまいでした。俊先生からは、行方不明の姉に気遣っていただき、自筆の「般若心経」をいただきました。姉も、般若心経に関心を持っていたので、本当にありがたい。
 女川町で13時に待ち合わせ、町長に訪問する間、俊先生との出会いをつくってくれた壮之さんと歓談。さいたま市に在住ですが、父親の郷里・女川復興のために、仙台に泊まりながら、通い続けています。ボランティアの宿泊施設等、具体的な問題点を教えていただきました。こうした積極性を受け止めて、町内外の力を結集して復興を進めたいものです。
 町長を訪問、教育長や町議の皆さんにも同席していただきました。女川の仮庁舎(プレハブ)も7月中旬には完成するようで、少し落ち着いてきた雰囲気です。行政の責任はもちろんですが、一人で抱え込まないで、ぜひ女川出身者、ボランティアなどの協力を得ることが、継続的な復興活動・支援活動のために必要と思います。女川町長・女川町民に宛てたメッセージを手渡しました。
 帰り、会の代表の一人の三宅さんのご実家・照源寺(今野家の墓もあります)に立ち寄って、いろいろ話ができました。お寺は避難所にもなっており、何か、西欧の教会のような感じもしました。
 皆さんとお別れして、一人、石巻蛇田の平塚君の自宅を訪問。津波の時には連絡が取れず心配した親友ですが、歓談。ベガルタ仙台の応援から帰ってきた奥様も合流して、長居してしまいました。
 今日一日、女川の思い出を中心に巡りました。町は流されたが、こうした女川の人々との絆を確認しつつ、改めてその大切さを感じました。(7/2)<5698>


◇ 7月になりましたが、帰宅後、東北楽天⇔ロッテ戦をNHKテレビで観戦。NHK総合のゴールデンアワーにやるなんて。東北限定かな?田中マー君の力投で2対0の完封勝利。岩村も元気になってきたし、松井の好守備。マー君の笑顔がいい。皆に助けられている実感が、どんなに力になるのか。ビリッケだけど、仙台のファンも喜んでいる。また、負けるかもしれないが、頑張ってね。
 昼から、夕方まで4時間以上、福島県議会の一般質問を聞きました。5人の議員が、20分の持ち時間を一杯使って、質疑。執行部側の答弁には、質問事項の順番ではなく、答弁者の順番(序列?)にしたがって、所管事項に答えるので、分りがたいところがあります。全員、党派は異なるが、原発事故、その対応に集中しました。基本的には重複しているところが多かったのですが、それぞれの党派の違いか、その具体性や深めるべきところの相違が見えました。
 議員さんも、他議員の演説中に、若干の私語があり、みんな集中している時に、隣の議員と談笑している方がいると、気になるもんですね。教室だと、個別に注意をしますが、議員さんでは恐れ多い。きっと重大な打ち合わせをしているのでしょう。国会の野次と比較すると、整然とした会議です。
 傍聴席は、結構、人が入れ替わりします。支持する議員さんの演説を聴いて、終わると退場。また次の支持者が入場。延びていますが、県議会選挙も課題。議員さんも気が気でないのでしょう。
 支持・不支持に関わらず、議員の主張をよく聞くことが大事。良く政策を聴くためには、その支持者の集会にいかないとわからない。集会に行くと支持者と誤解される。議会など、立場の異なる方々の主張を冷静に聞ける場を大切にしたいと思います。しかし、突然、議会を傍聴して何が議論されているのか分るようには、なっていない。技術的には、難しいかもしれないが、質疑の前提が分るような仕掛けが必要かも。公開しているだけでは消極的。住民に分る噛み砕いた解説(中立的)が、必要ではなかろうか。
 四重苦の福島。この際、民主主義的な地方自治の点だけでも、進んでほしいと思います。こんなときだから、地方自治に対する期待、住民の連帯の強化、民主主義的な合意の形成を実現していきたいものです。そのことが、復興推進の大きな原動力とも思えます。大変な被害の中で、福島県民は大きく成長したと言われたいものです。
 2011年も後半部。がんばっぺ!!(7/1)<5684>


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