唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。 三国演義風に云うと、天下大勢,合久必分というわけである。この間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。
その十国のなかに後蜀(大蜀=蜀。大は美称)という国があり、そこの趙崇祚が編集した詞集が『花間集』である。
『花間集』とは、唐末・開成元年(836年)から後晋・天福五年(940)までの晩唐五代の詞人の作品を集めた填詞集名である。編者が後蜀なので、蜀人のものが多い。全十巻構成(流布本によって多少動きがある)、各巻五十首(巻六は五十一首、巻九は、四十九首)で、計五百首になり、温庭外十七家、五百首が集録されている。その内、温庭のものがトップに位置し、
最多数(一割強:六十六首)であり、詞集全体の方向性も打ち出しており、極言すれば、(とりわけ巻一、巻二等は、)温庭集(?)とも謂えるものになっている。他の詞人は、
掲載詞数から云えば、温庭に次いでは 孫光憲が多く、更に顧夐、韋莊と、ここまでが目立った詞数である。引き続いて、李洵、牛、毛文錫、毛煕震、張泌、和凝、薛昭蘊、歐陽炯、魏承斑、皇甫松、牛希濟、閻選、尹鶚、鹿虔yi3となっている。掲載順次で云えば、温庭、皇甫松、韋莊、薛昭蘊、牛、張泌…となり、些か異なってくる。欧陽烱
編集の傾向は、歐陽炯がその序文でも「…則有綺筵公子,繍幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦;擧繊纖之玉指,拍按香檀。不無C絶之詞,用助嬌態」と述べているとおり、殆どが男女間の情事、春恨を謳っているものからなっている。それは、近体詩の荘重な表現形式では盛りきれないものであるが、同時に、文人≒知識人≒君子≒指導階級が触れてはならない世界であった。可憐なものから過激で濃艶なものまで、多様な作風が集められている。実際、顧夐など、その作風があまりにも濃艶なため、彼は自己の栄達後に、自作詞集を集めさせて焼却処分をしたという例もある。そのような(前出・顧夐や和凝の)過激すぎる作品は、さすがに編輯の段階で落とされている。(それらの作品については「香残詞」の頁を参照)
内容については、形式的には、宋代の詞よりも小令が多く、短いものが主流である。当然詞牌、詞調も傾向が決まってくる。概括して言えば、宋詞に比べて短く、詞調も単純なものが多く、宋詞に比べて変化に乏しい。詞牌をみれば、例えば、菩薩蠻、浣溪沙、更漏子など、填詞の勃興期のものということがよく分かる形式のものが多い。表現内容は、婉約の詞語を多用し、口語も使った表現で、男女の間に起きることを採りあげてうたっている。
『花間集』は、その多くが情愛の詞である。この一派を花間詞派という。花間詞派や南唐詞派(南唐中主・李m、南唐後主・李U)、馮延巳などの流れを受け継ぎ、宋代になって大成された詞の本流とも謂える大きな流れがあるが、これらの詞を婉約詞(派)という。本サイトでは「香残詞」という婉約詞集の頁を作り、幅広く婉約詞を集めている。
『花間集』が後世に与えた影響は大きく、詞といえば花間詞派等のからの婉約詞を意味するような雰囲気になり、日本語で「小唄、端唄」などと訳されたのも、ここから来ている。なお、『花間集』という名の由来は、或いは「花の間」≒「女性の近く」、或いは序文を著した歐陽炯の「賀明朝」から来ているのかも知れない。
なお、『花間集』中の「竹枝」は、『竹枝詞』のページにまとめている。また、『花間集・補巻』のものは、『婉約詞集・香残詞』または『唐宋抒情詩選』の方にある。
これら婉約詞の対極にあるのが、辛棄疾等、憂国の情熱を傾けた詞である。これを豪放詞(派)という。宋代になって発達したものである。本サイトでは「辛棄疾詞」「陸游詩詞」や「碧血の詩編」の蘇軾、張元幹などがその豪放詞派のものに当たる。
このページの底本としては、「花間集校」(趙崇祚輯 李一氓校 商務印書館 1960年)を使った。
それでは、しばし、甘美な婉約の世界に浸られんことを………。
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