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一言で説明すると…ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。舌足らずのため、誤解を招くこともあるかもしれません。また、勉強不足で重大な事実を見過ごしているかもしれませんが、ご参考程度にお読みください。 |
テルミドールの反動の直前、サン・ジュストは次のような言葉を書き残しています
「革命は凍てついてしまった。全ての原理は弱体化した。あとは策動家が赤帽子をかぶるだけだ。」
自らも推し進めていた恐怖政治が、理想としていた共和国を作り上げていくものではないという現実に直面して、サン・ジュストは深い絶望に沈んでしまったのです。彼は革命に絶望し、国民に絶望し、腐敗しきった同僚に絶望していました。疲れ果てた彼は、死を望むようにまでなっていました。
「人と生まれたからには何人も死の運命をまぬかれることはできない。もしも、自由のために非業の死を遂げることが私の運命ならば、それから逃れるどころか、喜んでその運命を受け入れるだろう。」
この問いに対してサン・ジュストはこう言っています。
「ロベスピエールを独裁者として扱うのは敵の手先だけだ。 なぜなら、彼は軍隊も、財政も、行政当局も掌握していないからだ」
サン・ジュストはロベスピエールの腹心ですから、全てを鵜呑みにできないとは言え、事実としてはそれに近いでしょう。
しかしながら、ロベスピエール派と言われる人物は全て、私利私欲とは全く無関係でした。彼らの業績をあまり認めない人達もいますが、その人達でさえ、彼らが名声や権力に己を見失うことなく純粋に理想を追い求め、金銭問題や女性問題など一切起こさず、あらゆる意味で腐敗していなかったことは認めざるを得ないのです。このような政治家が存在していたということは、洋の東西を問わず稀有なことでした。
そして、恐怖政治もまるで、ロベスピエールひとりが全員を断頭台に送っていたように誤解されがちですが、別の項でもご説明しましたように、彼自身はやたらと人々を処刑していたわけではありません。
そもそも恐怖政治は、内外の危機を打開するための民衆の要求でもありました。そして、ロベスピエール達がその要求を受け入れ、徹底した恐怖政治を行ったのです。
しかし、間近に迫っていた危機が去ると、民衆は恐怖政治を嫌悪し、ロベスピエール派の没落を許しました。この辺の自己矛盾に満ちた袋小路のような状況がいわゆる「ロベスピエールの悲劇」と言われるものです。革命は凍てつき、この時点で先に進むことができなくなっていました。
歴史に「もし」はありませんが、もし、内外の戦局が好転した機をとらえて、「恐怖政治」を解消し、棚上げされていた「1793年の憲法」を実施していたとしたら、事情は違っていたでしょう。しかし、民衆が「ギロチンの嘔吐」とよんだ恐怖政治は、それを作り出したロベスピエール達でさえ自由に操れない巨大な化け物になっていました。
恐怖政治を「狂気」と呼ぶのはたやすいでしょう。確かに、多くの無実の者がわけもなく処刑されていました。それを「非人道的」と20世紀の感覚で非難することは、「仕方なかった」とか「必要悪だった」とかで済まそうとするのと同じくらい安直なことかもしれません。
私は個人的には山岳派、特にサン・ジュストの肩を持っておりますが、「恐怖政治」については事実として捉えるより方法がないと思ってます。
なぜならば、彼らが2年足らずの内に行ったことは、前代未聞のことだったのです。ほんの少し前まで、国王がいなければ太陽が昇らない、と誰も彼もが信じていました。そんな中で国王を処刑し、恐怖政治を進めることで、何世紀も続いてきた封建制や一切の旧いしきたりを廃止し、民衆とは全く無関係だった政治を民衆のものとしました。
今でこそ当たり前のことですが、当時は何の前例もなく、ただただ見たことの内「共和国」を築き上げようとしていたのです。彼らの教科書は古代ローマの共和制でした。とにかく前に進むしかありませんでした。
イメージで言うとこうでしょうか。
巨大な古いお城を壊して見晴らしをよくしたのが「ロベスピエール派」
崩壊したお城の跡でうろうろしていたのがいわゆる「テルミドール派」
瓦礫やらなにやらをきれいに片付け、また別のお城を作ったのが「ナポレオン」
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