ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

 あ・ら・かると ファッション編 vol.1   


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舞台はおフランスですからね。いろいろあります。
  1. ぶらんこ (H12.5.27.UP)
  2. ギロチン・モード (H11.5.14.UP)
  3. 犠牲者の舞踏会 (H11.4.14.UP)
  4. すさまじい髪型 (H12.11.1.UP)
  5. 香水の効能

ぶらんこ (H12.5.27.UP)
フラゴナール作
クリックすると大きな絵

このHPの表紙も飾ったジャン・オノレ・フラゴナール「ぶらんこ」をご存知の方も多いかと思います。(画像をクリックすると大きな絵になります。注意:重いです。)12歳年下のダヴィッドが歴史画を多く描く一方、政治色の強い報道写真家のような立場も担っていたのと比較すると、フラゴナールは軽妙で当時の普段のままの人々(主にブルジョワ)を映し出す肩の凝らない絵を多く描く人気画家でした。

この「ぶらんこ」という作品は正確に言うと「ぶらんこのもたらす幸運」と言います。制作を依頼したのがサン・ジュリアン男爵という少しばかりエロティックでいたずらっぽい題材を好む貴族でした。もともとはフラゴナールにではなく、ドワイヤンという歴史画家に依頼しました。男爵の注文はこうです。

「自分の愛人がぶらんこに乗り、司教がそのぶらんこを揺らしている。私(男爵)は愛人の脚がじっくり見られるところに登場する」

この注文にドワイヤンは憤慨し、フラゴナールを男爵に紹介します。フラゴナールは喜んで引き受けました。ただし、ぶらんこを押すのは司教でなく、愛人の夫に代えました。おちゃめなフラゴナールはこの絵にさらなるウィットを加えます。まるで共犯者のように指を口にあてているキューピット、困惑顔の天使たち。木陰で抱き合っている男女夫の呑気な顔。男爵の快活な表情。若い愛人が男爵を見下ろすいたずらっぽい眼差し。絵はだんだん楽しげになってきます。

しかし、この絵の一番のポイントである脱げたサンダルが空中を飛ぶ、という案は、ドワイヤンが出したものだそうです。フラゴナールの楽しい絵を見ながら、制作を断ったもののつい、アドバイスしてしまったのでしょうか。

フラゴナールは他にもぶらんこの絵を描いています。それから推測すると、当時のぶらんこは子供用の遊びというよりも、大人(女性)の娯楽のような感じです。木の枝に巻きつけられてある紐はかなり長く、そこにはぶらんこを押すこれまた長い紐が付いていて、夫や侍女が揺らします。現在のぶらんこなどとは比べ物にならないくらい、高く大きく揺れそうです。また、座るところには気持ちよさそうなビロードっぽいクッションが敷かれ、それも女性用という感じです。

当時はもちろんジェットコースターなどありませんでした。ぶらんこジェットコースターのように刺激に満ちた女性の乗り物だったのかもしれません。

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ギロチン・モード (H11.5.14.UP)

1792年4月25日午後3時、グレーヴ広場で行われたギロチンによる初めての処刑は、民衆に鮮烈な印象を与えました。その光景を目撃した一人の新聞記者はこのように言っています。

「これまでも、絞首刑に処せられた人間の近くに寄ることはとてもできなかったが、この処刑法には一層恐怖が走った。その準備は見るものを震え上がらせ、精神的苦痛を強める。肉体的苦痛に関しては、ほんの瞬きするくらいの素早さであると聞いているが、私には民衆は処刑人に向かって、旧制度のやり方(絞首刑のこと)に戻ってくれ、と頼んでいるように思われた。」

パリの人々は、このショックをブラックユーモアしてしまおうとしているのか、それともただの悪趣味なのか、変な流行がまかり通るようになりました。

例えば、女性達は金や銀のギロチンをイヤリングにして身に付け、子供達は玩具のギロチンで遊びました。また、もう少しきわどいのがジロンド派のサロン(ロラン夫人のサロン?)での流行です。

デザートが出される時、食卓の上に小さな木製のギロチンが置かれ、政敵ジャコバン派ロベスエールダントンやその他有名人に似た顔の小さな人形がその犠牲になります。そして、そこから赤い液体が流れ出すと、女性達はこぞってその液体にハンカチを浸しました。…というのも、この人形は実は甘いリキュールの小瓶だったからです。(…どんなにおいしくても、本当にこんなものを口に入れることができるのでしょうか。)

このギロチン流行はイギリスにまで及び、にわとりの首を刎ねるのに小さなギロチンを使うのが流行ったそうです。

ロベスピエールもダントンも結局自分達の人形と同じ運命をたどりました。また、遊んでいたジロンド派の多くも断頭台の露と消えました。冗談と言うには、少し…という気がします。

先にお話した、「犠牲者の舞踏会」もそうですが、恐怖も度が過ぎると精神的に、はちゃめちゃになってしまうのでしょうか。それとも、ジョークにでもしてしまわないとやっていられない、ということでしょうか。

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犠牲者の舞踏会 (H11.4.14.UP)

テルミドールのクーデターが起こり、恐怖政治の緊張が一気にほぐれました。政治でも「テルミドール派の反動」がありましたが、一般の社会でも、今まで抑圧されていたものが、まるで火山の爆発のようにどっと噴き出しました。実際のところ、一部の上流社会を除いては、喧伝されているほど当時の風俗は乱れていなかったようですが、上流社会の解放感は普通ではありませんでした。
「ジョゼフィーヌ」
「ジョゼフィーヌ」

もっとも、その代表格のテレーズ・カバリュス(当時はタリアン夫人)、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ(後のナポレオン夫人)などは、テルミドールのクーデターが起きるまで牢獄にいて、明日の運命さえわからず、恐怖の日々を送っていたのですから、この解放感もわからないではありません。

「ミュスカダン、メルヴェイユーズ」
「ミュスカダン、メルヴェイユーズ」

彼女達は、現在の若い女性のファッションから見ても驚くような衣装を身に着け、伊達女(メルヴェイユーズ)と言われました。透き通る布地で作ったドレス、つばの広い帽子、長いショール。時には胸を露わに晒します。これに対して男性は伊達男(ミュスカダン)と呼ばれます。彼らは当時珍しかったネクタイを付け、長い髪をし、広い折り返しのあるすらりとしたズボンをはき、ファッショナブルな色の靴をはき、香水はもちろんじゃこう(ミュスク→ミュスカダン)でした。

まあ、この程度の反動なら、理解できるかもしれませんが、「犠牲者の舞踏会」は理解に苦しむ流行でした。この舞踏会に出席できるのは限られた人でした。それは、身内の誰かを処刑台で失った人なのです。処刑台で人々は、ばっさりと髪を切られ、襟首を広げられます。この舞踏会の参加者は、それにならって髪を短く切ったり、アップしたりして、襟首を広げます。極めつけは、首の周りを赤い絹糸で巻いて処刑を表すのです。当時はスカーフが流行りましたが、犠牲者の遺族は好んで赤色のスカーフを巻くというのですから、この悪趣味には恐れ入ります。

一種のブラック・ジョークでしょうか。でも、このようなことをするのは女性が多いわけですから(処刑されたのは男性の方が多いので)、彼女達は夫や父が断頭台の露と消えたことまで面白がってしまうのでしょうか。今までの抑圧はここまでしなければ解放できないほど強いものだったということなのでしょうか…。一種の集団病かもしれません。ジョゼフィーヌも常連でしたし。

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すさまじい髪型 (H12.11.1UP)
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革命前のフランス貴婦人の髪型は絢爛豪華を通り越して、笑ってしまうようなものでした。髪の手入れに何時間もかかる、と読んだとき、5分もあればOKの私は驚きました。

もちろん、最初からこんな奇抜な髪型をする人はいません。はじめは、髪を高く結い上げてそこに何十個ものリボンをつける程度です。その内に、リボンの代わりに生花を挿すようになりました。でも、生花だと一晩中夜会などをしているとどうしても枯れてしまい、それが貴婦人たちの悩みの種でした。ところが、ある貴婦人の髪にささった花だけはどうしても枯れなかったそうです。

つまり、髪の中に花瓶を挿しこんだわけです。すると、「私はもっと上に行くわ」と思った貴婦人は、髪の中に鳥かごを結いつけてしまいました。髪の毛の中に機械装置が隠されていて、ばねを押すとばらの花がぱっと開き、宝石細工の小鳥が花の上で羽ばたいたのです。ここまでいけば、もう止まりません。みんな我先に新しいものに飛びついていきます。

啓蒙思想が流行って牧歌生活に憧れ始めたときは、庭園をかたどった髪型に人気が集まりました。

どれもこれも想像するのが難しいほどすさまじいものですが、極めつけは1778年、フランス海軍がイギリス海軍に勝ったときに流行した頭の上に戦艦を載せた髪形でしょう(画像参照)。頭に載せた船は針金で作ったものでとても重かったらしく、お供の女性が、貴婦人の頭を棒で支えなければならなかったそうです。

夜もベッドで寝ることはできません。仕方ないので椅子に腰掛けたままの姿勢で眠りました。腰も痛めたことでしょう。いくら支えがあるからといって、まともに歩けたはずはありません。立居振舞いから日常のあらゆる行いに支障をきたしたことは間違いありません。その上、費用も莫大で、少なくても一、二週間は持たせようとしたため、洗髪どころか髪をほどくこともできません。したがって、美しく着飾った貴婦人の髪の中はのみとしらみの巣で不潔極まりなかったそうです。

そこまでしてやりたいお洒落なのか、ほとんど執念だけでやっている競い合いだったのか、ヘアー・デザイナーも貴婦人もずいぶん疲れたことでしょう。

こういう髪型を率先してやったのはもちろん、マリー・アントワネットです。上の写真もマリー・アントワネットがモデルだそうですが、このように高く高く髪を結い上げたおかげで従来の馬車では対応できず、髪が乱れずに乗れるように馬車の形も変わったそうです。

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香水の効能

昔のフランス人がお風呂に滅多に入らなかったのは周知のことです。一ヶ月に一度入れば清潔と言われていました。

当然ながら、汗やら何やらで臭くなってしまいますから、香水は欠かせません。確かに香りを楽しむ、ということもあったのですが、そんな優雅さよりももっと切実な理由があったのです。(そう言えば日本も同じですね。光源氏はさまざまなお香を使っていましたが、それもやはり体臭を隠すためだったそうです。それに反して庶民は 昔からお風呂が好きだったようです。)

お風呂が嫌い、と言うよりも興味そのものがなかったのは貴族も同じです。マリー・アントワネットはオーストリア育ちのせいか、割と清潔にしていたようですが、ルイ16世はあまり好きでなかったようで、馬の匂いがしたそうです。

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