ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
サディズムの語源となった人。
南フランスに広い領地を持つ名門貴族。22歳のとき富裕な裁判長の娘と結婚したが、信心深くて貞淑な妻には飽き足らず、「あらまあー」というようなことをしでかしてスキャンダルを起こしている。
毒殺未遂の容疑で逮捕状が出ると、妻の妹と駆け落ちしてイタリアに逃げた。その間に欠席裁判で死刑が宣告されて、本人の代わりに肖像画が火あぶりになった。(この辺のことは本ホームページとはあまり関係がないので、興味のある人はその手の本などを参考にしてください。ちなみに、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」は非常に興味深い戯曲です。)
サディストの大御所サド侯爵はそんなことくらいでは全く懲りず、相変わらず醜聞を引き起こしてばかりいるので、妻の母親が腹を立て、家名を守るために彼を一生獄中に閉じ込めておこうとしてルイ16世に直訴した。
その結果、特別囚人としてパリの監獄に10年あまり幽閉されたが、食費も自費でまかなうなど、監獄の中でも贅沢な暮らしを続けた。 しかし、贅沢と言っても囚人には変わりなく、退屈紛れにこれまでの貴重な体験を元に「ソドム百二十日」、「美徳の不幸」、「悪徳の栄え」などの小説を次々に執筆した。
50歳のときにフランス革命が起き(と言うわけで、そうは思えないかもしれないですが、彼もフランス革命の時代に生きていたのでした。)、自由の身となった彼は獄中で書いた小説を出版したが、ナポレオンの時代になってから、今度は「猥褻文書」の罪に問われ、投獄された。
刑務所から刑務所にたらいまわしさせ、その間に妻からは離婚され、財産も息子に取られ、貧しさの中、精神病院に入れられた。そこでも執筆に励んだが、晩年は貧しく孤独だった。
一生の内、七回逮捕され、延べ十六年も監獄で過ごし、一度は死刑を宣告された彼は精神病院でひっそりと死んだ。
監獄で書いた膨大な小説は警察と遺族が半分ずつ分けた。警察が押収したほうは危険文書と言うことで焼却し、遺族が保管したほうは長い間隠されつづけた。
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革命の大天使。
中部フランスの農家に生まれ、フランスの法科大学を出る。1789年にはエロティックな風刺歌「オルガン」で、伝統、権威、国王を批判した。この本は当然のことながら発禁処分となり、逮捕状が出て逃亡する。その間にルソーの強い影響を受け、ロベスピエールに熱烈な手紙を書いた。
1790年には23歳で国民衛兵隊長となり、その年の7月14日の連盟祭に参加。
1791年には「革命及びフランス憲法の精神」を発行し、革命の最も若い理論家となる。
1792年、8月10日の革命後、最年少の25歳で国民公会議員となり、国王裁判では、国王の断罪と処刑を要求した有名な「処女演説」を行い、政治の桧舞台に鮮烈デビューした。
1793年に公安委員会に入り、ロベスピエールと共に恐怖政治による山岳派独裁を確立し、冷厳な論理、果断即決と厳格な禁欲主義で革命に貢献した。ライン軍と北部軍に派遣され、軍規粛正と戦局の立て直しに尽くし、指導者としての非凡な才能と能力を遺憾なく発揮。
1794年には、国民公会議長となり、貧農への土地無償分配を規定する風月法(ヴァントーズ法)を議決した。
テルミドールの前にロベスピエールと意見を異にしたと言われるが、最後の演説は反対派に妨害されて果たせず、ロベスピエールと共に処刑された。
その両性具有的な美貌から「革命の大天使(Alchange de la Revolution)」と呼ばれ、フランス革命に若くして殉じた純粋な精神の革命家として、評されている。
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ルイ16世の最後の言葉を消した人。
国民衛兵司令官。ヴェルサイユ行進に参加し、1792年6月20日では非公式な司令官としてデモ隊を率いた。8月10日の蜂起に活躍。国王一家がタンプル塔に幽閉されると、新しく国民衛兵司令官となったサンテールは毎日、一家の居住を点検した。10月に少将、ヴァンデの反乱軍と戦い、10月ツーロンの反徒に敗北。オルレアン派として逮捕、投獄され、テルミドール反動後、釈放され政治から引退。
1793年ルイ16世が処刑される間際、最後の言葉を述べている最中に太鼓の音を大きくしてその声を消したのはサンテールである。
また、ビール醸造業者で裕福な生活をし、サン・キュロットとは言いがたかったが、サン・キュロットの立場に立った行動を取った。しかしながら、女性の進出には反対し、
「この地区の男達は仕事から帰ったとき、必ずしもやさしい心根を育てるとは限らない集会から細君が帰ってくるのを迎えるよりも、家の中がきちんと整頓されているのを見るほうが好きなのだ」
と言っていた。