日 記

(2011年9月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 9月も今日が最終日。何か葬式の多い月でした。女川・石巻での震災関連の葬式が2度。元同僚の先生の葬儀にも参列しました。悲しい訃報も、女川の同期生の配偶者、さらに若いゼミ卒業生の急逝です。悲しいことは、9月末で終わりとしたいですね。
 今日、第一原発から半径20km〜30km圏内の5市町村(広野町全域、田村、南相馬、楢葉、川内の4市町村の一部)に設定されていた「緊急時避難準備区域」が一括解除された。事故を起こした第一原発の各プラントの状態が安定し、水素爆発の可能性が低くなったということからの決定である。形式的には、福島市と同じであるが、多くの住民は避難中であり、生業復興も厳しい。
 全国紙の支局の記者が、この解除によって雇用関係にいかなる影響を与えるのかと電話取材をしてきたが、形式的にはともかく、実態的には除染の実行や壊滅的な事業の復興等、通常と異なっている環境の下での復興・雇用回復なので、粘り強く努力を積み重ねる必要があると思う。
 計画的避難区域の中で、一定条件の下で事業が継続されているので、その事業所に電話でヒアリング。その後、インターネットで、それに関連した実情を探査。例外的に事業を続けることの行政と企業、そして従業員の悩み。震災前、電話だけで会うことの出来なかった東京からの入植者。思いがけず、ツイッターでの発信に辿り着く。原稿にまとめるためのものだが、悩ましい。
 また、原発事故の収束に従事している下請の労働者について、知りたいと思っていた。すでに6月頃から厚労省に各月報告がなされているが、問い合わせてみたら、その結果が公表されていないようなので、頓挫。独自の調査力がないので、どうするか思案のしどころ。
 いずれにしろ、原稿にまとめる作業が、八方塞のような感じ。あまり総合的にしないで、絞りながらまとめなければならないのだろう。総合的に考えないと上手くいかないと考えること自体、短くなかった行政職の弊害か。研究は、まずは重箱の隅を突っついているとの批判を恐れないで、絞らないとまとめられないのかも知れない。あとは、弁解と今後の決意を含めて。
 明日からは後期の授業期間が開始。学生も戻ってくる。後期は、ゼミ(火曜日午後)と夜間の講義(金曜日夜)。いい講義をする自信はないが、一生懸命やることだけはしたいものだ。(9/30)<7293>


◇ 午前中、県の会議。久し振りにネクタイをして出たので、いつもより手がかかり、結局、会議開始時間に5分遅れてしまいました。そろそろ震災と夏休みの雰囲気から脱却しないと・・・・。
 長女がfacebookで、「女川の仮設住宅で、バウンザー(赤ちゃんがのって、ゆらゆらしたり、離乳食食べたりするもの)を必要としている方が三家族います。震災直後に産まれた赤ちゃんたちは、そろそろ離乳食が始まります。おさがりでよいので、提供できるかた、または身近で呼びかけられるかた、いらっしゃったら、ぜひご連絡お待ちしてます。」と。支援するつもりで、Twitterで紹介。早速4人の方が申し出てくれました。子育て世代の女性です。反応が早いので驚いた。まあ、なんとか解決しそう。
 原発問題調査で、ドイツに行っている友人の鈴木さん。そろそろ帰国したかなと思って、メールしたら、いま入国審査中。3日ほど前、ドイツに行った頃、「着いた?」と聞いたら「今着いた」。携帯で可能になったなんて隔世の感。こういうメールを出すのは、やはりドイツに行きたいのかな?(ハイデルベルクの河畔で、ボーッとしていたい。70歳を過ぎた新聞記者がハイデルベルク留学の本が参考になったが、シニア大学があるからそれに入学しようか。高校が廃校になる女川にシニア大学を作って、全国の高齢者がゆったりすごせるまちづくりも夢ですね。)(9/29)<7271>


◇ 半年遅れの、平成22年の所得税の確定申告書を、税務署前のポストに投函してきました。ここ10数年、この方式です。税理士さんに指導していただくのも、いつもは期限ギリギリなので、順番が来ない。E-Taxもあるのですが、どうも上手くいきません。やっぱりアナログ人間ですね。最後に還付されるか、追加で納めるか、最後までハラハラですが、私の計算が間違ってない限り、5000円ほどの納入でホッとしています。まあ、多くても2万ほど、100円などという結果もありました。投函するとスッキリですが、今になると昨年の収入は跡形もありませんが。仕方がありません。復興のためには、あまり寄与できてないかな?
 昼過ぎ、法律系の教員たちと、東電の原発損害賠償等、復興法制の研究の打ち合わせ。被災地から、もっと声を上げるという期待が寄せられますが、被災地は被災地で、冷静に理論活動は難しいようだ。しかし、被災地・被害者の責務として、実感を背後に抱えながら、発信をする義務があるのでしょう。可能であれば、学外の法律関係者と協働作業が出来ればと思います。
 女川に医療支援に入って帰った娘から郵パック。車に貼り付けるシール(魚マークに、onagawa)、そして黒のTシャツ(背中に「おだづなよ津波!」、胸に「村役場職員」、袖に「おながわコンテナ村商店街」)のお土産。中心は、女川病院の記事が載った「月刊地域医学」の5,6月号。これは地域医療振興協会の発行。町立女川病院の指定管理者になるところ。
 行政の責任放棄、民営化・合理化という眼で指定管理者制度を理解しており、そのことは変化はないのだろうが、町立でやっていけなくなった女川病院の管理を過疎医療の専門家集団が行うというのでは、ある意味では病院は救われたとみるべきか。特に移行する4月直前の大震災・津波、女川病院も大きな被害。しかし、職員のみならず、指定管理者に予定されていた同協会が、必死の支援活動。読んでいて、涙が出てきました。
 丁度、仙台の社会福祉法人「なのはな会」の機関誌(9号)を頂いたので眺めていました。このなかに、今年の4月から、「仙台市なかよし学園」(知的障害児通園施設)と「仙台市あおぞらホーム」(障害児通園事業)の2つの市直営施設の運営を、指定管理者制度に基づき市から受託したとの記事。安易な民間委託には懐疑的立場をとってきたが、今までの実践的な成果を全市的に広げるとの意欲的な申請。この法人の理事長は、私の大先輩。必ずや、以前に増していい施設運営になるでしょう。
 全てがそうではないだろうが、地域医療振興会にせよ、なのはな会にせよ、専門家集団が積極的に医療や福祉の質を高めようとしていることをみると、批判の多い指定管理者制度のなかでも、その担い手によって、充実した医療や福祉の改善に大きな期待をもてると感ずる。せめて、心からの応援をしたいものだ。(9/28)<7261>


◇ 火曜日、仙台の告別式には行けず、福島からご冥福を祈っていました。改めて、ゼミ卒業生の名簿や卒業研究テーマをみていました。なかなか日常的な連絡が取れていない学年もありますが、元気な学生時代を思い出していました。
 秋晴れのいい天気。じっと研究室に閉じこもっているのは「もったいない」感じです。「もったいない」を国際的に普及してくれたマータイさんが亡くなりました。数年前、福島市で行われたレセプションに来られて、私も出席していましたので、間近にお逢いできました。残念ながらお話は出来ませんでしたが。惜しい方を亡くしました。
 10月1日から女川の病院の指定管理者になる、地域医療振興協会の活動について、ネットで見ていました。過疎医療など自治医大が中心になっていますが、女川の医療を是非、支えて欲しいと思います。4月からの予定でしたが震災のため、半年延びました。震災のでの地域医療振興会の女川支援活動のレポートを感心してみていました。
 夜は、半年遅れの22年の確定申告の書類を書いていました。年金収入などもあり難しくなったなと思います。明日、税務署前のポストの投函することにします。5000円ほどの追加で、ホッとしました。(9/27)<7248>


◇ 月曜日、研究室へ。大学に着くと年配の方々が研究棟に入っていく。何があるのかと思って聞いたら、大会議室で「除染」の講演会。近くの住民のようだ。外から覗いてみたら、大会議室は満員。100名近い(?)。大学には初めて来たような雰囲気。ウィークディなのだが、農家の人であれば、まさに切実。米で問題になっているのは、隣町の二本松市。テレビの画像は、本当に隣近所。
 夜のテレビは、放射能から子どもを守る母親たちのネットワークの特集。あっという間に5000名を超えた集団になり、政治を動かす力になりつつあるようだ。凄い力だ。ツイッターやフェースブックで集まるのは、民主主義国にはないのでは思っていたが、そうではなさそうだ。というよりも、日本は民主主義が不十分なのか。政治をはじめて動かしえたとの実感も重要。こういう運動が、今後どのように発展するのかに注目。
 鶴塀が出る番組、塩竃の再会編。津波で被害を受けた元気なお婆さんが、また店を復活させるという。凄いなあ。20歳も下の私、店の二つくらいは立ち上げないと・・。店でなくても、新しい仕事も可能なのかな。知り合いの女性新聞記者(フリーライター)さんが、起業、駅前のビルに事務所を構えるという。活きのいい女性が多い。
 夜、悲しい知らせ。私のゼミ卒業生のTさんが急逝したとのメール。97年の卒業だから40才近くだろうか。社会人学生だったが、結婚して幸せな生活をしているとの噂を聞いたことがあるが、特別の連絡はなかった。明るく快活な女学生だった。先週水曜日に、頭痛で病院に行き、入院といわれて、準備のために自宅に戻って倒れてしまい、金曜日に亡くなったという。具体的な病名は分らないが、何とかならなかったのかと残念。今日、通夜で、明日、告別式を仙台で行われるという。夢や希望も大きかっただろうが、思いがけない途絶で、一番、本人が可哀相だ。いまはただ、ご冥福を祈るだけです。(9/26)<7230>


◇ 連休最終日の日曜日ですが、ブラブラしていました。
 秋晴れの日で、ドライブして秋を探しに行きたいところですが、去年までの秋晴れとは異なった心の晴れない秋です。震災があって、身内にこんなに多くの犠牲があったのも、今後ないだろうというほどの特殊な年、そして目に見えない放射線。
 信頼している東京の友人から、ある会合で、福島大学の原発問題への対応への批判があったが、どういう事情だろうかということの問合せ。原発を推進してきた機関との連携協定を結んだということ。経緯を詳しく知る立場にはないが、事実を冷静に見つめながら、慎重な評価が必要であろう。
 午後、5日間ショートスティで過ごした義母を迎えに行く。待っている間、入所している多くの高齢者を観察。いろいろ仕事をして、いま高齢者として入所。その前歴を想像していました。また、私自身の将来の姿を、重ね合わせながら想像していました。長生きは目出度いが、複雑な心境でした。
 女川で1週間近くの医療支援を行った娘は、塩竃に宿泊し、弘前に帰りました。3時間のドライブで到着したとのメールが来ましたが、遠い道のりは、着くまでが心配です。思った通りは行かなかったでしょうが、現場を知る意味でいい経験になったと思います。(9/25)<7211>


◇ 連休中の土曜日ですが、大学・研究室へ。
 今朝、寝覚めの時、5時前ですが、気になっている締め切り迫る論稿とシンポジウムでの報告をうつらうつら考えていました。何か、まとまりのない考えですが、原稿用紙をベットに持ってきて、思いついたことを書きとめ始めました。
 震災における雇用問題ですが、同じ原発立地ですが、女川町と双葉町等の浜通り。復興に向かって、爆発事故の存否で大きな相違をもたらしてしまいました。復興の現在の時点での大問題は「生業」問題です。この問題の解決の見通しなくしては、安全だけでは復興ができません。
 今回の被災地は、第一次産業が主体。これは農地・漁場と、土地に結びついた生業。コミュニティの維持も、抽象的な隣近所の問題ではなく、生業(農業や漁業)と一体的なもの。故郷に拘るのは、こうした生業のあり方と結びついているのではないだろうか。それを、憲法25条の生存権と結びつけることは可能か、いろいろ頭を巡ります。書き留めは有効です。後で文字を読むと、それなりに検討の価値が在りそうです。二度寝して、すべて忘れないでよかった。
 家に帰ると、仙台の伊藤先生が、この震災なかでの労働問題での提案(宮城)の文書を送ってくれました。いつもの重厚な提案です。下手なユニークさは、いらないかとも反省。しかし、もう少し、悩みながら進みましょう。原発がらみの労働問題と、主として津波被害での労働問題を、いかに統一的に見るか、逡巡はまだまだ続きます。
 以前、頂いていた本学の清水先生の原発の近著を読みました。原発問題の社会科学的な研究の蓄積を踏まえて、説得的です。原発立地自治体が、原発依存財政・原発依存地域経済の展開のなかで、復興の特異性を感じます。これも送付頂いた、水町先生の岩波新書「労働法入門」(9月発行)。無骨な書名だとは思いますが、内容は、法律解説書ではなく、その根源的で分りやすい。皆さんの着実な研究成果に感心しています。爪の垢でも煎じて飲んで、私も頑張ることにしましょう。(9/24)<7199>


◇ 秋分の日。秋晴れのいい天気です。女川に医療支援に行っている二女と長電話。女川の台風の状況、医療の現状、そして親戚の思い出話など、感動が伝わってきます。明日までですが、いい経験となったようです。大学内の研究と現場の課題。どの分野も同じですが、みんな悩みながら、選択し進んでいく必要があるのでしょう。
 昼過ぎから篠笥先生の告別式。ご無沙汰している先生方に多数、お逢いできました。200名ほどの参列者だったでしょうか。弔辞の中では、教育者として、テニスや定年後の油絵の趣味、管理職としての功績、平和と民主主義の社会活動など、故人の多彩な活動が紹介されました。多忙な84年間の生涯でしたが、お疲れ様でした。
 青森から帰ってきた家族を、駅に迎えに行き、一日が終わりました。(9/23)<7177>


◇ 昨夜から今朝まで、台風15号の動きが心配でした。それに随伴する暴風雨。福島中通りでも、阿武隈川の水かさが増し、避難するところも出ています。女川の浸水も心配です。海からの津波の被害を克服できないうちに、山からの水の暴走。避難所から避難する、本当に心が痛む。
 新幹線が走るのか、心配して朝を迎えたが、予定通り、青森に出かける家族を駅まで送って、大学へ。予定されていた会議も、JR線が全線不通のため中止。普通道は、自動車道の不通の影響を受けて、渋滞。雨はやんでも、後遺症の日です。
 夕方の篠笥先生のお通夜に行ってきました。多くの大学関係者も来ており、先生の思い出話をしていました。大学からの協力が心配で、お通夜と告別式、両方に出ることになり、明日の午後の告別式も参ります。
 肌寒い夜ですが、早めに休むことにしましょう。(9/22)<7151>


◇ 大型の台風15号が通過中です。二女が医療支援に行っている女川も、道路が冠水し、明日の朝まで大変です。福島も、12時頃まで雨が続きそうですが、弱くなってきています。メールで連絡を取りながら、安全を気にしています。震災以来、女川に支援に行きたいと思いながら、遂に実現したのに台風襲来。大変でしょうが、いい経験にして、さらに支援の続きをやって欲しいものだ。
 妻の出張の関係から、義母を今日からのショートステイに送ってきました。台風のせいか、涼しいというか肌寒い感じです。
 午後、明日(通夜)・明後日(告別式)を控えて安置している葬儀場で、篠笥先生のご遺体に対面。偶々、家族の神事中でしたが、参列させていただきました。行政社会学部を創った頃の学長でしたので、大学勤務はもう20年前でしょうか。大学との仲介役がいないのではと思って、相談に参りました。
 7月末に偶々お逢いして、元気な姿にお逢いしていたので、びっくりしました。そのときは、「今野君、郷里の津波は大変だったね。しかし、今野君は”逃げ足”早いから、大丈夫だと、話してたよ。」と、いつものジョークを交えながら話していました。大学が新学部(3学部目)を創るために逡巡していた時、本当に大きな仕事をしていただきました。篠笥先生は、教育学部の社会科「経済学」、私は同じ科の「法律学」、同じ講座でした。自宅も同じ笹谷地内。楽しい思い出だけです。いつも、戦後の労働組合が企業別組合から始った問題を、熱っぽく論じていました。ありがとうございました。安らかにお眠りください。(9/21)<7128>


◇ 昨日の石巻での従兄(門馬弘好さん)の葬儀に参列のため、一昨日福島を発ち、今日の昼前に帰宅しました。
 従兄でも、すぐ傍の家で、物心ついたときから、ずっと兄のような存在でした。4歳を頭にした3人の息子を亡くして父は病死し、母親の手で育てられましたが、長男として、弟たちの面倒も見ながら、苦労しながらも立派な人生を送りました。女川町役場を退職後も、社会福祉協議会や行政区長として、津波のさなか地域のお年寄りの救助のために奮闘したようですが、自ら犠牲になってしまいました。残念です。立派に育った9人のお孫さんの全員による「お別れの言葉」も、故人の誠実な人柄を教えてくれます。なに不自由なく育った自分にとっては、尊敬の対象だし、弟分として、大変、お世話になりました。こうした誠実な公務員そして社会活動家に支えられている女川町だからこそ、壊滅的な被害の中でも、立ち直ることができるでしょう。
 この一週間、夏休みとして、二女が女川の医療活動のボランティアに入ることにしました。被災地・女川の実態を直視し、医師としてさらに成長することを期待しています。地域に大きな貢献をしている女川の蒲鉾やの高政における、グランドオープンに立ち寄って(お土産用に買った笹かまぼこの煎餅、残念ながら孫宅に忘れてしまいました。)、女川まで同行しました。
 昨夜は、塩竃で「イク爺」ですが、雨の中帰宅。まさに帰宅と同時に入り込んできたのは、福島大学に赴任以来、公私共にお世話になってきた篠笥(ささき)先生(元学長)のご逝去の報(22日18時通夜・23日14時告別式)。気持ちを落ち着けて考える余裕はありません。悲しさでいっぱいです。(9/20)<7097>


◇ 秋なのに、真夏のような暑い日が続いています。今日・日曜日も、34度の最高気温の予測の福島です。ただ、明日からしばらく、最高気温22−23度。聴いただけで、寒そうです。
 何か、夜も暑苦しいし、熟睡が出来ないせいか、なかなか疲れが取れず、スッキリしません。昨夜は早めの就寝でしたが、眠りが浅い。そして今朝は、朝からモアーと暑い。だるいので、昨夜は、あるいは熱中症かと思い、体温計を久し振りにあてたら、36度5分。心配する必要はないか。
 明日は、石巻での従兄(門馬弘好)の葬儀出席のため、夕方、塩竃へ。女川の病院に支援にいく二女と合流して、長女宅に宿泊。明日、早朝、石巻に行くことにした。これで、阿部家(実姉・姪・姪の長女)、今野家(義姉)、門馬家(従兄)と続いた、震災・津波犠牲者の親戚関係葬儀は終わる。張りつめていた気持ちも、ホッとするとともに、疲れも出てきたのでしょう。
 捜索などでご協力いただいた、実姉のご親戚から、実姉の嫁入時の集合写真を送っていただいた。相次いで亡くなった実姉夫婦は、金婚式目前と云っていたから、1961年3月か。半世紀前である。高校生(1年生)の私も学生服姿。私の実父母、実兄、伯父伯母など、いまは他界した者が多いが、懐かしい。若者が高齢者になり、不思議な感じである。
 女川の(小中学校)同級生のご主人が、先日、亡くなった。津波から引き上げて助けてくれたご主人だと聞いている。ツイッターで娘さんと連絡が取れて、東京での女川同級会に出席してもらおうと思って手続きをしていた矢先のご不幸である。同級生も悲嘆の毎日であろうが、娘さんのブログを見て、励ましあって生きて行こうとしている姿に感動している。生きている者は、一日一日を大切に、思い出を大切に生活をしていかなければならないと思う。
 震災後6ヶ月、外国の報道(National Post)で、女川の6か月間の変化が出ています(最初の3枚)。貴重な写真です。半年後、見違えるようになることを期待しながら。(9/18)<7073>


◇ 今日は女川に行ってきました。今回の目的は、女川の水産業の復興へ向けての懇談会です。
 具体的には、魚市場が冠水しながら、嵩上げして、水揚げが始りました。仲買人組合の孝信さんに連絡して、私が(非常勤)理事をやっているコープの水産担当者に付き合っていただいて、女川の水産関係者の皆さんと懇談することにしました。
 10時に出発して、13時からの懇談会。10人近くの水産業者に集まってもらいました。直接、話し合うと、やはり話は具体的。連絡を密にして、今後の協働の可能性を感じました。期待しながら、進展をみつめて行きたいと思います。
 懇談の後、隣の高政のグランドオープンを覗き、サッカーチームも含め、女川復興の具体的な動きを感じてきました。しかし、水揚げが始ったものの、魚市場の状況は、急ピッチで修理が必要です。
 働きながら生計を立てる、安定的な生業の確立が、最重要の課題となってきています。(9/16)<7048>


◇ 午前中のみ研究室。午後帰宅し、原発労働者問題の本を読んでました。気にはなっていましたが、福島原発爆発で、住民とともに、労働者の厳しい状況を改めて理解しました。労働法専攻者として、その法的問題を詰める必要があります。
 夕方、女川町の復興計画に関わる検討業務進捗状況を聴く機会がありました。発想の転換が必要ですが、専門家が張り付いて真摯に検討していただいていることに頭が下がります。明日は、女川の漁業関係者の話を聴いてきますが、女川在住の方々が、夢を持って、心を1つに復興に邁進することが求められているのでしょう。
 娘から、外国での日本震災の半年の写真等を教えてもらった。改めて思い出す。(9/15)<7036>


◇ 昨日から今日にかけて、教子さんや秀好さんと電話で話して、今週末に石巻で行われる従兄弟の葬儀に際して、「いとこ会」をやろうかという話をしながら、久し振りの会話ができました。いとこの範囲は相対的ですが、父方のいとこでも20人ほど。そのうち、成人になってから、私の実兄を含め2人は他界し、今度の津波は実姉を含め2人が犠牲に。
 一番上の従兄弟は80歳に近いが、いとこ会をやろうというほど、仲が良かった(と思う)。実現しなかったので、この機会に、という話を持ちかけたが、まだ心が落ち着かないので、もう少し時間をおこうということになった。そのうちの楽しみに大切にしまっておこう。
 いとこ関係は、兄弟姉妹のような家族内の親密さ(=対抗関係)はないが、いつも味方(利害関係のない)のような気がする。みんな若者ではなく高齢者になったが、年齢が近いせいか余り説明はいらない。兄弟姉妹を失って、何か関心が強くなった。
 大学の図書館にない本が県立図書館にあるので、帰路、県立図書館による。震災の修復工事は終わっていないが、研究室から完全撤退の後、また家のスペース上、書籍を増やすことを避けるために、積極的利用を考えてみたい。マルクスがロンドンの公共図書館を最大限活用したことを思い出しながら。久し振りの県立図書館、新鮮な感じと係員の親切さに好印象。新しい利用カードをもらって、新入生の感覚。
 隣県に転居し、通っている同僚と、生協で昼食。その生活の大変さに同情。この日常生活を乱したものに、改めて憤り。人間関係までも破壊されているのでは。何とかしないと。(9/14)<7013>


◇ 県の委員会の仕事について、研究室での打ち合わせが予定されているだけで、特にありません。しかし、集中が足りません。
 1月後の原稿締め切りと、労働法関係の講演が予定され、その準備ということになるが、自らの研究に内在化が出来ていない。
 女川出身の事業家から、東京でのシンポジウムでのパネリストの要請に受諾の返事。自分でしか出来ないことはあるとは思えないが、この福島に住み、郷里・女川の復興に携わった思いを伝えたいと思っている。東京の人に、被災地の現状と思いを伝えれればと位置づけている。そのためには、自分の頭を整理しないと。
 大津波の中で、生き抜くために格闘した姿を残しておきたいと思って、「震災日記/3月11日から」を開設したが、なかなか原稿をいただけない。無理な注文だったかもしれない。直接に津波に対峙した思いだけでなく、あらゆる地でこの震災に立ち向かった経験と思いを掲載することにした。直接の被災者でなくても、その経験は重く、残しておくべきものと思っている。(9/13)<7000>


◇ 昨夜の山田洋次が選ぶ映画「利休」を見て、終了時間が12時過ぎ。さすがに今朝は眠い。
 ショートスティに迎えに行き、午後、大学へ。今日は、妻の何回目かの誕生日。孫娘の朝のお祝いコール、娘からの宅急便でのお祝いも届き、やはり嬉しそう。私も大学からの帰路、ケーキ屋に寄り、フルーツタルトを買ってきた。ケーキをツマミに日本酒(能登半島産)を飲む。
 約束していた卒研の指導。震災の直接の被災者ではないが、環境のせいか、何をやっていいのか力が入らないとの悩みらしい。被災の渦中でなくても、福島や被災三県の住民は、準被災者か。自分自身もよく理解できる。テレビも被災の報道の連続、忘れて欲しくはないが、早くそこから脱却したいのも事実。
 コープふくしまの水産物購入と産地・女川の橋渡しをやろうと、よく分らないまま連絡。いずれにしろ、水産課長を女川に連れて行き、可能性を探ることにした。何か、いい繋がりができるといいと思う。水産課長、女川の仲買業者、そして女川の若手業者と連絡しながら、事業を拡充することの大変さを知る。
 11月のシンポジウム(東京)での報告を要請(女川出身の実業家から)されているが(Facebookでの付き合い)、震災からの復興に向けた取組みが報告できるかが問題。出来れば協力したいが、最近、出来ることが狭くなってきたと返事を出していたが、前向きに検討してみよう。(9/12)<6976>


◇ 震災半年の日。女川での義姉の葬儀。9時頃に福島を発って、塩竃の孫宅に立ち寄る。満5歳の誕生祝の補充。昨夜は保育園でのお泊まり会。初めての親から離れての就寝。少し、上手くいかなかった部分もあったようですが、焦らないで成長をみつめましょう。
 塩竃から11時頃出発して、途中で昼食をとり、13時半頃の女川(照源寺)着。今日は、3番目の葬儀らしい。
 今日で震災後半年となりましたが、義姉はまだ行方不明。悲しいですが、1つのケジメで今日の式となりました。喪主の長男(甥)が、立派に挨拶をしていました。弟さん、孫代表の挨拶も心のこもったものでした。久し振りに、親戚ともお逢いできましたが、何か葬儀でないと逢えないのも悲しいことです。
 帰りは、5時過ぎの出発となりましたが、昨夜は眠れなかったせいか、睡魔に襲われたので、途中、菅生PAで休憩。なんとか無事、帰宅。来週は、従兄弟の葬儀でまた、石巻に向かいます。津波関係の親戚の葬儀は、これが最後。すべての葬儀を済ませて、ホッとするとともに、現実を直視せざるを得ないことになります。張りつめた心を解きながら、故人の思い出に浸ることになります。(9/11)<6953>


◇ 仙台での研究会の為、10時半福島発の高速バスに乗車。12時前に到着予定だったが、仙台でのジャズフェスティバルのためか、宮城仙台ICが混んで、30分ほどの遅れて到着。
 久し振りに、牛丼を食べて、時間があったので1番町から川内まで徒歩(散歩)。放射能騒ぎで、ウォーキングを止めて久しい。真夏なみの太陽が眩しい。
 研究会の参加は、いつもより少なく10名ほど。判例研究の後、私が報告させてもらったが、東日本大震災と労働問題。多様な問題で、絞りきれなかったが、原発労働者の安全衛生の問題・雇用問題、放射線が強い地域での就労の問題等に集中。みんなの関心から言えば、そうのように限定するのがベターなのかもしれない。いつものことだが、問題を絞って、深められなかった、これは反省。しかし、何をやるべきかが少し見えるような気がした。また、頑張りましょう。原稿締め切りには、あと1月ある。
 経産相が、被災地に配慮のない発言のため、首相に辞表を提出。一週間ほどの在任期間。またかという感じだが、彼は原発批判派らしいので、事態は複雑。いずれにしろ、内閣は緊張感を持って仕事して欲しいものである。(9/10)<6941>


◇ 今日は、初孫の満5歳の誕生日。明日の仙台での研究会報告、明後日の女川での葬儀のため、直接お祝いできませんでしたが、女川への途中、立ち寄ることにしましょう。午前、ショートステイに送った帰り道、玩具店に立ち寄り、プリキュアグッヅなど(?)、買い求めました。姉妹仲良く、喜んでくれるといいのですが。
 玩具店に居る時、ゼミ卒業生が進学したロースクールの知人から、その卒業生が司法試験に合格したとのメール。ゼミ生としては初めてですが、長い期間の努力で合格を勝ちとりました。早速、「おめでとう、頑張ったね」とメールと電話をして祝福しました。法曹をめざしている後輩に、大きな励ましとなるでしょう。合格者の平均年齢らしいので、それほど長かったのではないのかなと思います。ご両親も、辛抱して、支援してくれたのでしょう。本当におめでとう。
   夜、又びっくりしました。この前の日曜日に東京での(女川)同級会に誘っていて、朝に体調不良ということでこれなかった同級生。ご主人が病気で、直前に急に亡くなっていたことが今日、知ることになりました。娘さんの連絡が、ご本人の体調不良ということでしたので、一日も早く回復されるよう返事をしていました。多分、本人が、同級会に報せるのを避けたのでしょう。その気遣いを感じます。
 ご主人は、私の姉の同期生でもあり、家が流されて、仙台や埼玉の子どもたちに世話になっていたようですが、女川にも帰りたかったようです。昨日、女川の寺で葬儀が営まれたとのこと。悲しいことが続きます。震災・津波から半年が過ぎますが、まだまだ後遺症は残っています。福島の避難所でも、この間、161人の方が亡くなられたとのこと。絆を強く、何とか復興を目指したい。
 11月に福島の温泉で行う労働組合関係の全国交流集会での講演依頼の文書が届きました。また、東京でのシンポジウムで報告をという話が舞い込んできます。少し、気を張り詰めて頑張ることにしましょう。生かされている者の務めとして。明日は、研究会で報告。「東日本大震災と労働問題」。最後まで絞りきれなくて赤面の至りですが、恥をかきながら、研究者の役割を果たせるよう、頑張ることにしましょう。(9/9)<6931>


◇ 夜は涼しいが、昼は30度を越える。まだまだ暑い。
 研究室での作業を終えて、早めの帰宅。出迎えの仕事となでしこジャパンの試合が、うまく重なった。結局、1対1の引き分け。強行スケジュールで、いつものようではない。少し余裕をもってやらせたい。相手も同じだが、平均年齢が20歳(北朝鮮)対25歳(日本)という。夜になって、3位の中国が負けて、オリンピックの出場は決まったらしい。
 期待していなかった楽天の試合。今日も中継があるので、テレビをつけるが3対0で負けている。チャンネルを変えて、しばらく経ってみて覗いて見たら、4対3に逆転していて、また見続けることにした。4対4にされたが9回裏、ノーアウト満塁のチャンス。勝てると思ったのに、結局、その後、内野フライ・三振・三振と引き分けに終わる。ああ、今日は引き分けのみ。なんか力が漲らない。
 東京の女川出身者の会に来れなかった同級生を心配する電話とメール。間接的な情報を提供したので、責任を感ずるが、きっと体調も回復されていることでしょう。
 孫娘の5歳の誕生日を明日に控え、妻からのプレゼントが届いたらしく電話。お祖父ちゃんからは、○○ね。えっ??。一緒のプレゼントのはずなのに。二人一緒というのは、もらう方からすると、都合が悪いらしい。これだけは個人の独立かな?まあ、知恵がついてくるのはうれしいが。と、書いていると、グラッと地震。震度3.まだ終わっていないのか、余震は。(9/8)<6914>


◇ 今日は、終日コープふくしまの通常総代会に出席してきました。6月の予定が、震災の影響で、今日まで延期になっていた。昨年から非常勤理事を務めているので、出席してきました。
 震災で大きな支援を受けたコープおおいたの代表などからの祝辞、総代からの活発な発言など、震災を克服して、新たな展開をする意欲が漲っていました。
 3月11日の大震災によって、店舗は壊れ、休業も余儀なくされたので、大変な状況を経てきましたが、組合員、職員の尽力で、何とか黒字にまで復帰しています。特に、原発事故により、自治体ごと県内外に避難しているなかで、組合員も含め生活困難を抱えています。
 こうした困難な状況であれば、その復興は協同組合のような連帯組織が必要と思います。自治体・住民の生活の下支えとしての生協の役割を、個人的には強調してきていますが、なかなかそうなりきれていないようです。しかし、地域の除染活動のボランティアを組織するなど、生協らしい活動をしてきています。約17万(世帯)の組合員の協力によって、さらなる発展を期待しています。
 午後、第1回の定例理事会、理事の歓送会(懇親会)に出て、帰宅しましたが、来年は国連・世界協同組合年らしいので、困難を抱えている農協、漁協などとのネットワークを形成していく必要性を感じています。(9/7)<6894>


◇ 昨夜は遅かったせいか、眠い一日。
 午前中、研究室で作業。午後、帰宅。女子サッカーも見ていました。何とか、オーストラリアに勝って、順調です。
 4年前に卒業したゼミ生から、2年前に結婚して子どもも生まれたとのメール。土曜日の研究会の報告者と同じ職場なので、驚いていたことが伝わったのでしょう。メールでは、他の同期生も結婚したとの情報も。おめでたいことです。
 卒業生も、大学の研究所のメーリングリストに参加するなど、教職員・卒業生一体の協働行動ができる条件がでてきました。発展が楽しみです(9/5)<6849>


◇ 女川一中の恩師・阿部俊先生が、所用で東京に出てこられる機会に、東京在住の同期生が「囲む会」をおこなうということで、情報提供者であった私も、東京の会に呼ばれた。
 東京の同期会は、「うみねこ会」と称して、関東地区に在住の40名ほどが名簿に登載されている。
 場所は、東京両国、国技館を目の前にしたホテルである。参加者は先生を含め17人。懐かしい面々である。昔の付き合いの濃淡で、記憶がはっきりせず失礼もあるが、同世代。当然、3.11の女川を襲った大津波に話題が集中、それぞれの安否とともに、何とか女川を復興させたいという話で盛り上がる。
 私も含め、何とか日常生活を送っている者からみて、多くを流された女川在住者の苦しみは計り知れない。何とか、気持ちだけでも、寄り添って行きたいものである。
 女川を心配するとともに、その被害の大きさの中で親戚・知人を失った者も少なくない。生きていることの有難さ、また被災地から遠くとも、元気なうちに逢っておきたいという気持ちが重なる。
 いろいろ65年以上の年月を経て現在に至る、すべての仲間の人生に、乾杯を上げたい。
 1時から1次会、そして2次会、そしてコーヒー喫茶。時間を忘れるようなひととき。午後8時過ぎの新幹線に乗って、10時頃帰宅。
 楽しい集まりでした。これを励みに、また進みましょう。(9/4)<6827>


◇ 土曜日の今日、4週間ぶりの通院。気にしていた検査結果は、少し改善(5.9)。寝坊してしまったので、予約時間に遅れ、帰宅は昼になってしまいました。
 午後、ショートスティに迎えに行って、JAで梨等を購入して帰宅。後は、午後5時からの研究会のために大学へ。卒業して衆議院で仕事をしているK君から、「被災者生活再建支援法」を報告していただいた。同窓生(役員ら)6人と教員5人の11人の参加で、有意義な研究が出来た。原発事故という新しい現象の解決に、従来の法適用で行うことには無理が伴う。本来、新たな立法・改正が必要なのだろう。復興法制の本格的な研究が必要でしょう。
 久し振りの同窓生との懇親会は、不義理をして、帰宅して娘とともに映画レイトショー。「神様のカルテ」。医療現場の厳しさと、医療の原点等を教えてくれた。明日は、東京へ(女川の同級会)。(9/3)<6812>


◇ 今日は妻の仕事の忙しい日。午前中と午後とフル稼働です。雨模様なので、送迎のアッシー君。それ以外は、自宅で被災者生活再建支援法や原子力災害対策特別措置法、災害救助法等を読み比べていました。原子力災害対策特別措置法と、被災者生活再建支援法が、いかにリンクしているかの関心です。結局は、自然災害と異なる原発事故による避難者に対して、津波で家屋を流失した者と同様、支援金などの給付ができるかですが、もう少し勉強してみましょう。
 二女は弘前から山形の病院まで、新幹線を使って小さな患者さんを送ってから、福島の自宅に帰ってきました。万が一のことを考えて、酸素ボンベを背負っての同行ですから、気を使ったことでしょう。無事、役目を果たして何よりです。救急車での搬送と誤解していましたが、救急でもないので、新幹線での搬送への付き添いです。殆んど同時に、岩木山の「嶽きみ」が到着しました。名産の甘いとうきびです。早速、ゆでていただきました。本当に甘く美味しいとうきびです。
 夜、仙台の知人が来て、彼の大学の友人たちと懇親会。長い付き合いということで、退職したYさんも見えて、楽しい懇親会でした。放射線等、大変な時代の大学運営ですが、一つ一つ切り開いていくしかないと思います。大学への志願者減が懸念されますが、大変な環境下ですが、この大学で学びたいという魅力でいかに受験生と保護者・指導教師を掴むか、特効薬はないのでしょう。
 野田新内閣が発足しました。東北から、外務大臣の玄葉(福島)、財務大臣の安住(宮城)、復興担当大臣に平野(岩手)と、被災三県から三大臣が入りましたが、一日も早い復興に頑張って欲しいと思います。(9/2)<6792>


◇ 9月になりました。台風12号も、南から近づいています。東京での全国会議が予め中止になったのもあるようです。
 午前中は、ショートスティに送って、午後、研究室へ。月が改まっても、カレンダーをめくる以外は、特に何もありません。4時からのなでしこジャパンを見ようと、早めの帰宅。若手中心でしたが、なんとか3対0で面目を保ちました。世界制覇の重みが感じているのでしょうか。感じるなというのは、無理な話ですが。
 7月末の姉の嫁ぎ先の合同葬儀の挨拶と写真を、嫁ぎ先の親戚の方から送っていただきました。写真を見ながら、メール内容にもあったのですが、私が写った写真がなかったと言ってました。そういえば、祭壇の前で、結婚式の集合写真のように大勢の写真があります。よくよく見ると、姉の娘たちはいますが、殆んどが嫁ぎ先・家の関係者。今野に関わる人間はいません。祭壇には、津波とは関わらない病死の方も含め6人の方はみな嫁ぎ先・家ですので、当たり前かもしれません。この点が、結婚式の集合写真と異なるところ。祭壇の前で、写真を撮るという発想もなく、姉の孫の校長先生等と思い出に浸っていたもので、それでは我々も撮ろうという気の利いた人が、わが方にはいなかっただけです。
 嫁に行けば、その家の人間になり、その家の墓に入るのは、世の習い。新憲法と両立しない「家制度」が、結婚式だけでなく葬式にも、綿々と生き続けているだけでしょう。行方不明のままの葬儀であるし、家とはいえ合同葬。個人の葬儀だと、友人や様々な親類縁者、本人が「生前」お世話になった人々との別れが中心になるでしょうが、こんな災難だから仕方がありません。
 葬式は終わりましたが、まだ実感がわかないのが実態。最近、女川の関係者と連絡を取ることが多いせいか、姉の中学校時代の同級生だったと思い出を話してくれる人が多いのです。10月末の飯坂温泉への女川からの一泊旅行も、同級生たちでした。こういう友人たちの思い出話を、是非残しておきたいなあ、こちらも生前、お世話頂いたことに感謝の気持ちを述べたいところと思いつつも、異常な事態は、こうした普通の人間らしい営みをも奪ってしまうのかと残念です。
 女川の復興こそが、お世話になった方々への感謝の気持ちと努力してきましたが、今からが本番。マリンパルも、場所を移して一部再開するようです。私の長女一家も、物資支援で女川に足繁く通っているし、二女も9月下旬、夏期休暇を使い、専門性を生かして1週間ほどボランティアに入るという。日曜日は、東京で私の女川の同期会。9月も、頑張りましょう。(9/1)<6767>


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