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一言で説明すると…公安委員会もロベスピエールの独裁に対立しました。そんな中、ロベスピエールは自ら墓穴を掘るようなことをしてしまい、「運命の日」がやってきました。 |
戦争の勝利がロベスピエールの没落を着々と準備していました。戦争のために始められた独裁は、戦争の勝利によって覆されることになるのです。
サン・ジュストは次のように書き残しました。
「あたかも強い酒が口の感覚を鈍くするように、恐怖政治の実行は犯罪の感覚を鈍くした」
戦争が片付いた今、人々はもっと穏健な政府を望んでいました。
フーシェやタリヤンなど、地方派遣委員として行き過ぎた弾圧をしてきた議員達は、いつロベスピエールの非難を受けるのか、戦々恐々でいました。彼らは、攻撃を受ける前にこちらから先制攻撃をしようと連絡を取り合っていました。
また、国民公会では、エベール派とダントン派を処刑してから、ロベスピエールらが提出する全ての法案をほとんどなんの反対もなく通過させていました。しかし、発言をしなかったのは恐怖からであり、意見がなかったからではありません。恐怖に怯えている議員達は、やましいところのある議員達と水面下で手を結んでいました。
前線で輝かしい戦果をあげたカルノーが発言権を強め、サン・ジュストと対立するようになりました。カルノーは平原派から山岳派に移った人間で、極端な平等主義や経済統制を嫌っていました。
本来のロベスピエールは、優秀な政治家で仲間の感情に敏感であり、また政府の団結にいつも心を配っていました。それが1794年の夏から、気難しく猜疑心の強い人間になってしまいました。
もう、ロベスピエールに味方する人間は、サン・ジュストとクートンのみでした。
公安委員会のこのような空気に嫌気がさしたのか、ロベスピエールは6月の半ばから7月26日まで、公の席にほとんど姿を見せませんでした。どうして、ロベスピエールのような人物がこのような自殺的な行動を取ったのか、今でも謎であるとされています。
いずれにせよ、この間に反対派の陰謀はだんだん具体的になっていきました。
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