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一言で説明すると…「寛容派」と「過激派」を倒した後、内部に多くの矛盾を抱えながらロベスピエールの独裁が始まります。「最高存在の祭典」の中でその権力は最高点に達しました。 |
ダントンやエベールの粛清より前、サン・ジュストは2月26日にいわゆる「風月(ヴァントーズ)法」を提案しました。
これは、反革命家の財産を没収し、それを貧民に無償で分配するというものです。貧農に土地を与えることによって、彼らを生産者にし、「圧政も搾取もない(サン・ジュスト)」平等な世界を作ろうとしたのです。
しかし、マルクスが「巨大なる錯覚」と評したように、貧農に土地を与えるということはサン・ジュストが考えていたほど簡単なことではありませんでした。農具も家畜も持たない彼らは土地よりも日々のパンを望んでいました。
この法令は、国民議会を通ったものの、貧民リストを作成している間にテルミドール九日を迎えてしまい、結局、実現されませんでした。
1794年4月以降、公安委員会の独裁と言うよりも、ロベスピエールの独裁、もしくは、サン・ジュスト、クートンの三頭政治の独裁に入ります。左の暴力と右の腐敗を断ち切った彼らは「徳」の支配する世の中がついに現れたと信じ、コミューンとジャコバン・クラブを率いて、革命を最終的に完成させようと努力しました。
ロベスピエールの独裁の四ヶ月は、「勝利、恐怖、美徳」の3つの言葉に要約できます。
カルノーが再編成した100万の軍隊は、民主化の徹底と軍規の確立、積極的な攻撃を中心とする戦術によって大きな成果をあげました。ビシュグリュ率いる15万の軍隊はフランドルで、ジュールダンの率いる4万の軍隊はフリューリュスで(6月26日)で、オーストリア軍やイギリス=オランダ軍を打ち破りました。そして、6月末から一ヶ月間でフランス軍はベルギーを解放しました。
勝利は恐怖政治の成果でしたが、戦勝は人々の緊張を和らげ、恐怖政治の継続に疑問を持たせるものでもありました。
公安委員会は、革命裁判を行う権限をパリに集中させ、地方派遣委員が勝手にテロを行うことを防止しました。それと同時に革命裁判の手続きを早め、被告の弁護を認めず、判決は無罪放免か死刑かのどちらかしかないようにしました(6月10日)。
1793年3月から1794年6月までの1年4ヶ月の間、パリで処刑された人は1251人でしたが、1794年6月から7月までのたった2ヶ月間の処刑は1376人にも及びました。
もちろん、フランス全土で処刑された人の数はこれよりはるかに多く、内乱の勃発した地域ではパリの5倍の人が処刑されましたし、見境のないテロリズムは、公安委員会の手によるものよりも、フーシェなどの派遣委員によって大規模に行われました。
恐怖政治が続くことによって、公安委員会は民衆ともブルジョワともうまくいかなくなっていきました。多くの政治クラブもいつのまにか姿を消し、報道の自由はなくなり、活動しているのはジャコバン・クラブだけとなってしまいました。
ロベスピエールは恐怖政治を美徳という土台の基で行おうとしました。
「平和時における政府の基礎が美徳であるとすれば、革命時における政府の基礎は美徳と恐怖の二つである。−−美徳なき恐怖は災いを生み、恐怖なき美徳は力を持ち得ない」
美徳を尊重する以上、美徳と深い関わりを持つ宗教との関連が問題になります。ロベスピエールは、宗教そのものを攻撃することはなく、むしろキリスト教に代わる新しい国家宗教を打ち立てようとしました。
「フランス人は、最高存在の存在と霊魂の不滅を認める」という宣言に始まる5月7日の法令に基づいて、6月8日、「最高存在の祭典」がテュイルリー宮殿の庭園で行われました。
数日前、国民公会の議長に選ばれたロベスピエールは祭典の最高責任者として演説し、無神論の肖像に火を放ち、その灰の中から知恵の像を浮かび上がらせました。それが終わると、シャン・ド・マルスへと向かう行進が始まり、賛歌が歌われ、「共和国万歳」の叫びが上がりました。
集まった群集は50万と言われます。ロベスピエールは、この祭典により、民衆の道徳心と祖国愛を奮い立たせ、革命の危機を乗り越えようとしていたのです。
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