ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
この言葉はあまり有名でないかもしれませんが、要するにマリー・アントワネットの「パンがないならお菓子を食べれば?」と対をなすような言葉です。
事の経緯はこうです。革命前、飢饉はよく起こりましたが、それらは自然発生的なものばかりとは言えず、行政や買占め業者の思惑によるかなり作為的な飢饉でもありました。そういう飢饉を作った中心人物で、陸軍省のフーロン・ド・ドゥーエという大臣志望の老人が飢饉の時にこう言ったと伝えられています。
「飢えたら草を食え。辛抱しろ。俺が大臣になったら、干草を食べさせてやる。俺の馬だって干草を食っているんだ」
この言葉はマリー・アントワネットの無知な言葉よりもっと侮辱的な言葉です。民衆が激怒したのは当然のことでした。もちろん、これが言われたとされている当時はまだ革命が起きていませんから、民衆は黙っているだけでした。
1789年7月14日、バスティーユが陥落します。しかし、生活は改善されません。パンの値段が高騰し、貧民を飢えさせるための陰謀があるのだという噂が流れました。その頃、既に身の危険を感じ取っていたフーロンは卒中で頓死した、と言いふらして隠れていましたが、民衆はフーロンを探し出し、リンチにかけ、首を切り、陰謀に関与した印として口に干草をくわえさせ、槍の先にその首を刺して街中を行進しました。
ついで一団の暴徒がフーロンの女婿でパリ知事のベルチエ(武力で民衆を弾圧しようとしていました)を捕らえ、彼の面前に義父の首を掲げて「パパにキスしろ」と囃し立てながら追い立てました。ベルチエは失神寸前です。一行はパリ市庁舎の前でベルチエを殺害し、首を並べて掲げながら再び行進を開始しました。
フランス革命が血塗られていることは歴然とした事実です。しかし、ランバル公妃の凄惨な死と共に、このフーロンの死は際立っています。民衆の直接的な怒りが爆発しているかのようです。
フランス人は、自分達を飢えさせる者に対して立ち上がりましたが、同時に自分達の誇りを傷つけた者も許しませんでした。「俺の馬も干草を食っているのだから、おまえ達も干草を食え」などと、馬と同列にさせられたままで黙っているわけにはいきません。民衆がフーロンを殺害するだけではなく、その口に干草を詰め込んだのはそのことを如実に語っているように思われます。
これは近代科学の父と呼ばれたラボアジエが、 徴税請負人だった前歴を問われ有罪判決を受けた際、革命裁判所首席裁判官であったコフィナルが言った言葉です。彼は、ラボアジエの稀有な才能を惜しむ声に対し、
「共和国は科学者を必要としない。裁判をすすめなければならない。」 と言い切ったのです。
「共和国は科学者を必要としない」それはなぜなのでしょうか? また、では、一体誰を必要とするのでしょうか?
また、この有罪判決を受けた際、ある実験をやりかけていたラボアジエはその結果が出るまでに、もう二週間の猶予を願い出ました。しかし、共和国はそんなものを必要としませんでした。妊娠した女性はその出産まで刑の執行を猶予されましたが、化学の実験の結果など必要としなかった共和国は、たった二週間の猶予を与えることすら拒否したのです。
ラボアジエの処刑はフランス革命が“狂気の沙汰”という側面を持っていたことを浮かび上がらせてきます。さらには、革命というものが“狂気の沙汰”そのものであることを示しているのです。
これは二月革命の際にも見られました。ビクトル・ユゴーやシャトーブリアンは革命騒ぎの中で人々が狂乱状態になっていく様をそして目的を見失っていく様子を憂鬱に観察しています。
ユゴーは、「ああ憐れむべき無自覚、盲目な大衆! 彼らは、己れの欲するところも知らず、欲せざるところも知らぬのである」と、書き残しました。
シャトーブリアンもまた、ただ一言、「共和政で、より幸福になるのですか」と、洩らしたそうです。
科学(軍事科学以外)や芸術と言うものは、国家の緊急時にはほとんど無用の長物です。戦時下にはどこの国でも、まず文化的なものに対する締め付けが始まります。要するに、そう言うものは人間の生死に関わらないからです。ということは、逆に、これら無用のものを数多く持っている国家ほど、戦争とは縁がなく、潤っている、と言えなくもありません。ラボアジエを無情にも処刑したフランスが200年たった今、ヨーロッパの中で一番文化的事業に(意図的に)熱心なのは、歴史の皮肉でしょうか。
1789年6月23日、三部会の名を捨て国民議会を名乗った第三身分代表議員と聖職者代表議員と一部の貴族議員達に向かって、て国王はこう言い残して退席しました。
革命に勢いをつけた |
「余は諸君が直ちに解散し、明朝それぞれの身分に割りあてられた議場で討議を再開することを命ずる」
貴族議員は即座に退席しましたが、聖職者の一部と第三身分議員は動きませんでした。式部長官ドルー・ブレゼ侯爵が戻ってきて言いました。
「諸君は陛下のご命令を聞いたでしょう」
「国民議会」議長のバイイが答えました。
「議会に集う国民は命令を受けることはない」
そして、その次にミラボーが大声で怒鳴りました。
「われわれは銃剣の力によるのでなければ、この場を離れない。国王にそう言っておけ!」
この言葉は大喝采で迎えられました。バイイ議長の方はおっかなびっくりに言ったそうで、一説によれば式部長官に答えたのではなく、議員に同意を求めただけだそうです。求められた議員も困ったことでしょう。この当時はやはり国王と言うものは神聖なものでしたから、国王の命令に逆らうことは、いくら自由主義の理想に燃えた進歩的な議員と言えども畏れ多いことでした。下手をすれば、改革をするどころか、自分達は「朝敵」になってしまいます。
その一瞬の恐れの後で会場に響き渡ったのが、ミラボーの「獅子の咆哮」でした。それも「陛下」と言わず、「国王」と呼び捨てにしたのですから、沈みかけていた議員達の気持ちはいっぺんでしゃんとし、革命への大きな勢いが付きました。その勢いがどのようなものであったのかは、歴史が示している通りです。
ここでミラボーの一声がなかったから、革命の出足は鈍っていたのかもしれません。もっとも民衆の力によるパスティーユ襲撃などはあったでしょうが、議員達が萎縮してしまって、民衆の声に充分答えられなかったかもしれません。
そう考えると、とかく悪い噂の絶えないミラボーですが、この一言で革命への大きな勢いが付いたという意味で、フランス革命にとって欠かすことのできない人物と言っていいでしょう。
フランス革命の原因は複雑でとても一言では言い表せません。しかし、その引き金が「貴族の反乱」であるのは定説のようです。
貴族はもちろん特権階級です。そして、特権階級の持っている『特権』の最大のものは免税です。無用の長物となってしまった貴族達は、とにかく贅沢以外することがありませんでしたから、いつもお金が必要であり、逆に贅沢以外にお金を使うことなど持ってのほかでした。爪に火をともしている民衆が日々のパンも買えず税金を取られるのはかまいませんが、賭博や贅沢でお金の必要な彼らは自分達が税金を払うなど、論外でした。破産寸前の国庫に税金を払うよりも、もっともっと国庫から搾り取ろうとしていたのです。
国庫が破産寸前になったのはどうしてでしょう。それは、ルイ14世時代からの慢性的な放漫財政に加え、戦争に次ぐ戦争と度重なる飢饉のせいでした。戦争に莫大なお金が必要なのは古今東西変わりません。そして、飢饉が起こると農民は生きるのに精一杯でとても税金など払うことができなくなります。
ヴェルサイユの華やかさとは裏腹にフランスはまさに瀕死の状態だったのです。そのような時に、アメリカの独立戦争が起こりました。子供の頃から騎士道精神に満ち溢れていたラファイエットは、とにかく英雄になりたくてどうしようもありませんでした。彼は幸い(不幸にも?)大貴族の息子でしたので、自前で船を買い、まわりの反対など気にも留めず、1777年、さっさとアメリカに渡り、大活躍をし、ワシントン大統領とも知己を得るまでになりました。
そうするともう止まりません。「新大陸の英雄」と言われ、大得意の彼は「アメリカの大儀」を訴え、既に米仏同盟関係の締結は行っていた国王を説得し、フランスの援軍派遣を取り付けることに成功しました。結果はご存知の通り。フランスは仇敵イギリスを打ち破り、独立戦争への介入の目的は達せられました。
しかし、そんなことに喜んでいる場合ではありませんでした。面目は取り戻したものの、軍隊の遠征と資金援助は国庫を瀕死の状態にしました。とにかくこの財政難を何とかしなければなりません。そして、時の財務長官カロンヌらが当然のことながら考えたのが「特権身分への課税」です。
特権身分の人間は激怒しました。彼らは国王政府に反抗し、その反抗が三部会召集を誘い、ついにはフランス革命が勃発することになるのです。その一連の政治危機と社会不安を引き起こしたのが、アメリカへの介入で、そのアメリカへの介入を熱心に勧めたのがラファイエットですから、かれの「英雄熱」がフランスどころかヨーロッパ中の激動の火種を蒔いた、と言えなくもありません。
「有徳の人」ロベスピエールと「逸楽を求める」ダントンは、共和制樹立に向かって共に闘った同士でした。しかし、革命が進むに連れ、二人の考え方(と言うよりも根本的な人間性の問題)の違いが表面に出て、再び理解し合うのは困難になっていきました。
ダントンが処刑される一週間前、ふたりはある晩餐会に出席していました。
女性とお金に溺れたダントンのスキャンダラスな生活を許すことのできないロベスピエールは、「徳」と言う言葉を何度も使ってダントンを非難しました。その時の有名な会話をご紹介しましょう。
ダントン 「俺が毎晩、妻を相手にくりひろげている『徳』ほどしっかりした『徳』はないさ」
ロベスピエール 「君は『徳』という言葉を馬鹿にしている」
もちろん、ダントンはロベスピエールをからかっていたのでした。しかし、清廉の人ロベスピエールにはいかなる冗談も伝わりません。彼は、ダントンが大好きなもの、全てに興味がなかったのです。つまり、女性、お金、名誉、安楽な生活の一切を求めず、自分の正義を確信していました。ダントンが世俗的なものにものすごく弱いのとは対照的に、彼は「腐敗させられることのない人」と言われており、どこにも隙がありませんでした。
この会話は二人の性格を象徴しています。もちろん、ダントンだって、どんなに妻を喜ばせているかどうかは別として、それが『徳 Virture』だなんて思っているはずはありません。ただ彼は、ロベスピエールが嫌悪するものに「徳」という言葉をかぶせ、その生真面目さをからかいたかったのでしょう。思ったとおり、ロベスピエールは(多分青筋を浮かべて)たちまち不愉快になりました。それだけでダントンはよかったのです。
彼は、若い妻を娶ってから(それは恐怖政治の始まりと重なります)政治への興味はなくなり、ひたすら妻に「徳」を施していたそうです。この最後の会見で、ダントンは自分の将来を予期していたのかもしれません。同時に、堅苦しいロベスピエールが行きつくところも予期していました。もしかしたら悔し紛れの言葉かもしれませんが、処刑台に連れていかれる荷車の中で、ロベスピエールの下宿の前を通った時、彼は言いました。
「ロベスピエール、次はお前だ」
そして、その言葉はその通りになったのです。
席を自由に決めることのできる会議では、同じような意見の人が固まりになって座ろうとするのはどこの世界でも同じようです。
第一、その方がとっさの打ち合わせもできるし、周りに味方がいるということで、あまり馴染みのない人に左右を囲まれているときよりも、自分の意見を堂々と言うことができます。
フランス革命時の国民議会でもそうでした。議長の右側には保守派の人が、左側には急進派の人達が座るようになり、ここから「右派」と「左派」の言葉が生まれたのです。ですから、この言葉は日本語独自ではなく、フランス語由来と言うわけで、世界の多くの国でも、「左」と言えば急進派、「右」と言えば保守派を指します。
座席と言えばもうひとつ。「山岳派(モンターニュ派)」と「平原派(あるいは「沼沢派)」があります。これはロベスピエールやサン・ジュストなどが議場の上の方に陣取ったので、そのグループを「山岳派」と呼び、議場の真中に座っているのだけれど、いるんだかいないんだかわからないその他大勢の人達のことを軽蔑を込めて「平原派(あるいは「沼沢派)」と呼んだのです。
そう言えば、遠足のことを思い出してください。私もそうでしたが、元気のよい生徒というのは、どういうわけかバスの一番後ろが好きで、後ろの一帯を自分達の仲間で固め、賑やかにしたがったものです。実際、「山岳派」の人達も議場の後ろの方で賑やかに政治をしていたのかもしれません。
この事実を知らないとき、私は「山岳」と聞けば、登山しか思いつきませんでしたから、「山岳派」の人達は、「革命」と言う重い荷物をしょって、「お金持ちも貧乏もいない世界(サン・ジュスト)」を目指し黙々と山岳地帯を登山しているから、だと思い込んでいました。それに、「沼沢」という言葉は、何か陰気で不気味でふつふつとした気がしますから、対比させてそう名づけられたのだろう、と思っていました。実際、この「沼沢派」の人達がロペスピエール達を滅ぼしたのですから、沼地には何が潜んでいるのかわかりません。