記事No | : 1794 |
タイトル | : 選びの結果と認知症 |
投稿日 | : 2012/12/11(Tue) 11:50:01 |
投稿者 | : 桃青 |
あるひとが認知症になるのは、そのひとの「選びの結果」なのだろうか?
母は、人生の場面、場面、あるいは、日々の生活の中で、様々に選びを重ねてきたその集大成として認知症になったのだろうか?
「そのひとが受ける結果は、そのひとの選びによる。」
を真理真実と教える某M教では、当然、母が認知症になったのは、母の選択の結果ということになる。
ちなみに某M教にあっては、地震災害に遇うのもそのひとの選びの結果、日本の有様が今現在このようであるのは、(某M教徒以外の)日本人の選びの結果、ついでに原爆を落とされたのも(某M教徒以外の)日本人の選びの結果だと漠然と思っている。
問い詰めれば、相手の剣幕に驚いて「たとえ教えはそうでも、私はそうは思っていません。」などと、あわててその場逃れに言うが、外部の眼が届かない自分達だけの集まりの場だと思えるようなところではそのように言う。
その場の雰囲気に合わせて、自分の立場が良くなるようにウソでもなんでも言うという姿勢は、先の大統領選で「時々で自分の都合のよいように立場を変える」と評された某M教徒の候補者ばかりではない。
そして、そのような姿勢のひとは、某M教徒ばかりに見られるのではなく、どこにでもいる。
(某M教の元大統領候補氏が時々で主張を変えることに対して、アメリカ国内では不信感をもつ者もいたが、某M教会内で自他共に知識人を認ずる人々は「物事に対して柔軟に対処できることは素晴らしい。その柔軟さこそが某M教の真骨頂だ。その柔軟さが日本人にも欲しい。」と称賛している。
日本人的感覚だと、そのように軸足を時々でコロコロと変えるひとは、あいつはすぐにブレるとか、言ってることに信用が置けない。とか、不信感を持たれるのが普通だ。
いや、アメリカ国内にも、ロ氏は軸足が変わる、と批判するひともいたぞなもし?)
認知症になるのも、家族が認知症になるのも、全ては、そのひとの選びの結果だというように、
つまり、「あのひとは私とは全く関係ない別の世界の出来事の中にいる。」
と、漠然と思っているひとは、某M教会内ばかりでなく、どこにでもいる。
そういうひとは、例えば、仏教の因縁の説明を聞いても、聞いた途端、瞬時に
「なるほど、認知症になったのは、そのひとの作って来た因縁によるのだな。私は、あのひとのようには生きて来なかったので、私の因縁とあのひとの因縁は違う。
だから私は認知症にはならないわ。ああ、良かった!」
と、ほっとするのだ。