記事No | : 1796 |
タイトル | : 他業、自業、他得、自得、そしてその先 |
投稿日 | : 2012/12/14(Fri) 10:34:55 |
投稿者 | : 桃青 |
某M教会の説くように、あるいは、某M教会の教えを知らないままに某M教のようにモノを見る人は、認知症も家族が認知症になることも、そのひとの「選びの結果」だと見る。
とりわけコンピューターの動作の基本が、「0」と「1」であると知っている世代には、「人生て結局、全て、する、しない。どちらを選ぶかだ。」というような考え方に取り憑かれているひとを散見する。
実は、白状すると、私も、ちら、とそんなことを考えたこともあったので、彼らが0、1で物事を捉えて考えているようなことは解るのです。(笑)
私の場合は、私のその思いつきを即座に否定し一笑に付してくれた大人達がいましたが、某M教なんてところは宗義がそうだから一生「0、1」「するか、しないか」思考で生きて行くのでしょうね。
おまけにそんな思考の持ち主が、社会のルールを決める側に立ちつつある。
困るなー。ほんとーに、困る。
さて、仏教では、「認知症の母」を見るのにも、「認知症の母を介護する私」を見るのにも、「選択の結果」などという見方はしない。
他業他得、他業自得、自業他得、自業自得と見る。
そして、この4つをひっくるめて自業自得と見る。
某M教を代表とする「0,1」「する、しない」思考が説く「選択の結果」などというものが、狭い意味での自業自得のそのまた一部分でしかないことが解るだろう。