このページの背景画像は「Sweet Home Page」さんからお借りしました。

 9.テルミドール九日  

順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
お好きなところからどうぞ。下線の部分をクリックすると飛びます。

9.テルミドール九日
  1. 山岳派の内部闘争内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」エベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。
  2. ロベスピエール独裁「寛容派」と「過激派」を倒した後、内部に多くの矛盾を抱えながらロベスピエールの独裁が始まります。「最高存在の祭典」の中でその権力は最高点に達しました。
  3. 公安委員会分裂公安委員会もロベスピエールの独裁に対立しました。そんな中、ロベスピエールは自ら墓穴を掘るようなことをしてしまい、「運命の日」がやってきました。
  4. 運命の日テルミドール九日。ロベスピエール派の最後の説得も空しく、共和国樹立に命を賭けた真の政治家達が文字通り、自由のために非業の死を遂げました。
  5. 凍てついた革命ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。

v. 凍てついた革命

一言で説明すると…ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。舌足らずのため、誤解を招くこともあるかもしれません。また、勉強不足で重大な事実を見過ごしているかもしれませんが、ご参考程度にお読みください。

革命は凍てついた

テルミドールの反動の直前、サン・ジュストは次のような言葉を書き残しています

「革命は凍てついてしまった。全ての原理は弱体化した。あとは策動家が赤帽子をかぶるだけだ。」

自らも推し進めていた恐怖政治が、理想としていた共和国を作り上げていくものではないという現実に直面して、サン・ジュストは深い絶望に沈んでしまったのです。彼は革命に絶望し、国民に絶望し、腐敗しきった同僚に絶望していました。疲れ果てた彼は、死を望むようにまでなっていました。

その思いはロベスピエールとて同じでした。

「人と生まれたからには何人も死の運命をまぬかれることはできない。もしも、自由のために非業の死を遂げることが私の運命ならば、それから逃れるどころか、喜んでその運命を受け入れるだろう。」


ロベスピエールは独裁者だったのか

この問いに対してサン・ジュストはこう言っています。

「ロベスピエールを独裁者として扱うのは敵の手先だけだ。 なぜなら、彼は軍隊も、財政も、行政当局も掌握していないからだ」

サン・ジュストはロベスピエールの腹心ですから、全てを鵜呑みにできないとは言え、事実としてはそれに近いでしょう。

軍隊を掌握しているのは、事実上カルノーです。カルノーは公安委員ですが、もともと平原派出身で、テルミドールの頃はロベスピエールとは反対の立場を取っていました。

財政は、公安委員会とは完全に別の機関である「財政委員会」が握っており、この委員は山岳派ではなく、平原派の議員で占められていました。

行政は、もちろん国民公会が握っていました。ただし、ロベスピエールが恐ろしくて、何も反対しませんでしたから、最後の4ヶ月はほとんどの法案は通過していました。

ロベスピエール自身は権力など望んでいませんでしたが、あくまでも理想の共和国を築き上げようと熱心のあまり、強引になり、独裁者になるつもりなどなくても、独裁者への道を進んでいたことは事実でしょう。

しかしながら、ロベスピエール派と言われる人物は全て、私利私欲とは全く無関係でした。彼らの業績をあまり認めない人達もいますが、その人達でさえ、彼らが名声や権力に己を見失うことなく純粋に理想を追い求め、金銭問題や女性問題など一切起こさず、あらゆる意味で腐敗していなかったことは認めざるを得ないのです。このような政治家が存在していたということは、洋の東西を問わず稀有なことでした。

そして、恐怖政治もまるで、ロベスピエールひとりが全員を断頭台に送っていたように誤解されがちですが、別の項でもご説明しましたように、彼自身はやたらと人々を処刑していたわけではありません。

                                       

恐怖政治の果て

そもそも恐怖政治は、内外の危機を打開するための民衆の要求でもありました。そして、ロベスピエール達がその要求を受け入れ、徹底した恐怖政治を行ったのです。
しかし、間近に迫っていた危機が去ると、民衆は恐怖政治を嫌悪し、ロベスピエール派の没落を許しました。この辺の自己矛盾に満ちた袋小路のような状況がいわゆる「ロベスピエールの悲劇」と言われるものです。革命は凍てつき、この時点で先に進むことができなくなっていました。

歴史に「もし」はありませんが、もし、内外の戦局が好転した機をとらえて、「恐怖政治」を解消し、棚上げされていた「1793年の憲法」を実施していたとしたら、事情は違っていたでしょう。しかし、民衆が「ギロチンの嘔吐」とよんだ恐怖政治は、それを作り出したロベスピエール達でさえ自由に操れない巨大な化け物になっていました。

恐怖政治を「狂気」と呼ぶのはたやすいでしょう。確かに、多くの無実の者がわけもなく処刑されていました。それを「非人道的」と20世紀の感覚で非難することは、「仕方なかった」とか「必要悪だった」とかで済まそうとするのと同じくらい安直なことかもしれません。

私は個人的には山岳派、特にサン・ジュストの肩を持っておりますが、「恐怖政治」については事実として捉えるより方法がないと思ってます。

なぜならば、彼らが2年足らずの内に行ったことは、前代未聞のことだったのです。ほんの少し前まで、国王がいなければ太陽が昇らない、と誰も彼もが信じていました。そんな中で国王を処刑し、恐怖政治を進めることで、何世紀も続いてきた封建制や一切の旧いしきたりを廃止し、民衆とは全く無関係だった政治を民衆のものとしました。

今でこそ当たり前のことですが、当時は何の前例もなく、ただただ見たことの内「共和国」を築き上げようとしていたのです。彼らの教科書は古代ローマの共和制でした。とにかく前に進むしかありませんでした。

イメージで言うとこうでしょうか。

巨大な古いお城を壊して見晴らしをよくしたのが「ロベスピエール派」
崩壊したお城の跡でうろうろしていたのがいわゆる「テルミドール派」
瓦礫やらなにやらをきれいに片付け、また別のお城を作ったのが「ナポレオン」


       
←←概略の目次へ i.山岳派独裁へ
ii.ロベスピエール独裁へ
iii.公安委員会分裂へ
iv.運命の日へ
v.凍てついた革命へ
ひとつ前の「概要」に戻ります ホームに戻ります 次の「概要」に進みます