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一言で説明すると…テルミドール九日。ロベスピエール派の最後の説得も空しく、共和国樹立に命を賭けた真の政治家達が文字通り、自由のために非業の死を遂げました。 |
7月22日、妥協を図るため、公安委員会と保安委員会の合同会議が開かれました。サン・ジュストらがロベスピエールに妥協を勧めましたが、ロベスピエールは耳を貸しません。
7月26日、すなわちテルミドール(熱月)8日、国民公会でロベスピエールは、サン・ジュストやクートンと打ち合わせをしないまま(打ち合わせていれば、二人は思いとどまらせるよう説得したでしょう)、「静粛されなければならない議員がいる」という抗議の演説をしました。後ろぐらい過去を持つ議員達は、その名前を言うように要求しましたが、ロベスピエールは拒みました。攻撃されているのが誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがりました。
その晩、ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説しました。
「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である。(中略)私は、今、諸君らに別れを告げているように思われる」
この予感はサン・ジュストにもありました。彼は少し前にこのように書き残しています。
「墓よ、お前を天命の救いとして切に求める。祖国と人類に対して企てられた犯罪が罰せられないでいるのをこれ以上見ていられない」
二人の予感はその通りになりました。
午前11時、ロベスピエールらは国民公会に臨んで、情勢を覆そうと最後の試みをしました。しかし、反対派は議長のコロー・デルボワ(公安委員会のメンバーです)と共謀して、彼らの発言を封じる計画をしていたのです。
サン・ジュストが発言を求めましたが、後ろ暗い過去を持つタリヤンにさえぎられました。
「暴君を倒せ!」という野次と怒涛の中で、ロベスピエールは11回も発言を求めましたが、議長によって拒否されました。
タリアンが発言を許されました。彼は、ロベスピエール派の逮捕を要求しました。ロベスピエールが発言を求めながらも果たせないでいる内に、午後3時、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ルバ、ロベスピエール弟を逮捕する決議が通過しました。
午後7時、セクションの民衆がぞくぞくと集まり、3500人に達しました。しかし、ロベスピエールは蜂起の先頭に立つことを拒否しました。独裁者と呼ばれたくなかったのです。
国民公会では、アンリオの兵隊の数が少ないのを知って勇気を出した議員達が、アンリオ、ロベスピエールらコミューンに従うものを法の外に置くことを決めました。つまり、裁判なしで処刑することです。
市役所の一室では、ロベスピエールによる説得が続いていました。しかし、何の結論も出ません。夜になって兵隊は帰途につきました。
混乱が起きました。
ロベスピエールの弟は二階から飛び降り、クートンは階段から転げ落ち、サン・ジュストは抵抗せずに逮捕され、アンリオも逮捕され、ルバはピストルで自殺をし、ロベスピエールはあごに傷を負って倒れました。
翌朝、彼らはコンシェルジュリに移されました。ロベスピエールに忠実だった革命裁判所のフーキエ・タンヴィルは彼らの有罪を宣告しました。
その日の夕方5時、3台の馬車がトン・トレノ通りを革命広場に向かいました。民衆は彼らに罵声を投げつけました。
処刑された者は22名です。皆、従容と死に向かいました。
「革命の大天使」といわれたサン・ジュストは、最後にロベスピエールに「アデュー」と言い残し、断頭台にのぼりました。27歳の誕生日(8月25日)まであと一ヶ月でした。
20番目に断頭台に上ったロベスピエールは、午後8時頃、36歳の生涯を閉じました。
翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑されました。
コミューンのメンバーもロベスピエールと共に息の根を止められました。そして、真の意味での革命もここで終わりを告げました。
この一連の出来事によるロベスピエール派の失脚、処刑を「テルミドールの反動」と言います。 |
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